世界文学全集のためのメモをめぐって
「洋楽」といえばもっぱら英語の歌のことを指すのはどうしてだろう、とある友人に言ったら、英語の歌がタイ語やポーランド語の歌に比べて圧倒的に優れているからだろう、と言われた。
ほんとうにそうなのだろうか。英語の歌とタイ語の歌を実際に比べるということを、どれだけの人がしているのだろうか。
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高校の頃、世界史の文化史のところが無性に好きだった。世界のあちこちで、さまざまな時代に、実利的な物事と関係ないことに一生懸命取り組んだ人たちがいて、その人たちの名前が(名前だけだけど)21世紀の日本の教科書に載っている、というのが愉快だった。
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地球のあらゆるところで、さまざまな作家が、さまざまな言葉で書いている――というよりも、さまざまな作家が、それぞれ〈自分たちの言葉〉で書いている。潜在的読者が数億人いる言葉でも、数十万人しかいない言葉でも、数千年前から書き言葉をもっていた言葉でも、数十年ぐらい前からしか書き言葉をもたなかった言葉でも、作家にとっては同じである。作家たちは、同じように情熱的に、真剣に、そして、あたかもそれがもっとも自然な行為でもあるかのように、〈自分たちの言葉〉で書いているのである。〔……〕英語やスペイン語や中国語で書くだけでなく、モンゴル語、リトアニア語、ウクライナ語、ルーマニア語、ヴェトナム語、ビルマ語、クロアチア語などで書いている。(水村美苗『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』筑摩書房、2008年、p. 44)
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多分ぼくは本を読むのがそれほど好きなわけではないのだと思う。
本について語りたいことがいっぱいあるわけでもないし、一日中本を読んでいたいとも思わない。読んでよかったと思える作品よりもよく分からない作品の方が多い。
それなのに文学というものになんとなく執着してしまう。それは文学よりも言葉というものに対する執着、言葉について考え詰めている人たちへの愛着なのかもしれない。
それは、飽きっぽいぼくが1年半もこのシリーズを続ける程度には強いものらしい。
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世界文学全集という言葉を見るだけでなんとなくわくわくするのだが、日本にある世界文学全集には2つ大きな不満がある。
1つは、欧米の文学に偏っていること。西洋以外の言語で書かれた作品は、取り上げられているとしても極端に少ないし、西洋の言語で西洋以外の地域の人が書いた作品もほとんど入っていない。
もう1つは、本を開いても日本語しか載っていないこと。日本語話者のための文学全集だから当たり前といえば当たり前なのだが、いろいろな言語を見る(「読む」じゃなくていい)ということができるかできないかで、ずいぶんと感触が違ってくる。せっかくなら世界で書かれている言葉たちそのものを眺めてみたい。
だからぼくの妄想する世界文学全集(もちろん出版などする気はないけれど)は、できる限り本当に世界中から作品を集めたいし、ほとんど誰も読まないとしても原語との対訳にしたい。
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そして当然ぼくの気に入った作品だけ集めたい。
今やっているのはそのための下調べにすぎないから、一旦できるだけ主観を入れず、その言語圏や世界で評価されているものを選ぶようにしている。翻訳の比較もしているので、ぼくと好みが違う方にも参考になればうれしい。
でも最終的にはその中から個人的に好きなものを集めてみたい。
ちなみにこれまでの24作品の中で、ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』(1857年)、ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』(1947年)、村上春樹『1Q84』(2009-2010年)の3つは、ページをめくるのが特に楽しかった。
あとアシア・ジェバール『愛、ファンタジア』(1985年)と高行健『霊山』(1990年)以下の2つは、読み進めるのはつらかったけれど言葉の強度を感じて惹きつけられた。ジェバールはアルジェリア出身のフランス語作家、高行健は中国出身でフランスに亡命している中国語作家だ。
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正直なところ、中国語編として今回読んだ8作品の中からは、圧倒的に薦めたいと思えるものは見つからなかった。
それは、たまたま今回読んだ作品が合わなかっただけかもしれないし、ぼく自身がこれまで欧米や日本の作品ばかり読んできたせいというのもあるかもしれない。
何年か後にまた中国語編をするつもりなので、そこで気に入る作品に出会えることを期待している。
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次回からの12回はドイツ語編の予定。その後はタイ語かロシア語あたりを考えている。