ひよこのるるの自由研究

日本語で読める世界の文学作品と、外国語に翻訳されている日本語の文学作品を、対訳で引用しています。日本語訳が複数あるものは、読みやすさ重視で比較しておすすめを紹介しています。世界中の言語で書かれたもの・訳されたもののコレクションを目指しています。

世界文学全集のためのメモ 7 『ボヴァリー夫人』 ギュスターヴ・フローベール

フランス語編 5

Gustave Flaubert
ギュスターヴ・フローベール
1821-1880

Madame Bovary
ボヴァリー夫人
1857

日本語訳
①伊吹武彦訳『ボヴァリー夫人』1936/1960年(岩波文庫📗📗
②生島遼󠄁一訳『ボヴァリー夫人』1958/1965年(新潮文庫 📗
③山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』1965年(河出文庫、2009年 📗
④白井浩司訳『ボヴァリー夫人』1967年(旺文社文庫 📗
⑤杉捷夫訳『ボヴァリー夫人』1970年(筑摩書房『世界文学全集28』 📗 pp. 5-288)
⑥菅野昭正訳『ボヴァリー夫人』1976年(集英社集英社ギャラリー [世界の文学]7 フランスⅡ』1990年 📗 pp. 9-313)
芳川泰久訳『ボヴァリー夫人』2009年(新潮文庫 📗

長編小説なのでとにかく読み通しやすいものを、という観点で選ぶと、③山田𣝣訳が一番だ。日本語の文学として群を抜いてさまになっているが、原文と比べてみるとかなり訳者の癖の出た自由な訳で、これを読んでフローベールを読んだと言っていいのかちょっと不安にもなる。もう少しおとなしい訳がよければ、⑥菅野昭正訳と④白井浩司訳が比較的読みやすい。この2つの中では、速めに読むと⑥菅野昭正訳の方が違和感なく読めたのに対して、ゆっくりめに読むと④白井浩司訳の方が引っかかりが少ないように感じた。

[Première partie, Chapitre IX]

Elles allaient donc maintenant se suivre ainsi à la file toujours pareilles, innombrables, et n’apportant rien ! Les autres existences, si plates qu’elles fussent, avaient du moins la chance d’un événement. Une aventure amenait parfois des péripéties à l’infini, et le décor changeait. Mais, pour elle, rien n’arrivait, Dieu l’avait voulu ! L’avenir était un corridor tout noir, et qui avait au fond sa porte bien fermée.

Elle abandonna la musique, pourquoi jouer ? qui l’entendrait ? Puisqu’elle ne pourrait jamais, en robe de velours à manches courtes, sur un piano d’Érard, dans un concert, battant de ses doigts légers les touches d’ivoire, sentir, comme une brise, circuler autour d’elle un murmure d’extase, ce n’était pas la peine de s’ennuyer à étudier. Elle laissa dans l’armoire ses cartons à dessin et la tapisserie. À quoi bon ? À quoi bon ? La couture l’irritait.

— J’ai tout lu, se disait-elle.

Et elle restait à faire rougir les pincettes, ou regardant la pluie tomber. (p. 88)*1

①伊吹武彦訳

 ではこれからは、その日その日がいつも同じように数限りなく、何物ももたらさず、こうしてつぎつぎにつづいて行くのか。ほかの人たちの生活はどんなに平凡でも、せめては事件の起こり得る機会はある。一つの出来事が時によると無限の波瀾をまねく。そして舞台が一変する。それだのに自分にはなにも起こらない。それが神様のお思召ぼしめしなのだ。未来は真暗な一筋の廊下だ、そしてその奥には戸がぴったりとしまっている。

 エンマは音楽を放擲した。ひいてなんになる。誰が聞いてくれる? 演奏会の席上、袖の短かいビロードのドレスを身にまとい、エラールのピアノに向って象牙󠄀のキーを軽やかにたたきながら、恍惚こうこつのささやきがあたりにただようのをそよ風のように感じることが、とうてい自分にできないのであってみれば、厭な思いで練習などするには及ばないのだ。エンマはデッサンの紙挾みや刺繡ししゆうを戸棚の中に捨てておいた。なんになる? なんになる? 裁縫しても気がいらいらした。

「もうなにもかも読みつくした」エンマはこうひとりごちた。

 そして火ばしを赤く焼いたり、雨の降るのを眺めたりした。(上 pp. 77-78)

②生島遼󠄁一訳

 これからこんな日が、永久に変わらず、数かぎりなく、なに一つもたらさずにつづいて行くのか。ほかの人々の生活はどんなに平凡であるにせよ、なにかが起こりうる機会はある。一つの出来事がときには無限の転変を呼び、舞台背景が変わる。だが、自分にはなに一つ起こらない。それが神意なのである。未来は真っ暗な一本の廊下で、そのつきあたりに扉󠄁がぴったりとざされていた。

 音楽をやめた。いたってなんになる? だれがきく? 音楽会でそでの短いびろーどのドレスをきて、エラール・ピアノにむかって象牙ぞうげのキーを軽快な指でたたきつつ、恍惚こうこつのささやきが身のまわりに走るのを徴風のように感じることができないのなら、わざわざ骨をおって練習しないでもいい。写生帳や刺繡も戸棚󠄁の中にうっちゃっておいた。なんになる? なんになる? 針仕事をするのは気がいらいらした。

 「なにもかもみんな読んでしまったし」と心につぶやく。

 そして火ばさみを真っ赤になるまで焼いたり、雨の降るのをじいっとながめたりした。(pp. 76-77)

③山田𣝣訳

 ではこうして、これからさき、いつも今日は昨日に、明日はまた今日に似た毎日が、数限りもなく、何物ももたらさずに、ずらずらと続いてゆくのか! ほかの人たちの生活は、たとえどんなに月並みでも、なにか事件のひとつぐらいは起こる機会があるものだ。ふとした出来事が機縁となって果てしない激変が起こることもあろう、がらりと舞台の背景が一変するきっかけにもなるだろう。ところが自分にはなにも起こらない。それが神様のおぼしめしとみえる! 未来は真っ暗なただ一筋の廊下と延びて、その果てには戸がぴたりと閉ざされている。

 エンマは音楽をぷっつりやめた。弾いてなんになろう。だれが聞く? 演奏会の壇上、袖の短いビロードのドレスを身にまとい、エラール製ピアノの象牙の鍵盤に軽やかな指を走らせると、感嘆のささやきが微風のようにあたりにそよめく、その思いをついに味わい知ることが自分にはゆるされないのであってみれば、いやいやながらのお稽古けいこなどしてなんになる。エンマはデッサンの紙挟みや刺繡をしかけの布までも戸棚にしまい忘れた。ああ、なんになる? なんになる? 裁縫をしても気がいら立ってたまらない。

「もう本もみな読んでしまった」とエンマはひとりつぶやいた。

 そして部屋にこもっては、火箸ひばしの先を赤く焼いたり、雨の降るのをながめたりした。(pp. 99-100)

④白井浩司訳

 こうして今やひとつながりの日々がいつも同じように、なにももたらさずに読いて行くのだろうか! 他の人たちの生活には、たとえそれがどんなに平坦なものであっても、事件の起こるチャンスはある。ときには、あるできごとが限りなく激変を生み、背景が一変するものだ。しかし、彼女にはなにも起こらなかった。神様のおぼしめしなのだろう! 未来はまっ暗の廊下で、その奥には戸がしめたててあった。

 彼女は音楽をやめてしまった。ひく必要がどこにあるというのだ。だれが聞いてくれるというのだろう? 短い袖のついたビロードのドレスを着て、演奏会で、エラールのピアノに向かい、象牙のキーを軽くたたきながら、陶酔のささやきがまわりで、そよ風のようにかわされるのを感じることができないのなら、どうして苦労して練習することがあるだろう。彼女は戸棚󠄁にデッサンの紙ばさみや刺繡ししゆうをしまい込んだ。なんになるのだろう? そんなことをしてどうなるのだ? 裁縫もいらいらした。

 「なにもかも読んでしまった」と彼女は思った。

 そして火箸を赤く焼いたり、雨が降るのを眺めていた。(pp. 81-82)

⑤杉捷夫訳

 では、こうして同じ日が続いて行くのか、いつもそっくり同じで、数限りなく、そして何ものももたらさない日々が! ほかの人たちの生活は、どんなに平板であっても、せめて事件の起りうる機会がないわけではない。一つの事件がときに無限の波瀾を招く。そして、舞台装置が一変する。しかし、エンマには、何ごとも起らない。神の思し召しでそうなっているのだ! 未来は真黒な廊下、そのつき当りの扉󠄁はぴったり閉まっている。

 彼女は音楽をやめた。ピアノをひいて何になろう? 誰がきいてくれるか? 演奏会の席で、袖の短いビロードの衣裳を身にまとい、エラールのピアノに向かって、象牙󠄀のキーを軽快な指でたたきながら、吹きつける風のように、恍惚のささやきが自分のまわりに渦巻くのを感じる、そういうことが絶対にできない以上、苦労して練習などするには及ばない。エンマはデッサン用の紙挾みや刺繡を戸棚の中にしまいこんだままにしてしまった。何になるの? ほんとに何になるの? 裁縫など気がいらいらするだけだ。

「何もかも読みつくしてしまった」彼女は何度もこうひとりごとを言った。

 そう言って、じっと火箸を赤く焼いたり、雨の降るのを眺めたりした。(p. 53)

⑥菅野昭正訳

 それでは、これからは、いつも似たりよったりの毎日が、数えきれないほど、しかもなにももたらさずに、こうしてつづいてゆくのだろうか。他のひとたちの生活は、どんなに平々凡々であっても、すくなくとも事件のひとつぐらいは起る機会がある。ひとつの思いがけぬできごとが、ときとして次から次へと不測の事件をきおこしてゆくこともあって、そうして境遇が一変する。けれども彼女にはなにも起らなかった、神さまはそうお望みになったのだ! 未来は真暗な廊下であり、その奥にはぴたりと閉ざされた戸があった。

 エンマは音楽もめてしまった。弾いたってなんになろう? 誰が聞いてくれるというのか? 演奏会の壇上で、短い袖のビロードのドレスを身にまとい、エラール製のピアノに向かってかろやかな指を象牙鍵盤けんばんに走らせるとき、恍惚こうこつのささやきが微風のようにあたりにひろがるのを感じるような、そんな思いを今後もう味わえないであろう身であってみれば、嫌々ながらお稽古をするまでもない。彼女はデッサンの紙挟みも、やりかけの刺繡ししゆうの布も、戸棚のなかにしまいこんだままだった。それがなんの役に立つのか? いったいなんの役に? 縫物をすると彼女は苛立った。

「もう読むものはすっかり読んでしまったし」と彼女はつぶやいた。

 そして、火箸ひばしを赤く焼いたり、雨が降るのをじっと眺めたりして過した。(pp. 64-65)

芳川泰久

 してみると、これから先、このようにひっきりなしに同じ毎日が絶えず変わることなく、数限りなく、何ももたらさずにつづいてゆくのか! ほかの人の生活だって、どんなに平板でも、少なくとも事件の一つくらい起こる機会には恵まれるものだ。ときには、ふとした出来事から予期せぬ出来事が限りなくもたらされ、舞台の背景ががらりと変わることもあろう。しかし自分には、何も起こらない。神さまがそのようにおぼし召したのだ! 未来とは真っ暗な一筋の廊下で、その突き当たりにある扉はしっかり閉ざされている。

 彼女は音楽をぴたりとやめた。弾いて何になるの? だれが聞くというの? 短い袖のビロードのドレスに身を包み、エラール製のピアノ〔有名なピアノのブランド。一八二一年、ダブルレペティションがグランドピアノのために発明された〕を前に、コンサートで、象牙鍵盤キイを指で軽やかにたたくと、恍惚こうこつとなったささやきが自分の周囲に輪を描きながらまるでそよ風のように広がるのを絶対に感じられない以上、ピアノをうんざりしてまで習って何になるというのだろう。彼女はデッサン用の紙ばさみもタペストリ刺繡ししゅうも戸棚に入れっぱなしにした。何になるというの? やって何になるっていうの? 縫い物をしていても、いらいらした。

「本もみんな読んでしまった」と彼女は思った。

 そして彼女は家に閉じこもったまま、火ばしを赤く焼いたり、雨の降るのをながめたりした。(pp. 110-111)

[Deuxième partie, Chapitre II]

— Avez-vous du moins quelques promenades dans les environs ? continuait Mme Bovary parlant au jeune homme.

— Oh ! fort peu, répondit-il. Il y a un endroit que l’on nomme la Pâture, sur le haut de la côte, à la lisière de la forêt. Quelquefois, le dimanche, je vais là, et j’y reste avec un livre, à regarder le soleil couchant.

— Je ne trouve rien d’admirable comme les soleils couchants, reprit-elle, mais au bord de la mer, surtout.

— Oh ! j’adore la mer, dit M. Léon.

— Et puis ne vous semble-t-il pas, répliqua Mme Bovary, que l’esprit vogue plus librement sur cette étendue sans limites, dont la contemplation vous élève l’âme et donne des idées d’infini, d’idéal ?

— Il en est de même des paysages de montagnes, reprit Léon. J’ai un cousin qui a voyagé en Suisse l’année dernière, et qui me disait qu’on ne peut se figurer la poésie des lacs, le charme des cascades, l’effet gigantesque des glaciers. On voit des pins d’une grandeur incroyable, en travers des torrents, des cabanes suspendues sur des précipices, et, à mille pieds sous vous, des vallées entières, quand les nuages s’entr’ouvrent. Ces spectacles doivent enthousiasmer, disposer à la prière, à l’extase ! Aussi je ne m’étonne plus de ce musicien célèbre qui, pour exciter mieux son imagination, avait coutume d’aller jouer du piano devant quelque site imposant. (pp. 112-113)

①伊吹武彦訳

 「近所に散歩する所ぐらいはございますの?」とボヴァリー夫人は青年につづけて話しかけた。

 「いやあまりありません」と彼は答えた。「丘の上の森のはずれに「牧場まきば」といっている所があります。ときどき日曜日に私はそこへ出かけて行って、本を持って、じっと入日を眺めています」

 「私、入日ほどすばらしいものはないと思います」と彼女は答えた、「しかし海岸の入日はまたひとしおですわ」

 「ああ! 私は海が大好きです」とレオン君がいった。

 「それに、あなたそうお思いになりません?」とボヴァリー夫人はすかさず、「あの果てしない大海原の上を、心はいっそう自由にさまようことができるのだと? そしてその大海原を見ていると魂が高められ、無限とか理想とかいう考えが浮かんでくるのだと?」

 「山の景色もそれと同じです」とレオンが答えた。「去年スイスを旅行した従兄がおります。それがいうのに、湖の詩、滝の魅力、壮大な氷河の趣きというものは、とても想像できないそうです。うそのように大きな松の木が激流の上にのびている、山小屋が断崖絶壁の上にかかっている。雲が切れると、何十丈の足下あしもとに渓谷全体が見渡せる。そういう景色を見たらさぞ感激させられるでしょうね。祈りたくなるでしょうね! 恍惚こうこつとするでしょうね! だから私は、あの有名な音楽家が空想を刺戟するために、しじゅうどこか壮大な景色の前でピアノをひいたという話を別に不思議とは思わないのです」(上 pp. 99-100)

②生島遼󠄁一訳

「この近所にちょっと散歩するような所はございまして?」ボヴァリー夫人はやはり青年に話しかけながら、こういった。

「いいえ、もうじつに少ないのですよ。丘の高みの森のはずれに『牧場』といっている所があります。私は日曜日なんかそこへ行くんです。本をもって行って、陽の沈むのをながめます」

「あたし入り日の景色ほどすばらしいものはないと思いますわ。海岸で見るときなんか、特に」

「おう、私は海が大好きで」とレオン君はいった。

「それに、あなたどうお思いになりまして、あのひろびろとした海の上ならば心はいっそう自由にさまようような気がしませんこと? あれを見ていると魂が高められて、無限だとか理想だとかいった考えもうかんでくるようで」

「山の景色もそれと同じですね」レオンはまたそういった。「私の従兄いとこが去年スイスを旅行しました。その話では、湖の詩、滝の魅力、氷河の壮観といったものはとうてい想像もおよばぬそうです。とても信じられない大きさの松が激流の上にのび、山小屋が懸崖けんがいの上にかかって、雲が切れると千尺も下に谷全体が見わたせる。こういう景色を見たらきっと感激がき、祈りたくなり、恍惚こうこつとなるでしょうね。だから、私はあの有名な音楽家が想像を刺激するためにいつもどこか壮大な景色の前へ行ってピアノをいたという話を不思議には思いません」(pp. 97-98)

③山田𣝣訳

「あなたはいかが? 散歩するところぐらいはこの辺にございまして?」とボヴァリー夫人は青年に話しかけた。

「いいえ、それがほとんどないんです」と彼は答えた。「『放牧場』ってよばれているところが丘の上の森のはずれにありますが、日曜日にはときどきそこへ行って、本を読んだり、夕日の沈むのをながめたりします」

「わたし、夕日ほどすばらしいものはないと思いましてよ」と彼女は答えた。「でも、なんといっても夕日のいいのは海辺ですわ」

「ああ! 僕も海が大好きです」とレオン君が言った。

「それに、あなたはいかが?」とボヴァリー夫人は応じた。「わたしには、あの果てしない大海原こそはわたしたちの心をいっそう自由にさまよわせてくれるし、じっと見入るわたしたちの魂を高めてくれ、無限とか理想とかいう観念を与えてくれるように思いますわ」

「山の景色だってそうです」とレオンがひきとった。「去年従兄いとこがスイスをまわって来たんですが、彼の言うには、湖の幽邃ゆうすいさといい、山中の飛瀑ひばくのおもしろさといい、氷河の雄大なおもむきといい、想像に絶するそうです。とてつもなく大きな松の木が滝つ瀬のこちらの岸から向こう岸まで枝をのばしている、山小屋が絶壁の上にあやうくかかっている、雲の切れ目に見おろせば、千フィートの足下そつかに谷また谷の全景がひろがっている。そういう景色に接したなら、感激もするでしょう、祈りたくもなるでしょう、さぞかし我を忘れることでしょう! だから僕は、あの有名な音楽家が、感興にいっそう拍車をかけようと、どこか壮大な景色を求めては出かけて行って、その景を前にしてピアノを弾いたという逸話を、さもあろうと納得するのです」(pp. 126-128)

④白井浩司訳

 「この辺に散歩できるような所ぐらいはございまして?」とボヴァリー夫人はなおも青年に話しかけた。

 「ほとんどありません。森のはずれの丘の上に『牧場』と呼んでいるとこがあるんですか、日曜日にそこにときどき行って、本を読んだり、入り日を見たりするのです」と青年が答えた。

 「わたくし、入り日よりすばらしいものはないと思っておりますの」とエンマは話を続けた。「とくに海辺の入り日はすてきですわ」

 「ああ、ボクも海が大好きです」とレオンがいった。

 「それではあなたはいかがかしら?」とボヴァリー夫人がたずねた。「この果てしない大海原うなばらの上を心はいっそう自由に駆けめぐり、じっと見つめていると魂が高まり、無限とか理想に対する考えを与えてくれるようにわたくしには思えるのですけれど?」

 「山の景色もそれと同じですよ」とレオンが答えた。「昨年、従兄いとこがスイスに行ってきたのですが、湖の詩情だとか滝のすばらしさ、氷河の巨大な印象はなんといっていいのかわからないくらいだそうですよ。とてつもない大きな松が急流のこちら側まで枝をのばしているのも見たし、山小屋が絶壁の上にちょこんとのっかっているし、雲が切れると、足下、何千フィートのところに谷をすっかり見おろせる。このようなすばらしい景色を見たら、さぞかし夢中になることでしょうし、祈りたくもなり、酔いしれることでしょう。ですから、有名なある音楽家が、想像をかきたてるために、すばらしい風景を前にしてピアノをひくという話を聞いてもさもあろうと思いますよ」(p. 104)

⑤杉捷夫訳

「せめて、近所に、散歩するところがありますか?」と、ボヴァリー夫人が、青年に向って話しかけながら、続けた。

「いや! あまりありません!」と、青年は答えた。

「丘の上の森のはずれに『牧場まきば』と呼んでいるところがあります。ときどき、日曜日に、出かけて行って、本を持って、じっと入日を眺めることにしています」

「私、入日ほどすばらしいものはないと思います」と、エンマは言った。「しかし、入日なら、海岸がことにすてきですわ」

「ああ! 私も海は大好きです」と、レオン君が言った。

「それから、どうでしょう、あなたには、そんな気がなさいませんかしら?」と、ボヴァリー夫人がひきとって言った。「果てしのない大海原の上を人間の精神はいっそう自由にさまようことができるのだと? 大海原を見ていると、魂が高められ、無限とか理想といった観念を与えられるのではないでしょうか?」

「山の景色も同じことです」と、レオンが答えた。「去年、スイスを旅行した従兄が居りますが、その従兄が申しますのに、湖の詩情、滝の魅力、壮大な氷河の与える印象というものは、想像を絶するものらしいです。信じられないくらいの大きさの松の木が渓流の上にのびていたり、山小屋が断崖の上にかかったりしているのが見られるということです。雲が切れると、足の下何千尺のところに、渓谷全体が見渡せる。そういう景色を見たら、きっと興奮し、祈る気持に誘われ、陶酔に誘われることでしょう! ですから、想像力をいっそう強くかき立てるために、いつも堂々とした景観の前でピアノをひいたというあの有名な音楽家のことを驚こうとは思いませんよ」(p. 67)

⑥菅野昭正訳

「この近くにどこか散歩するところはおありですの?」ボヴァリー夫人は青年にむかってまた話しつづけた。

「いや、じつに少ないんです」と彼は答えた、「丘の上、森のはずれのところに、放牧場と呼ばれている場所があります。ときどき、日曜日に、僕はそこへ行きます、そして本をもっていったり、夕日を眺めたりして過すのです」

「夕日のように素晴らしいものはないと思いますわ」と彼女は言った、「それも海岸ですと、とくに」

「ああ! 僕も海が大好きです!」とレオン君は言った。

「それに、こういう気はなさいませんか」とボヴァリー夫人は応じた、「じっと眺めていると魂を高め、無限とか理想とかについて考えさせてくれる、ああいう果てしない広がりの上のほうが、精神は自由に進んでゆけるのだと?」

「山の景色にしても同じことです」レオンはまた話しつづけた、「僕のいとこで去年スイスに旅行した男がいるんですが、彼の言うところによると、湖水の詩情や、滝の魅力や、氷河の巨大な印象はとても想像も及ばないそうです。急流の上を横切って伸びる信じられぬほどの大きさの松の木や、絶壁の上にり下がっている山小屋が見えたり、雲に晴間が開くと、足下のはるか下のほうに幾つもの渓谷がすっかり見えたりするのです。そういう光景はひとを感動させ、祈りたい、恍惚こうこつと酔いたいという気分にするにちがいありません! ですから僕は、想像力をいっそう高めようと、どこか壮大な美景の前にピアノを弾きにゆくのを習慣としていたあの音楽家に驚いたりもしません」(pp. 79-80) 

芳川泰久

「ねえ、あなた、このあたりには、せめて散歩するところくらいございまして?」とつづけながら、ボヴァリー夫人は青年に話しかけた。

「ああ! それがほとんどないのです」と青年は答えた。「放牧地と呼ばれている場所が丘の上の森のはずれにあります。日曜日になると、ときどきそこに行って、本を読んで過ごしたり、夕日の沈むのを眺めたりします」

「わたし、夕日ほど素晴らしいものはないと思いますわ」と彼女は言葉を継いだ。「でも、夕日は海辺にかぎりますよ、なんといっても」

「ああ! ぼくも海は大好きです」とレオン君は言った。

「それで」とボヴァリー夫人は応じた。「あの果てしない広がりですと、こちらの心はいっそう自由にさまよい、それをじっと眺め入ることでこちらの魂は高まり、無限とか理想といった観念まで与えてくれるようにあなたには思われないこと?」

「山の風景にしても同じですよ」とレオンはつづけた。「ぼくには従兄いとこがいるのですが、去年スイスを旅してきて言うには、詩情あふれる湖水といい、魅力的な滝といい、雄大な印象をもたらす氷河といい、想像を絶しているそうです。見ると、信じられないほど大きなマツが急流をまたぐように枝を伸ばし、山小屋が断崖だんがい絶壁の上にひっかかったようにあり、雲が裂けると、千ピエ〔一ピエ約三二センチ〕もの眼下に谷底がそっくりひろがっている。そうした光景を前にしたら、熱狂もするでしょうし、祈りたくもなるでしょうし、恍惚こうこつへと誘われることでしょう! ですから、例の有名な音楽家が想像力をいっそうかき立てようと、どこか壮麗な風景を求めて出かけて行っては、その前でピアノを弾いたという習慣クセを聞いても、ぼくはもう驚きませんよ」(pp. 144-145)

[Deuxième partie, Chapitre IX]

Un matin, que Charles était sorti dès avant l’aube, elle fut prise par la fantaisie de voir Rodolphe à l’instant. On pouvait arriver promptement à la Huchette, y rester une heure et être rentré dans Yonville que tout le monde encore serait endormi. Cette idée la fit haleter de convoitise, et elle se trouva bientôt au milieu de la prairie, où elle marchait à pas rapides, sans regarder derrière elle.

Le jour commençait à paraître. Emma, de loin, reconnut la maison de son amant, dont les deux girouettes à queue-d’aronde se découpaient en noir sur le crépuscule pâle.

Après la cour de la ferme, il y avait un corps de logis qui devait être le château. Elle y entra, comme si les murs, à son approche, se fussent écartés d’eux-mêmes. Un grand escalier droit montait vers un corridor. Emma tourna la clenche d’une porte, et tout à coup, au fond de la chambre, elle aperçut un homme qui dormait. C’était Rodolphe. Elle poussa un cri.

— Te voilà ! te voilà ! répétait-il. Comment as-tu fait pour venir ?… Ah ! ta robe est mouillée !

— Je t’aime ! répondit-elle en lui passant les bras autour du cou.

Cette première audace lui ayant réussi, chaque fois maintenant que Charles sortait de bonne heure, Emma s’habillait vite et descendait à pas de loup le perron qui conduisait au bord de l’eau.

Mais, quand la planche aux vaches était levée, il fallait suivre les murs qui longeaient la rivière ; la berge était glissante ; elle s’accrochait de la main, pour ne pas tomber, aux bouquets de ravenelles flétries. Puis elle prenait à travers des champs en labour, où elle enfonçait, trébuchait et empêtrait ses bottines minces. Son foulard, noué sur sa tête, s’agitait au vent dans les herbages ; elle avait peur des bœufs, elle se mettait à courir ; elle arrivait essoufflée, les joues roses, et exhalant de toute sa personne un frais parfum de sève, de verdure et de grand air. Rodolphe, à cette heure-là, dormait encore. C’était comme une matinée de printemps qui entrait dans sa chambre.

Les rideaux jaunes, le long des fenêtres laissaient passer doucement une lourde lumière blonde. Emma tâtonnait en clignant des yeux, tandis que les gouttes de rosée suspendues à ses bandeaux faisaient comme une auréole de topazes tout autour de sa figure. Rodolphe, en riant, l’attirait à lui et il la prenait sur son cœur. (pp. 227-228)

①伊吹武彦訳

 ある朝シャルルが夜明け前から家を出て行ったとき、彼女はふと、ロドルフに今すぐ会いたくなった。ユシェット荘へはすぐ行ける。一時間いて帰ってきても皆はまだ寝ているだろう。そう思うとはげしい欲望に息がはずんだ。エンマはやがて草原の真中へ出て、後をも見ずに急ぎ足に歩いた。

 夜はまさに明けようとしていた。エンマは、はるかに恋人の家を認めた。つばめの尾のような風見が二つ、うす明りの中にくっきり浮いて見えた。

 農場の庭を過ぎると母屋おもやがあった。それが屋敷にちがいなかった。近寄ると壁が自然に開いたかのように彼女はすっとその中に入った。真直ぐな大階段が二階の廊下へ通じている。エンマは一つの扉󠄁の掛金かけがねを𢌞した。と、たちまち部屋の奥に眠っている一人の男が見えた。ロドルフである。彼女は叫びをあげた。

 「きたの? きたの?」と彼は繰り返していった。「どうしてやってきたの?……ああ、服がぬれている!」

 「私、あなたが好きよ!」男の首に抱きついて答えた。

 この最初の大胆な試みが成功したので、今はもう、シャルルが朝早く出かけたたびごとに、エンマは手ばやく服を着て、川岸へ通じる石段を忍び足に降りた。

 しかし、牛を渡す板橋が取り除けてあるときには、川沿いの壁について行かねばならなかった。岸はよくすべった。倒れないように、うら枯れたにおいあらせいとうの束にしがみついた。それから畑を横切った。足がめり込み、よろめいた。華奢きやしやな靴を抜くのに困った。首にまいた薄絹は雑草のなかで風にひらめいた。エンマは牛がこわかった。牛がいると駈け出した。そして頰をばら色に染め、樹液と青草と大気の香りを全身から匂わせながら、息を切らしてたどりついた。その時分ロドルフはまだ眠っていた。それはちょうど、春のあけぼのが部屋のなかへ入ってきたようであった。

 窓辺に沿って掛けた黄色いカーテンが、どっしりした金色の光を柔らかにとおしている。エンマは目をしばたたきながら手探りで進んだ。そのとき、びんに宿った露の玉がまるで黄玉トパーズの後光のように、顔を取りまいて光っていた。ロドルフは笑いながら女を引寄せて、胸のうえに抱きしめた。(下 pp. 17-18)

②生島遼󠄁一訳

 ある朝、シャルルが夜明け前から出て行ったとき、彼女は急にロドルフにすぐ会いたい気持ちにとりつかれた。ラ・ユシェットへはすぐ行けるし、一時間ほどいてからヨンヴィルへ帰っても、まだみんな寝ているだろう。と思うと、欲情に息がはずんだ。それから間もなく彼女は草原の中を、うしろも見ずに急ぎ足で歩いていた。

 明るくなりはじめた。エマは、遠くから恋人の家を見わけた。つばめの尾のような風見が二つ薄明かりのなかに黒く浮き出していた。

 農場の庭を通ると、これが邸らしい母屋おもやがあった。そばへ行くと壁が自然にひらいたように、彼女は中へすいこまれた。まっすぐな大階段が二階の廊下に通じていた。エマは一つの扉󠄁とびらの掛け金をまわした。と、部屋の奥に寝ている男が見えた。ロドルフだった。彼女はアッと声をあげた。

「あんた、ここへ! 来たの?……ど、どうやってここへ来られた? おや、着物がれちゃって」

「あたしあなたが好き」男のくびに抱きついて、彼女は答えた。

 この最初の大胆なやりかたが成功したので、今では、シャルルが朝早く出かけるたび、エマは大いそぎで着物をきて、川岸へ通じる石段をそっとしのび足で下りて行った。

 しかし、牛をわたす板橋がはずしてあると、川ぞいの壁をつたって行かねばならなかった。岸はよくすべる。ころばぬように枯れたにおいあらせいとうの茎にしがみついた。それから畑を横ぎると、足がめりこみ、よろめき、きゃしゃな靴をとられそうになった。頸にまきつけた薄絹が雑草の中に風にひらめいていた。彼女は牛がこわくて、走りだした。頰をばら色に染め、樹液と緑と大気のかおりを全身からプンプンさせながら、息せききってやしきに着いた。そのころはロドルフはまだ眠っていた。それはちょうど、彼の部屋に春の朝がはいってきたようなものだった。

 窓にずらりとかけた黄いろいカーテンが重ったげな金色こんじきの光をやわらげて透していた。エマはばたきしながら手さぐりですすんだ。髪についている露のしずくが黄玉トパーズの後光のように顔のまわりをぼうっととりまいて光っていた。ロドルフは笑いながら彼女をひきよせ、胸の上に抱いた。(pp. 203-205)

③山田𣝣訳

 ある朝、シャルルがたまたま夜明け前から家を出かけたとき、彼女はロドルフに今すぐに会いたいという気まぐれを起こした。ラ・ユシェットまではいくらもない。一時間向こうにいて帰って来ても、ヨンヴィルの人たちはまだ寝ているだろう。そう思うとロドルフが欲しくて息が苦しくなった。やがてエンマは牧場のなかを抜けていた。あとも振り返らず、とっとと歩いた。

 夜が明けそめて、エンマは遠く恋人の家を認めた。つばめの尾の形をした風見が二つ、ほの白い薄明かりのなかに黒々と浮き出ていた。

 農場の庭を過ぎると、母屋とおぼしき建物があった。壁が彼女を迎えてひとりでに開いたかのように、彼女はいつしか中にはいっていた。まっすぐな大階段をのぼると二階の廊下へ出た。エンマは一つのドアの掛金かけがねをまわした。と、とたんに、部屋の奥に眠っているひとりの男が見えた。ロドルフだった。彼女は思わず「あっ」と叫んだ。

「来たんだね? 来たんだね?」と彼は繰りかえした。

「よくまあ抜け出て来られたね!……ああ、こんなにぬれて!」

「恋しかったわ!」とエンマは男の首に抱きついて答えた。

 最初の冒険が成功したのに気をよくして、それからというもの、シャルルが朝まだきに出かけるたびごとに、エンマは着替えもそこそこに、川岸へ通じる石段を忍び足に降りた。

 しかし、牛を渡すね板橋が上がっているときには、川べりの家々の塀沿いに行かねばならなかった。土手道は足もとが悪かった。エンマは倒れないように、枯れたにおいあらせいとうの茂みにつかまった。それから畑地を横切った。そこでは足がめり込み、よろめいて、華奢きやしやな編上靴をもてあつかった。やがて牧場にはいると、頭にかぶった薄絹のネッカチーフが風にひらめいた。牛がこわいので、つい駆け足になる。そして息をはずませ、頰を薔薇ばら色に染め、全身に樹液と青草と大気のさわやかな香りをにおわせてたどりつくと、まだそのころにはロドルフは眠っていた。彼の寝室に突然、春の朝が訪れたようだった。

 窓一面をおおう黄色いカーテンが、けだるい金色の光を柔らかにとおしている。エンマは目をしばたたきながら手探りで進んだ。すると真ん中から分けた髪に宿った露の玉が、まるで黄玉トパーズの後光のように顔のまわりに光った。ロドルフは笑いながら彼女を引き寄せて、胸の上にかきいだいた。(pp. 258-260)

④白井浩司訳

 ある朝、シャルルは夜明け前に出かけてしまった。すると、彼女はすぐさまロドルフに会いたくてたまらなくなった。ユシェットまではすぐに行ける。一時間ほどそこにいて、みながまだ眠っているころヨンヴィルに帰ってこられるだろう。そう思うと、彼女はやもたてもたまらなくなり、息をはずませた。やがて彼女は野原を後ろをふり返ろうともせず、急ぎ足で歩いていた。

 日が上がりかけていた。エンマは遠くから恋人の家を認めた。その家の燕尾形をした風見かざみが二つ青白いうす明かりに黒い影となって浮かび上がっていた。

 農場の庭を通り過ぎると、母屋おもやとおぼしき館があった。エンマは、壁が彼女が近づくと自然と開いたかのようにすっと中にはいった。大きなまっすぐな階段が二階の廊下に通じていた。エンマは戸の取っ手を回した。すると突然、部屋の奥に眠っている一人の男を認めた。ロドルフだった。彼女は叫び声を上げた。

 「君か? 君なのか?」と彼は繰り返した。「どうやってきたの?……ああ、服がぬれている」

 「愛してるわ!」彼女は腕を彼の首にまきつけると、いった。

 最初の大胆だいたんな行為が成功すると、シャルルが早出をするごとにエンマは急いで服をつけ、抜き足さし足で川岸に通じる石段を下りた。

 しかし、牛用の橋が上がっていると、川に沿った塀󠄁へいを回って行かねばならなかった。土手は滑りやすかった。エンマはころばぬよう、枯れたにおいあらせいとうの茂みにしがみついた。それから彼女は畑を横切ったが、足がはまり、つまずき、華奢きやしやな靴がからまった。頭にかぶっているスカーフが牧場では風にはためいた。彼女は牛がこわくて、駆け出した。彼女は息を切らし、バラ色の頰をしてやってきた。からだ全体から樹液や緑や大気のさわやかな香りがした。ロドルフはそのときにはまだ眠っていた。春の朝のようなものが彼の部屋にはいってきたように思えた。

 窓にかかった黄色いカーテンが金色の重いの光をそっと通していた。エンマは目を細め、手探りで進んだ。顔のまわりに髪に宿った大滴の露がまるでトパーズのように輝いていた。ロドルフは笑いかけ、彼女を引き寄せ、胸に抱いた。(pp. 209-211)

⑤杉捷夫訳

 ある朝、シャルルが夜明け前に家を出て行った時、ふと、即刻ロドルフに会いたい気持にかり立てられた。ユシェットヘはすぐ行ける。一時間いて、みんながまだ寝ているうちに、ヨンヴィルに帰って来れるだろう。そう思うと、はげしい欲望に息がはずんだ。エンマはやがて牧場の真中へ出て、後をも見ずに急ぎ足に歩いた。

 夜はあけはじめていた。エンマは、遠くから、恋人の家を認めた。燕の尾の形の風見が二つ、うす明りの中に黒く浮いて見えた。

 農場の前庭を横切ると母屋おもやがあった。それが屋敷にちがいなかった。彼女が近寄ると、壁が自然に開いたかのように、エンマは中へはいって行った。真直な大階段が二階廊下に通じている。エンマは一つの扉󠄁のかけ金を廻した。突然、部屋の奥に、眠っている一人の男の姿が見えた。ロドルフだった。彼女は叫び声をあげた。

「あっ! あなたか? 来てくれましたか?」と、彼はくり返した。「どうやって来ました? あっ! 服がぬれている!」

「私、あなたが好き!」エンマは男の首に抱きついて答えた。

 この最初の大胆な試みが成功したので、今はもう、シャルルが朝早く出かける度に、エンマは手早く服を着て、忍び足に、川岸へ通じる石段をおりた。

 しかし、牛のための板橋がとりのけられている時には、川沿いの塀󠄁にそって行かなければならなかった。川岸はすべるので、倒れないために、枯れたにおいあらせいとうのしげみにしがみついた、それから畑を横切った。足がめりこみ、よろめいた。華奢な靴が土にとられ、抜くのに骨が折れた。顔を包んだうす絹が草原で風にひるがえった。エンマは牛がこわかった。牛を見ると駆け出した。頰をバラ色に染め、樹液と青草と大気の香りを全身から匂わせながら、息を切らせてたどりついた。その頃ロドルフはまだ眠っている。ちょうど、春のあけぼのが部屋の中へ流れこんで来たようだった。

 黄色いカーテンが、いくつもの窓いっぱいに、どっしりとした金色の光を柔かにとおしている。エンマは眼をしばたたきながら、手探りで進んだ。そんな時、巻髪に宿った露の玉が黄玉の後光のように、顔をとりまいて光った。ロドルフは笑いながら、女をひき寄せ、胸の上に抱きしめた。(pp. 134-135)

⑥菅野昭正訳

 ある朝のこと、シャルルが夜明け前から出かけてゆくと、彼女はすぐにもロドルフに会いたいという気持にとらえられた。ラ・ユシェットの農場へはすぐに着くし、一時間そこにいて、それからヨンヴィルにもどってきても、皆まだ眠っているだろう。そう考えて彼女は渇望に息をはずませ、あっという間にもう牧場のまっただなかにいて、うしろを見ようともせず、急ぎ足で歩いていた。

 夜が明けそめていた。エンマは、遠くから、恋人の家を認めたが、つばめの尾をした二つの風見が、ほのかに白い薄明のなかに黒くうかびあかっていた。

 農場の中庭を過ぎると、やかたと呼ばれているものに相違ない母屋があった。彼女が近づくと壁があたかもひとりでに左右に開きでもしたかのように、彼女はそのなかへはいっていった。大きなまっすぐな階段が廊下のほうに通じていた。エンマはあるひとつのドアの掛金をまわしたが、するとふいに、その部屋の奥に、眠っている男の姿が眼にとまった。ロドルフだった。彼女は叫び声をあげた。

「きみがくるとはねえ! きみがくるとはねえ!」と彼は繰りかえした、「どうやって脱けだしてきたの?……ああ、ドレスがれてるぜ!」

「あなたが好きよ!」彼女は彼の首に腕を巻きつけながらそう答えた。

 この最初の大胆なやりくちが成功したので、いまではシャルルが朝早くから出かけてゆくたびごとに、エンマは急いで着替えをして、川岸に通じる石段を忍び足で降りてゆくのだった。

 しかし牛を渡す板の橋があがっているときには、川に沿った家々の壁のほとりを歩いてゆかなければならなかった。土手は滑りやすかった。彼女はころばないように、枯れたにおいあらせいとうの茂みに手でつかまった。それから耕地を横切ったが、そこでは足がめりこみ、よろめき、華奢きやしやな編上靴をもてあました。牧草地では頭に巻きつけた薄絹のネッカチ-フが風でひらひらした。彼女は牛を恐がって、そこでは走りだすのだった。息を切らし、ほおを薔薇色にし、樹液と青草と大気の新鮮な香りを全身から発散させながら到着した。ロドルフは、その時刻にはまだ眠っていた。それはさながら春の朝が彼の部屋にはいりこんできたかのようだった。

 黄色いカーテンが、窓に沿って金色の光をやんわりと射しこませていた。エンマは眼をしばたたかせながら手探りで歩みよったが、それにつれて、真中で分けた髪の毛にかかった朝露の滴が、その顔のまわりに黄玉トパーズのような光の輪をつくりだすのだった。ロドルフは笑い声をあげながら彼女を引きよせ、胸の上に抱きよせた。(pp. 148-149)

芳川泰久

 ある朝、シャルルが夜明け前から出かけることがあったとき、彼女はすぐにもロドルフに会いたいという気まぐれに襲われた。手際よくラ・ユシェットに行って、一時間ほどいて、ヨンヴィルにもどっていることができれば、まだだれもが眠っているだろう。そう思うと、欲しい気持で息も切れ、やがて気がつけば牧草地のただなかにいて、彼女は後ろも見ずに早足で歩いていた。

 日が顔を出しはじめていた。エンマは遠くから恋人の家が分かり、ツバメの尾の形をした風見が二つ、夜明けの薄明かりを背景にくっきりと黒く見えた。

 農場の庭を過ぎると、やかたおぼしき主屋おもやがあった。彼女はそこに入ったが、まるで自分が近づくと壁がひとりでに開いたかのようだった。大きなまっすぐな階段を上ると廊下に出た。エンマが一つのドアのがねをまわすと、とつぜん、部屋の奥に眠っている男の姿が目に入った。ロドルフだった。彼女は叫び声を上げた。

「来たんだね! 来たんだね!」と彼は繰り返した。「どうやって来ることができたの?……ああ! ドレスがこんなにれて!」

「恋しくなって!」と彼女は答えながら、両の腕で男の首に抱きついた。

 この最初の向こう見ずな試みがうまく行ったので、いまではシャルルが朝早く出かけることがあるたびに、エンマは手早く着替えると忍び足で川べりに出る石段を降りた。

 しかし、牛用の渡し板が外されていると、川に沿った塀づたいに行かねばならず、土手の道は滑りやすく、彼女は転ばないように、枯れたニオイアラセイトウの茂みに手でつかまった。それから、耕作中の畑を横切って行ったが、そこでは華奢きゃしゃ深靴アンクルブーツがめり込み、つまずき、足をとられた。牧草地に入ると、頭にかぶって結んだスカーフが風にはためき、彼女は牛が怖いので、駆け出し、到着するころには息が切れていて、頰をバラ色に染め、全身からは樹液や草や外気のさわやかな香りがにおい立った。ロドルフは、その時間、まだ眠っていた。彼の部屋に春の朝が訪れたみたいだった。

 黄色のカーテンが窓に沿って一面を覆い、そこを心地よく抜けた光は重そうで淡い黄色ブロンドだった。エンマは目をしばたたきながら手探りで進むと、一方で真ん中分けの髪に付着した玉の露がまるでトパーズの光ののように顔のまわりに輝きを放った。ロドルフは笑いながら、彼女を自分のほうに引き寄せ、胸に抱いた。(pp. 292-294)

[Troisième partie, Chapitre VI]

Un jour qu’ils s’étaient quittés de bonne heure, et qu’elle s’en revenait seule par le boulevard, elle aperçut les murs de son couvent ; alors elle s’assit sur un banc, à l’ombre des ormes. Quel calme dans ce temps-là ! comme elle enviait les ineffables sentiments d’amour qu’elle tâchait, d’après des livres, de se figurer !

Les premiers mois de son mariage, ses promenades à cheval dans la forêt, le vicomte qui valsait, et Lagardy chantant, tout repassa devant ses yeux… Et Léon lui parut soudain dans le même éloignement que les autres.

— Je l’aime pourtant ! se disait-elle.

N’importe ! elle n’était pas heureuse, ne l’avait jamais été. D’où venait donc cette insuffisance de la vie, cette pourriture instantanée des choses où elle s’appuyait ?… Mais, s’il y avait quelque part un être fort et beau, une nature valeureuse, pleine à la fois d’exaltation et de raffinements, un cœur de poète sous une forme d’ange, lyre aux cordes d’airain, sonnant vers le ciel des épithalames élégiaques, pourquoi, par hasard, ne le trouverait-elle pas ? Oh ! quelle impossibilité ! Rien, d’ailleurs, ne valait la peine d’une recherche ; tout mentait ! Chaque sourire cachait un bâillement d’ennui, chaque joie une malédiction, tout plaisir son dégoût, et les meilleurs baisers ne vous laissaient sur la lèvre qu’une irréalisable envie d’une volupté plus haute. (pp. 392-393)

①伊吹武彦訳

 ある日二人が早く別れて、エンマひとりで広小路を戻ってくると、昔自分のいた修道院の塀󠄁が見えた。エンマはにれの木蔭のベンチに腰をおろした。ああ、あのころはなんと平和だったろう! 書物で想像するいうにいえない恋の情緒を自分はどんなにあこがれ求めたことだろう!

 結婚当初の数ヵ月、馬上で森を散歩したこと、ワルツを踊る子爵、唄っているラガルディー、すべてがエンマの眼前に浮かんできた……そしてレオンの姿もほかの男たちと同じように、急に遠くへだたって見えた。

 「でもやっぱり私はレオンを愛している!」と彼女は心にいった。

 でも、でも自分は幸福ではない、ついぞ幸福だったためしがない。人生のこの物足りなさはいったいどこからくるのだろう。そして自分のよりかかるものが立ちどころにくされついえてしまうのはなぜだろう?……しかし、この世のどこかに、強く美しい人がいるものなら、熱と風雅にみちみちた頼もしい気だて、天使の姿にやどる詩人の心、み空に向って哀しい祝婚の曲をかなでる青銅絃の竪琴たてごとにも似たこころがあるものなら、ふとめぐり会われぬことがどうしてあろう? いや、かなわぬことだ! しかも求めて甲斐あるものは一つとしてない。すべては虚偽だ! あらゆる微笑には倦怠のあくびが、あらゆる喜びには呪詛じゆその声が、あらゆる快楽には快楽の嫌󠄁悪が隠れている。そして至上の接吻すら、さらに高い逸楽への、かなわぬ望みを唇に残すばかりである。(下 pp. 175-176)

②生島遼󠄁一訳

 ある日、早くわかれて、エマはひとりで大通りをもどってくると、昔そこで暮らした修道院へいが見えた。エマはにれの木陰のベンチに腰をおろした。あのころの落ちついた気持ち! 読んだ本から心にえがこうとつとめた恋の筆紙につくしがたい感情を、どんなに切望したかしら!

 結婚当初の数カ月、森で馬を乗りまわしたこと、ワルツを踊った子爵ししやく、歌をうたったラガルディー、みんなエマの目さきにうかんできた……そして急にレオンの姿もほかの男たちと同じ遠さに遠ざかって見えた。

《でもやはり、あたしはレオンを愛してる》とエマは思った。

 なにはともあれ、彼女は幸福ではなかった。これまで一度も幸福ではなかった。人生のこの不満はどこからくる? たよりにしているものがまたたくまに虫ばまれるのはなぜ?……しかし、もしもどこかにしっかりした美しい人がいたら、熱情と上品さとにみちた雄々しい気象、天使の姿にやどる詩人の心、天空にむかって哀調おびた祝婚歌をかなでる青銅弦の竪琴たてごとに似た心、そういうものがあったら、どうしてそれにめぐりあえぬことがある? いや、とうていだめなこと! わざわざ捜しもとめるねうちのあるものはなに一つありはしない。みんなにせだ。どの微笑にも倦怠けんたいのあくびがかくされている。どのよろこびにものろいが、どの快楽にも嫌悪けんおがかくされている。もっともいい接吻せつぷんですら、もっと大きな逸楽へのみたされぬ欲望をくちびるにのこすばかり。(pp. 359-360)

③山田𣝣訳

 ある日、レオンと早めに別れて、ひとり大通りをもどって来ると、昔自分のいた尼僧院の塀が見えた。そこでエンマはにれの木かげのベンチに腰をおろした。あのころはなんと毎日がのどかだったろう! 言うに言われぬ恋の思いなるものを、書物の上で懸命に想像しては、なんと胸をおどらせたことだったろう!

 結婚当初の数ヵ月のこと、森のなかを馬に乗って散歩したこと、ワルツを踊る子爵様、絶叫するラガルディー、すべてが目の前を通り過ぎた……と、急にレオンの姿もほかの男たちと同じ遠景にしりぞいて見えた。

「こんなにあの人を愛しているのに!」と彼女は胸につぶやいた。

 だがそれがなんだろう! 彼女は幸福ではない、一度として幸福だったことはない。この人生の満ち足りなさは、そして自分がよりかかろうとするすべてのものが一瞬にして腐臭をはなつというこの不幸は、いったいどこから来るのだろう?……しかし、もしもこの世のどこかに、強く美しい人がいてくれたら、あくまでも激しく、しかも繊細な、男らしい気だての人が、天使の姿に詩人の心、やさしく悲しい祝婚曲を天空高くかなでる青銅弦の竪琴たてごとのような心を持った人がいてくれたらば、自分とてこのような人とふとした機会にめぐり会えぬことがあろうか? ああ! しょせんかなわぬあだ望みだ! そもそも、あこがれ求める値打ちのあるものがこの世にひとつとしてあろうか。何もかも噓いつわりだ! あらゆる微笑が倦怠けんたいのあくびを、あらゆる喜悦がのろいの言葉を、あらゆる快楽が自己嫌悪けんおを裏に秘めている。そして感きわまった接吻すらが、より高い逸楽へのいやしがたい心残りを唇にとどめるだけなのだ。(pp. 459-460)

④白井浩司訳

 ある日、二人は早めに別れた。エンマは街路を一人で帰ってくると、昔自分のいた修道院の壁が見えた。彼女はにれの木陰のベンチに腰を下ろした。あのころはなんと穏やかだったろう。書物から手を離しては、恋のいうにいわれぬ感情をどんなに思い描き、どんなに知りたいと思ったことだろう。

 新婚時代の数か月、森へ馬で散策しに行ったこと、ワルツを踊る子爵様、うたうラガルデイー、すべてが彼女の目の前に立ち現われた。が、レオンも他のもの同様、突然、遠くに感ぜられた。

 「でも、わたしはあの人を愛しているのだわ!」と思った。

 それでも、彼女はしあわせではなかった。しあわせだったこともなかった。どこからこの生活に対する不満が生まれ、どこから彼女が頼りにしているものが、一瞬のうちに腐敗してしまうのであろうか。……しかし、もしどこかに立派りつぱで美しい男が、激しくてしかも洗練された雄々おおしい男、天使の姿に詩人の心を宿し、哀調を帯びた祝婚歌を天にうたいあげる、青銅弦の竪琴たてごとのような心をもった人がいたならば……、なぜ、偶然にめぐり合わないことがあろう。でも、それは不可能なことだ! それに、苦労して捜すこともないのだ! すべては虚構なのだ! どんな微笑にも倦怠けんたいのあくびが、喜びにはのろいが、快楽にはむなしさが隠されているものなのだ。どんなに甘美なキスさえ、唇にはより高い悦楽へのかなわぬ望みしか残さないものである。(pp. 366-367)

⑤杉捷夫訳

 ある日、二人が早めに別れて、ひとりで広小路を戻って来ると、昔自分のいた修道院の塀󠄁が見えた。エンマは楡の木の蔭のベンチに腰かけた。あの頃はなんと平和だったことだろう! 本を読んで、しきりに想像した言うに言われない恋の感情を自分はどんなにあこがれだことだろう!

 結婚当初の数カ月、騎馬での森の中の散歩、ワルツを踊ってくれた子爵、うたうラガルディ、すべてが彼女の目の前を再び通りすぎた……と、レオンの姿までが、他のすべてのものと同じく遠くへだたって見えた。

「でも、やっぱり、私はレオンを愛している!」と、エンマは心の中で言った。

 それだのに! 自分は幸福ではない! 一度も幸福だったことがない。いったいどこから来るのだろう? この人生のみちたりなさは? 自分のよりかかるものが、たちどころにくされ潰えてしまうのは?……しかし、この世のどこかに、強く美しい人がいるものなら、激情と風雅にみちた頼もしい気立てが、天使の姿をした詩人の心、天に向かって悲歌風の祝婚曲をかなでる青銅絃の竪琴があるものなら、ふとした機会で、めぐり合われぬことが、どうしてあろう? ああ! だめ、だめ! それに、そんなものを探したとて何になろう! すべてがあざむくではないか! あらゆる微笑には倦怠のあくびが、あらゆる喜びには呪詛の声が、あらゆる快楽には快楽の嫌󠄁悪がかくされている。至上の接吻すら、さらに高い悦楽への実現不可能な望みを唇に残すばかりである。(p. 234)

⑥菅野昭正訳

 ある日、二人が早い時刻に別れて、ひとりで大通りをもどってくる途中、彼女は昔いた修道院へいを眼にとめた。そこで彼女はにれ木蔭こかげのベンチに腰をおろした。あのころはなんと平穏だったのだろう! 言葉にはとても言いあらわせない恋の感情を、さまざまな本にしたがって思い描こうと努めては、いかにそれを羨望したことだったろう!

 結婚生活の最初の数カ月、馬に乗って森を散策したこと、ワルツを踊った子爵、歌っているラガルディー、すべてが彼女の眼の前をまた通りすぎた……そしてレオンがだしぬけに、ほかの男たちと同じように遠く隔たって姿を現した。

「でも、あたしはあのひとを愛しているわ!」彼女はひとりひそかにそうつぶやいた。

 けれども、それがなんになろう! 彼女は幸せではなかった、かつて一度として幸せだったことはなかった。人生のこの満ちたりなさは、彼女が支えとしているものが即座に腐ってゆくこの腐敗は、いったいどこからくるのだろうか?……でも、どこかに逞󠄁たくましくて美しいひと、魂の昂揚こうようにみちていると同時に洗練にみちている雄々しい性質のひと、天使の姿のもとに詩人の心を宿し、悲痛な祝婚の曲を天空にむかって奏でる、青銅の弦を張った竪琴たてごとのようなひと、なぜ、彼女がゆくりなくも、そういう男のひとを見つけださないはずがあろうか? いや、まるでかなわないことだ! それに、そもそも求めるに値するものなどなにひとつありはしない。なにもかもうそばかり。どの微笑も倦怠けんたい欠伸あくびを、どの喜びものろいを、どの快楽も快楽そのものへの嫌悪けんおを隠しているし、こよなく熱烈な接吻せつぷんですら、さらに高い官能の喜悦を求めるしょせん実現しようのない熱望を、唇に残すにすぎないのだ。(p. 250)

芳川泰久

 ある日、二人が早めに別れて、彼女が大通りをひとりもどってくると、昔いた修道院の寄宿女学校の塀が見え、そこでニレの木陰にあるベンチに腰を下ろした。あのころは何と安らいでいたことだろう! 書物をもとに、言いようのない恋の思いを一生懸命に想像しては、それをどんなにうらやましく思ったことだろう!

 結婚当初の数か月は、馬に乗って森を散歩した、子爵ししゃくさまとワルツを踊った、ラガルディの歌も聞いた、何もかもがふたたび目の前を通り過ぎた……そしてレオンの姿もとつぜん、ほかの人だちと同じ遠景に退いたように思われた。

「それでもこんなにあの人を愛しているのに!」と彼女は思った。

 それがなんだというのか! 自分は幸福ではない、一度だって幸福だったことはない。いったいなぜこのように人生が充ち足りないのだろう、いったいなぜ自分の頼るものがあっという間に腐敗してしまうのか?……しかし、もしもどこかに強くて美しい人がいてくれたら、胸の高揚と洗練にあふれた勇敢な人がいてくれたら、哀愁を帯びた祝婚歌を天に向かってかなでてくれる堅固な弦の竪琴たてごとのように、天使の姿に詩人の心を持った人がいてくれたら、ひょっとしてそんな人に自分だって出会わないことがあるだろうか? ああ! なんてあり得ないことだろう! そもそも、この世にわざわざ求めるに値するものなんて何ひとつない、何もかも噓っぱちよ! どんな微笑にも退屈のあくびが、どんな歓びにものろいの言葉が、どんな快楽にも嫌悪けんおが秘められていて、最高の口づけさえこちらの唇に残すものといったら、もっと高い逸楽を欲してしまうかなわぬ欲望なのだ。(pp. 513-514)

*1:引用は Wikisource による。