ひよこのるるの自由研究

日本語で読める世界の文学作品と、外国語に翻訳されている日本語の文学作品を、対訳で引用しています。日本語訳が複数あるものは、読みやすさ重視で比較しておすすめを紹介しています。世界中の言語で書かれたもの・訳されたもののコレクションを目指しています。

世界文学全集のためのメモ 4 『うたかたの日々』 ボリス・ヴィアン

フランス語編 3

Boris Vian
ボリス・ヴィアン
1920-1959

L’Écume des jours
『うたかたの日々』
1947

日本語訳
①曾根元吉訳『日々の泡』1970年(新潮文庫、1998年 📗
伊東守男訳『うたかたの日々』1979年(ハヤカワepi文庫、2002年 📗
野崎歓訳『うたかたの日々』2011年(光文社古典新訳文庫 📗

一冊選ぶなら③野崎歓訳。ややあっさりしすぎているきらいもあるが、圧倒的に読みやすく、注も充実している。①曾根元吉訳は、直訳的すぎたり、正確さに欠けたりする部分もあるが、ニコラの口調の魅力は捨てがたい。

Avant-propos

 

Dans la vie, l’essentiel est de porter sur tout des jugements a priori. Il apparaît en effet que les masses ont tort, et les individus toujours raison. Il faut se garder d’en déduire des règles de conduite : elles ne doivent pas avoir besoin d’être formulées pour qu’on les suive. Il y a seulement deux choses : c’est l’amour, de toutes les façons, avec des jolies filles, et la musique de la Nouvelle-Orléans ou de Duke Ellington. Le reste devrait disparaître, car le reste est laid, et les quelques pages de démonstration qui suivent tirent toute leur force du fait que l’histoire est entièrement vraie, puisque je l’ai imaginée d’un bout à l’autre. Sa réalisation matérielle proprement dite consiste essentiellement en une projection de la réalité, en atmosphère biaise et chauffée, sur un plan de référence irrégulièrement ondulé et présentant de la distorsion. On le voit, c’est un procédé avouable, s’il en fut.

La Nouvelle-Orléans.

10 mars 1946.

(pp. 17-18) *1

①曾根元吉訳

まえがき

 

 人生でだいじなのはどんなことにも先天的な判断をすることだ。まったくの話、ひとりひとりだといつもまっとうだが大勢になると見当ちがいをやる感じだ。でも、そこから身の処し方の規則なんかひきだすのは用心して避けねばならぬ。遵守じゆんしゆするための規則などこさえる必要もなかろう。ただ二つのものだけがある。どんな流儀でもいいが恋愛というもの、かわいい少女たちとの恋愛、それとニューオーリンズの、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものはせたっていい、醜いんだから。その例証がここに展開する数ページで、お話は隅から隅までぼくが想像で作りあげたものだからこそ全部ほんとの物語になっているところが強みだ。物語のいわゆる現実化とは、傾斜した熱っぽい気分で、ムラ多く波だってねじれの見える平面上に現実を投影することだ。まあこれが打明けていい、ぎりぎり掛値なしの手ぐちだ。

 

ニューオーリンズ

一九四六年三月十日

(p. 5)

伊東守男

はじめに

 

 人生では、大切なことは何ごとにかかわらず、すべてのことに対して先験的な判断を下すことである。そうすると、実際、大衆が間違っていて個人が常に正しいということがわかってくるのだ。そこから行動の指針を引き出すのは考えなければならない。何もわざわざことばにしなくても、黙ってそれに従ってればいい、二つのことがあるだけだ。それは、きれいな女の子との恋愛だ。それとニューオーリンズデューク・エリントンの音楽だ。その他のものはみんな消えちまえばいい。なぜって、その他のものはみんな醜いからだ。以下に小説として挙げる論拠は全くそれが本当の話だというところに強味がある。第一それはわたしが初めから終りまででっちあげたことだ。それを具体的に文字にしてみることは、斜めに構えた、熱狂的な雰囲気の中で、不規則に波打ち歪曲したところもないではない、参照次元に現実を投影することなのだ。もしそれが一つの方法論だとすれば、声を大にして言っていいものだろう。

――ニューオーリンズ、一九四六年三月十日

(pp. 7-8)

野崎歓

まえがき

 

 人生でもっとも大切なのは、何についてであれ、あらかじめ判断を下しておくことだ。実際の話、ひとは集団になると間違いを犯すものだが、個人はいつだって正しいように思える。ただし、そこから行動の規則など引き出さないようにしたほうがいい。規則を定めなくても、ちゃんと行動することはできる。大切なことは二つだけ。どんな流儀であれ、きれいな女の子相手の恋愛。そしてニューオーリンズの音楽、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消えていい。なぜって醜いから。以下に続く少しばかりのページはそれを証明するものだが、強みはもっぱら、全部が本当にあった話だという点にある。なにしろそれは何から何まで、ぼくが想像した物語なのだ。物語のいわゆる物質的実現は、主として、斜めに傾いた熱い雰囲気の中、不規則に波打った歪みのある基準面に現実を投影することで可能となった。おわかりかと思うが、これは人に打ち明けても恥ずかしくない、なかなか立派なやり方ではないだろうか。

 

ニューオーリンズにて

一九四六年三月一〇日

(pp. 7-8)

[I]

Le couloir de la cuisine était clair, vitré des deux côtés, et un soleil brillait de chaque côté car Colin aimait la lumière. Il y avait des robinets de laiton soigneusement astiqués un peu partout. Les jeux des soleils sur les robinets produisaient des effets féeriques. Les souris de la cuisine aimaient danser au son des chocs des rayons de soleil sur les robinets, et couraient après les petites boules que formaient les rayons en achevant de se pulvériser sur le sol, comme des jets de mercure jaune. Colin caressa une des souris en passant –, elle avait de très longues moustaches noires, elle était grise et mince et lustrée à miracle –, le cuisinier les nourrissait très bien sans les laisser grossir trop. Les souris ne faisaient pas de bruit dans la journée et jouaient seulement dans le couloir. (p. 22)

①曾根元吉訳

 台所の廊下は明るく、両側はガラス戸で、どちらからも日が当っている。コランは明るい光が好きだったからだ。そこかしこに丹念にみがきたてた真鍮しんちゆうカランがいくつかある。それらの栓に日光がたわむれて夢幻のような印象をかもしだす。台所にいるハツカネズミたちは日光が栓にあたる衝撃音にあわせて踊るのが好きで、光線が床にぶつかって粉々になるときにできる黄水銀の噴出のような小さな光の球のあとを追いかけていく。通りすがりにコランはハツカネズミの一匹の相手になってやる。みごとに艶のいい華奢きやしやで灰色のコネズミで長い黒いひげがある。あまりふとりすぎぬよう料理人がじょうずに食事をあたえていた。一日中、ハツカネズミたちは物音をたてずに廊下でただ遊んでいるだけだった。 (p. 9)

伊東守男

 キッチンの廊下は両方にガラスがはまっていて開かなかった。両側に太陽が輝いていた。なぜって、コランは明るいのが大好きだったからだ。よく磨いた真鍮の蛇口がやたらにあった。太陽が真鍮の蛇口にあたって御伽噺おとぎばなしのような効果をよんでいた。キッチンのハツカネズミは太陽の光線が蛇口にあたる音で踊っており、光線が床の上に霧のように飛び散って黄色い水銀のように小さな玉になるのを追いかけ回していた。コランは通りがかりにそんなネズミの一匹を撫でてやっていた。長い口髭をし、灰色で瘦せており、信じられないぐらい艶があった。コックは彼らにとても良い待遇をしていたが、ネズミをあんまり太らすようなことはしなかった。昼間中ハツカネズミたちは音もたてずに廊下で遊んでいた。 (pp. 11-12)

野崎歓

 キッチンへの廊下は、両側ともガラス張りになっていて明るく、右からも左からも太陽が射していた。なにしろコランは日の光が好きだったのだ。念入りに磨かれた真鍮しんちゅうの蛇口がそこらじゅうにあった。蛇口に陽光が当たって夢のようにきれいだった。キッチンにいるハツカネズミたちは、蛇口に太陽光線がぶつかって立てる音に合わせて踊るのが好きだった。そして太陽光線が床で砕け散ったときにできる小さな玉のあとを追って駆けまわった。それはまるで黄色い水銀が飛び散ったみたいだった。通りすがりにコランはハツカネズミたちの一匹をでてやった。その子はとても長い黒の口ひげを生やし、体はグレーでほっそりとしていて、びっくりするほど光沢つやがあった。コックはハツカネズミたちに十分な栄養を与えながらも、太りすぎないよう気をくばっていた。ハツカネズミたちは昼間は音を立てず、廊下で遊んでいるだけだった。 (p. 12)

[VI]

– Faites, Nicolas, vous du fricandeau ce soir ? demanda Colin.

– Mon Dieu, dit Nicolas, Monsieur ne m’a pas prévenu. J’avais d’autres projets.

– Pourquoi, peste diable boufre, dit Colin, me parlez-vous toujours perpétuellement à la troisième personne ?

– Si Monsieur veut m’autoriser à lui en donner la raison, dit Nicolas, je trouve qu’une certaine familiarité n’est admissible que lorsque l’on a gardé les barrières ensemble, et ce n’est point le cas.

– Vous êtes hautain, Nicolas, dit Colin.

– J’ai l’orgueil de ma position, Monsieur, dit Nicolas, et vous ne sauriez m’en faire grief.

– Bien sûr ! dit Colin. Mais j’aimerais vous voir moins distant.

– Je porte à Monsieur une sincère, quoique dissimulée, affection, dit Nicolas.

– J’en suis fier et heureux, Nicolas, et je vous le rends bien. Ainsi, que faites-vous ce soir ? (p. 47)

①曾根元吉訳

「ニコラ、今夜はフリカンドーを作ってるのかね?」とコランはいた。

「これはしたり、あなた様から前もってお知らせ頂いておりませんでした。ほかの献立を進めております」とニコラは言った。

「どうしてなんだ、こん畜生のあんぽんたんめ。いつだってぼくにくそ丁寧な言葉づかいをするのは何故なぜかね」

「もしその理由を申し上げても苦しゅうないということでございましたら、れなれしい言葉づかいは、おたがいに境壁へだたりを尊重しあってから初めて許容されるべきものと存じますので、それとは事態がまるで違うわけです」

「それは尊大というもんだよ、ニコラ」

「わたくしは自分の立場に誇りをもっております。そのことで、あなた様がわたくしに文句をつけなさることはできないでございましょう」

「もちろんだ」とコランは言った。「だが、ぼくはもっと隔てなしにあなたと会えるほうが好きだな」

「わたくしは、あなた様に、表面に出しこそ致しませんが、心からの情愛を抱いておりますので」とニコラは答えた。

「それは嬉しいし得意にもなるね、ニコラ。お返しはするよ。そこで、今夜は何をこしらえているの?」 (pp. 33-34)

伊東守男

「ニコラ、今晩はフリカンドーにするのかね?」と、コランが尋ねる。

「そんな突然言いだされても、旦那様はそんなことはおっしゃってませんでしたね。違うものを作る予定なんですがね」

「ちぇっ、ペストの悪魔にでも喰われてしまえ。一体またなんで、いつでもぼくには、旦那様なんて三人称でそんなていねいな口をきくんだね」

「旦那様は、理由をお知りになりたいのですか。まあ、ある程度までの、親しさは許されるでしょう。しかし、いろいろなけじめをちゃんとつけなくちゃいけませんがね。だが、今は、そういった状態ではございませんよ」

「君はおたかくとまってるね、ニコラ」と、コラン。

「私は、私の地位に誇りを持ってますからね。だからといって、旦那様は、文句を言ったりはなさらないでしょう」

「そりゃあそうだよ、だからもう少し、うちとけて欲しいんだがな」

「私は旦那様に対して心からの愛情を持っております。表には出しませんがね」と、ニコラ。

「それは有難いよ、また、誇らしいがね。ぼくも君に対して同様の感情を持っているんだよ。ところで、今晩は何を作るんだい?」 (pp. 34-35)

野崎歓

「ニコラ、今夜はフリカンドーを作っているんでしょう?」コランが尋ねた。

「これは困った」とニコラ。「旦那様は何もおっしゃっていなかったではないですか。わたくし、別のプランを立ててしまいました」

「どうしてなんだ、まったくもう」とコランはいった。「どうしていつも、ぼくのことを旦那様呼ばわりするんです?」

「旦那様が説明をお許しくださるのであれば申しますが、親しげな口調というのは、お互いのあいだの壁を尊重し合って初めて許されるものだと存じます。いまの場合はそうではありませんので」

「お高くとまっているんですね、ニコラ」とコランはいった。

「旦那様、わたくしは自分の地位に誇りをもっております。それを非難なさるにはおよびませんよ」

「もちろんですとも。でもぼくは、もう少し打ち解けてほしいんですが」

「わたくしは旦那様に心から親愛の情を抱いておりますが、ただしそれを表には出さずにいるのでして」

「ニコラ、それはぼくにとって誇らしいし、嬉しいことです。同じ気持ちをお返ししますよ。ところで、今晩は何を作っているんです?」 (pp. 42-43)

[XII]

– Si on coupait le gâteau ? dit Chick.

Colin saisit un couteau d’argent et se mit à tracer une spirale sur la blancheur polie du gâteau. Il s’arrêta soudain et regarda son œuvre avec surprise.

– Je vais essayer quelque chose, dit-il.

Il prit une feuille de houx au bouquet de la table et saisit le gâteau d’une main. Le faisant tourner rapidement sur le bout du doigt, il plaça, de l’autre main, une des pointes du houx dans la spirale.

– Écoute !… dit-il.

Chick écouta. C’était Chloé, dans l’arrangement de Duke Ellington.

Chick regarda Colin. Il était tout pâle.

– Je… je n’ose pas le couper… dit Colin.

Chick lui prit le couteau des mains et le planta d’un geste ferme dans le gâteau. Il le fendit en deux. Et, dans le gâteau, il y avait un nouvel article de Partre pour Chick et un rendez-vous avec Chloé, pour Colin. (p. 74)

①曾根元吉訳

「ケーキを切ってみたら」とシックは言った。

 コランは銀のナイフを取り、ケーキのつるつるした白い表面に、渦巻うずまきの線を入れていった。と、突然に、彼は手を止め、驚いて自分の仕事を見つめた。

「ぼくは何ごとかをやってみようとしてるんだ」と彼は言って、テーブルの花束からヒイラギの葉を一枚とると、片手でケーキをつかんだ。指尖ゆびさきでケーキを迅速に回転させながら、一方の手で、ヒイラギの葉先を渦巻の線に乗せた。

「聴いてごらん!……」

 シックは耳をすました。デューク・エリントン編曲の『クロエ』だった。

 シックはコランを見守った。彼は真青だった。

 シックはナイフを取り上げて、力強い手つきでケーキに突きこんだ。まっ二つにケーキが割れると、その中には、シックのためにパルトルの新刊の評論が一冊と、コランのためにクロエと会う場所と時間の約束が入れられてあった。 (pp. 61-62)

伊東守男

「ケーキを切ったらどうだい」とシック。

 コランは銀のナイフを取り上げると、ケーキのぴかぴかに磨かれた真白な表面にらせん形の模様を描き始めた。彼は突然止めると、驚いたように切り具合を眺めるのだった。

「ちょっと、面白いことをやってみよう」とコラン。

 彼は、ひいらぎの葉っぱを一枚ほど、テーブルの上に置かれた花束から取り出すと、片方の手でケーキをつかんだ。ケーキを指の端で回転させると、片方の手でひいらぎのとげをひとつ、らせん形の模様の方に差した。

「聞けよ」とコラン。

 シックは聞いた。デューク・エリントンの編曲になる〈クロエ〉だった。

 シックはコランを眺めやった。彼は真青になっていた。

 シックはコランの手からナイフを取り上げると、しっかりした手つきで、ケーキの中に突き刺した。ケーキを二つに割ると、ケーキの中には、シック用にパルトルの新論文が一つと、コラン用にクロエとのデートが入っていた。 (p. 62)

野崎歓

「ケーキを切ってみたら?」シックがいった。

 コランは銀のナイフを取って、ケーキのなめらかな白い表面に渦巻きを描き始めた。不意に手を止めると、驚いたように自分のしわざを眺めた。

「ちょっとやってみたいことがある」と彼はいった。

 卓上の花束からヒイラギの葉っぱを一枚取り、ケーキを片手でもった。そしてケーキを指の上ですばやく回転させながら、もう一方の手で、ヒイラギの葉っぱのとがった先を渦巻きに触れさせた。

「聴いてごらん……!」

 シックは耳を澄ませた。それはデューク・エリントンの編曲による「クロエ」だった。

 シックはコランを見た。コランは真っ青になっていた。

 シックはコランの手からナイフを取って、ケーキにぐさりと突き刺した。ケーキが二つに割れた。するとその中には、シックのためにパルトルの新しい論文、コランのためにクロエとのデートの約束が入っていたのだった。 (pp. 76-77)

XXV

– Pourquoi sont-ils si méprisants ? demanda Chloé. Ce n’est pas tellement bien, de travailler.

– On leur a dit que c’est bien, dit Colin. En général, on trouve ça bien. En fait, personne ne le pense. On le fait par habitude et pour ne pas y penser, justement.

– En tout cas, c’est idiot de faire un travail que des machines pourraient faire.

– Il faut construire des machines, dit Colin. Qui le fera ?

– Oh, évidemment, dit Chloé, pour faire un œuf, il faut une poule, mais une fois qu’on a la poule, on peut avoir des tas d’œufs. Il vaut donc mieux commencer par la poule.

– Il faudrait savoir, dit Colin, qui empêche de faire des machines. C’est le temps qui doit manquer. Les gens perdent leur temps à vivre, alors il ne leur en reste plus pour travailler.

– Ce n’est pas plutôt le contraire ? demanda Chloé.

– Non, dit Colin. Si ils avaient le temps de construire les machines, après ils n’auraient plus besoin de rien faire. Ce que je veux dire, c’est qu’ils travaillent pour vivre au lieu de travailler à construire des machines qui les feraient vivre sans travailler.

– C’est compliqué, estima Chloé.

– Non, dit Colin. C’est très simple. Ça devrait, bien entendu, venir progressivement. Mais, on perd tellement de temps à faire des choses qui s’usent.

– Mais tu crois qu’ils n’aimeraient pas mieux rester chez eux et embrasser leur femme et aller à la piscine et aux divertissements ?

– Non, dit Colin, parce qu’ils n’y pensent pas.

– Mais est-ce que c’est leur faute si ils croient que c’est bien de travailler ?

– Non, dit Colin, ce n’est pas leur faute. C’est parce qu’on leur a dit : le travail, c’est sacré, c’est bien, c’est beau, c’est ce qui compte avant tout, et seuls les travailleurs ont droit à tout. Seulement, on s’arrange pour les faire travailler tout le temps et alors ils ne peuvent pas en profiter.

– Mais alors ils sont bêtes, dit Chloé.

– Oui, ils sont bêtes, dit Colin. C’est pour ça qu’ils sont d’accord avec ceux qui leur font croire que le travail, c’est ce qu’il y a de mieux. Ça leur évite de réfléchir et de chercher à progresser et à ne plus travailler.

– Parlons d’autre chose, dit Chloé. C’est épuisant, ces sujets-là. Dis-moi si tu aimes mes cheveux.

– Je t’ai déjà dit…

Il la prit sur ses genoux. De nouveau, il se sentait complètement heureux.

– Je t’ai déjà dit que je t’aimais bien, en gros et en détail.

– Alors, détaille, murmura Chloé, en se laissant aller dans les bras de Colin, câline comme une couleuvre. (pp. 123-125)

①曾根元吉訳

「あの人たち、どうしてあんなに人を小ばかにしてるの」とクロエはきいた。「労働してるからってそれがそんなに正しいとは思えないわ」

「労働は正しいと聞かされているんだな。一般には正しいと考えられているんだが、実際は、だれもそう思ってやしない。習慣でやっているわけだ。正確にいえば、そんなこと考えないぐらいだよ」

「どっちにしても機械でやれるような労働をするのはばからしいわ」

「その機械をこしらえる必要があるよ」とコランは言った。「だれがそれをつくる?」

「あたりまえじゃないの。卵をつくるには、めんどりが必要よ。めん鶏さえあれば、卵はいくらでも手に入るわよ。めん鶏からはじめるのが第一よ」

「なにが機械をつくることを妨げてるかを知る必要がある。まず時間が不足してるはずだ。人はみな生きるのに時間を浪費しているよ。だからもう労働するだけの時間が残っていないんだ」

「それはあべこべじゃないの?」とクロエは言った。

「そうじゃない」とコランは答えた。「もし機械をこしらえる時間があったとすれば、そのあとではもう何一つこしらえようとしなくなるだろう。ぼくの言いたいことは、彼らは労働せずに生きられる機械をこしらえる労働をしないで生きるために労働しているってことなんだ」

「ややこしいわね」

「そうじゃないよ。とても単純なことだ。もちろん、こいつはだんだん進歩してきてるはずだが、それほど人はすりへってしまう物をつくるのに時間を浪費してるんだよ……」

「でも、あの人たちが家庭にいて奥さんに接吻せつぷんしたりプールやいろんな楽しみごとに出かけたりするのを好かないと思う?」

「好かないだろうね。だってそんなこと考えないからだ」

「でも、労働が正しいことだと信じているとしたら、あの人たちの欠点じゃない?」

「そうじゃないよ。欠点じゃないんだ。だって《労働、それは神聖にして、正しく、美しいもの。それは何にもまして重んじられ、労働者だけがあらゆるものに権利を有する》と聞かされてるんだ。ただ、彼らを始終労働させるような手筈てはずになってあるので、時間を活用できないでいるんだ」

「だって、それなら、あの人たちはのろまなの」

「そうだ、のろまなんだ。労働こそ最善のものだと信じこませている連中と同調しているのは、そのためなんだ。それが彼らに熟考すること、進歩して、労働しなくなるのを求めることをはばんでいるんだよ」

「ほかのことを話しましょうよ」とクロエは言った。「げっそりしちゃうわ、こんなお話は。ねえ、あたしの髪は好きかどうか言って……」

「まえに言ったじゃない……」

 彼はクロエを膝にのせた。ふたたび、ふたりはすっかり幸福な感じになっていた。

「ぼくはあんたのどこもかしこも全体を愛してるんだって言ったじゃない」

「それなら、もっとこまかく、どこもかしこも愛してよ」とクロエは、蛇の子みたいに甘ったれて、コランの腕の中に身をすりよせながら言った。 (pp. 110-112)

伊東守男

「なんであんな軽蔑しているような目つきしてんのかしら」とクロエ。「あんなふうに働いたってあんまりいいことないはずなのにねえ」

「なあに、いいことがあるって言われてるのさ」とコラン。「一般的に言うと悪くはないのさ。少なくとも誰も悪いとは思っちゃいない。習慣でやってるんだよ。それに誰もあまりそんなことを考えないんだ」

「だけどいずれにしたって機械でもやれる仕事を人間がやるなんて馬鹿みたいじゃない」

「だって機械だって誰かが作らなくちゃならないんだろう。誰が作るんだ」

「そんなことを言い出せばそれはそうよ。卵をつくるためにはニワトリをまずつくらなくてはならないわ。だけどニワトリをつくってしまえば、卵なんか沢山つくることができるわよ。だからニワトリから始めた方が利口じゃないの」

「まず第一に誰が機械を作るじゃまをしているか訊かなくちゃならないな。時間が足りないんだよ。みんな生きる時間がなくなってるんだ。働く時間なんかありゃしない」

「むしろその反対じゃないの」とクロエ。

「いや、そんなことはないよ。機械を作る時間さえあればあとはもう何もしなくていいんだ。ぼくの言ってるのはね、働かなくてもいいようになる機械を作るために働く代りに、食うために働いているんだよ、彼らは」

「ずいぶん複雑なのね」

「いや、別に複雑じゃないよ。むしろごく簡単なんだ。もちろん徐々にやらなくちゃならない。だけど下らないすり切れのためにさんざん時間を無駄にしているんだ」

「だけどあなた、あの人たちみんな家にいて、奥さんにキスでもして、プールや他のことをして楽しんでいた方がいいと思わない」

「そうは思わないな。だってそんなこと全然考えちゃいないんだからな」

「だけど労働するのはいいことだと思っているとしたら、間違いじゃないかしら」

「いや、そうは思わないよ。ただみんなから、〝労働は神聖だ。実に美しい、いいもんだ〟なんて言われてるからさ。〝労働者だけが全部のものに対して権利を持ってるんだ〟ってね。だけどうまくはめられてしょっちゅう働かせられているもんで、労働の果実を自分たちの自由にすることができないんだな」

「でも何よ、それじゃばかみたいじゃない」とクロエ。

「うん、ばかみたいだよ」とコラン。「だけどそういうわけだから、労働が世の中で一番いいものだと彼らに信じ込ませる奴らに反対しないんだ。考える必要や進歩しようと努力する必要や、これ以上働くまいと考える必要がなくなるからさ」

「他のお話をしましょうよ。うんざりするわ、その話題は。それよりあなた、私の髪の毛が好き」

「もう言ったじゃないか」

 彼は彼女を膝の上にのっけた。再び幸福いっぱいの気分になれた。

「もう言ったろ。君の大ざっぱなところも細かいところもすべて好きだって」

「それじゃ細かいところを頼むわよ」とクロエはコランの腕の中で身を任せて、まむしのようなしなをつくりながら言うのだった。 (pp. 109-111)

野崎歓

「あの人たち、どうしてわたしたちのことをあんなに軽蔑するの?」クロエが尋ねた。「働くのは、そんなに立派なことかしら……」

「連中は、働くのは立派なことだといわれて働いているんだよ」コランはいった。「一般論としては、働くことは立派なことなんだ。でも実際にはだれもそうは思っていない。ただ習慣から、そんなことを考えなくてすむように働いているだけさ」

「どちらにしても、機械にできる仕事をするのはばかげてるわ」

「でもまず機械を作らなくちゃならないだろ」とコラン。「だれがその仕事をするんだ?」

「もちろん、卵ができるにはメンドリがいなくちゃならないわ。でもメンドリさえいれば卵はたくさん手に入るでしょう。だから、まずメンドリから始めるべきなのよ」

「機械を作るのをじゃましているのは何なのかを突き止めなければね。きっと時間が足りないんだろうな。人々は暮らしに追われてばかりで、働く時間が残っていないんだ」

「それってむしろ逆じゃないの?」クロエが尋ねた。

「違うよ」とコラン。「機械を作る時間さえあれば、あとはもう何もしなくてすむだろう。ぼくがいいたいのは、連中は暮らしていくために働いているのであって、働かなくても暮らしていけるような機械を作るために働いているのではないということさ」

「ややこしいわね」

「そんなことないよ。とても単純なことさ。もちろん、少しずつ進歩してはいくんだろう。とはいうものの、人間はすり減っていくだけのものを作るのに時間を無駄にしすぎているよ」

「でもあの人たちだって、できるものなら自分の家にいて奥さんにキスしたり、プールや遊び場に行きたいはずだとは思わない?」

「思わないね。だってそんなこと、考えてもいないんだよ」

「でも、働くのは立派なことなんだって考えているのは、あの人たちが悪いのかしら?」

「そうじゃない。彼らが悪いわけじゃない。それは彼らが、労働は神聖で、善なる、美しいものであり、何よりも大事なもので、働く者だけがあらゆる権利を有するのだと吹き込まれているせいなんだ。ただし、連中はとにかく四六時中、働いていなければならないようになっているから、楽しむわけにはいかないんだよ」

「ということは、あの人たちはばかなのかしら」

「そうさ、ばかなのさ。だからこそ連中は、労働こそ最高のものなりと信じ込まされているんだ。そうすれば自分の頭で考えずにすむし、社会を進歩させて、仕事をしなくていいようにする必要もないからね」

「何か別のお話をしましょう」とクロエはいった。「もううんざりだわ、こういう話題は。ねえ、わたしの髪は好き?……」

「前にいったじゃないか……」

 コランはクロエをひざの上にのせた。するとコランはまた、自分は申し分なく幸せなのだという気持ちになった。

「前にいったじゃないか、君のことが大好きだって。大雑把おおざっぱにいっても、事細かにいってもさ」

「それじゃ、事細かにいってみてちょうだい」クロエは、蛇の子みたいに甘やかにコランの腕にすべり込みながらささやいた。(pp. 133-136)

[XLI]

Chloé était allongée sur son lit, vêtue d’un pyjama de soie mauve et d’une longue robe de chambre de satin piqué d’un léger beige orange.

Autour d’elle, il y avait beaucoup de fleurs et surtout des orchidées et des roses. Il y avait aussi des hortensias, des œillets, des camélias, de longues branches de fleurs de pêcher, et d’amandier, et des brassées de jasmin. Sa poitrine était découverte et une grosse corolle bleue tranchait sur l’ambre de son sein droit. Ses pommettes étaient un peu roses et ses yeux brillants, mais secs, et ses cheveux légers et électrisés comme des fils de soie.

– Tu vas prendre froid ! s’écria Alise. Couvre-toi !

– Non, murmura Chloé, il le faut, c’est le traitement.

– Quelles jolies fleurs ! dit Alise. Colin est en train de se ruiner, ajouta-t-elle gaiement, pour faire rire Chloé.

– Oui, murmura Chloé. Elle eut un pauvre sourire.

– Il cherche du travail, dit-elle à voix basse. C’est pour cela qu’il n’est pas là.

– Pourquoi parles-tu comme ça ? demanda Alise.

– J’ai soif… dit Chloé dans un souffle.

– Tu ne prends réellement que deux cuillerées par jour ? dit Alise.

– Oui… soupira Chloé.

Alise se pencha vers elle et l’embrassa.

– Tu vas bientôt être guérie.

– Oui, dit Chloé. Je pars demain avec Nicolas et la voiture.

– Et Colin ? demanda Alise.

– Il reste, dit Chloé. Il faut qu’il travaille, mon pauvre Colin. Il n’a plus de doublezons.

– Pourquoi ? demanda Alise.

– Les fleurs… dit Chloé.

– Est-ce qu’il grandit ? murmura Alise.

– Le nénuphar ? dit Chloé, tout bas. Non, je crois qu’il va partir…

– Alors, tu es contente ?

– Oui, dit Chloé, mais j’ai si soif.

– Pourquoi n’allumes-tu pas ? demanda Alise. Il fait très sombre ici.

– C’est depuis quelques temps, dit Chloé. Il n’y a rien à faire. Essaye.

Alise manœuvra le commutateur et un léger halo se produisit autour de la lampe.

– Les lampes meurent… dit Chloé. Les murs se rétrécissent aussi. Et la fenêtre, ici, aussi.

– C’est vrai ? demanda Alise.

– Regarde…

La grande baie vitrée qui courait sur toute la largeur du mur n’occupait plus que deux rectangles oblongs, arrondis aux extrémités. Une sorte de pédoncule s’était formé au milieu de la baie, reliant les deux bords, et barrant la route au soleil. Le plafond avait baissé notablement et la plate-forme où reposait le lit de Colin et Chloé n’était plus très loin du plancher.

– Comment est-ce que cela peut se faire ? demanda Alise.

– Je ne sais pas… dit Chloé. Tiens, voilà un peu de lumière.

La souris à moustaches noires venait d’entrer, portant un petit fragment d’un des carreaux du couloir de la cuisine, qui répandait une vive lueur.

– Sitôt qu’il fait trop noir, expliqua Chloé, elle m’en apporte un peu.

Elle caressa la petite bête qui déposa son butin sur la table de chevet. (pp. 194-197)

①曾根元吉訳

 クロエは藤紫の絹のパジャマと淡いオレンジ・ベージュのサテンに刺繍ししゆう入りの部屋着の長いのを身につけて、ベッドに寝そべっていた。彼女の周囲には、おびただしい花のかずかずが、とくにらんの花、薔薇ばらの花が多く、さらにまたあじさいカーネーション椿つばきの花々があり、桃やはたんきょうの長い枝に咲いた花々、いくかかえあるとも知れぬジャスミンの花々があった。クロエの胸部はむきだしになっていて、右の乳房の琥珀こはくいろにはきわだって大きな水いろの花冠がくっきりと見えていた。彼女の頰骨にはうっすら赤みがさし、眼はぎらぎらしながらもどことなく干乾ひからびた感じで、髪の毛は重みがなく絹糸のように電気を帯びていた。

「風邪をひくわよ!」とアリーズは言った。

「なにか上に掛けたらどう……」

「だめよ」クロエはささやいた。「こうしていなくちゃ。これが療法なのよ」

「ほんとにみごとなお花ばかり」とアリーズは言った。そしてクロエを笑わせようと、おもしろそうに言葉をつづけた。「いまやコランは破産しつつあるってわけね」

「そうなの」クロエはささやいた。弱々しい微笑だった。

「あのひと、仕事さがしてるの」と彼女は小声で言った。「それで今うちにいないの」

「どうしてそんな話し方をするのよ」とアリーズはたずねた。

「のどが乾いてるの……」彼女は吐息をついて言った。

「一日にさじ二杯しか飲めないってほんとなの?」とアリーズは言った。

「ほんと……」とクロエは溜息ためいきをついた。

 アリーズはクロエに身をかがめて接吻せつぷんした。

「もうすぐよくなるわよ」

「そうね」とクロエは言った。「あたし明日ニコラと出ていくのよ、車で」

「コランはどうするの」アリーズはきいた。

「残るのよ。彼は働かなきゃならないの。コランにはもう大してお金がないの……」

「どうしてなの」

「花がたくさん必要なの」

「あれは大きくなってくるの?」アリーズはつぶやいた。

「睡蓮のこと?」クロエはうんと小さな声で言った。「あれは出ていってしまいそうよ」

「それならうれしいでしょ」

「ええ。でものどがからからだわ」

「どうして電燈でんとうをつけないの。ここはとても薄暗いわよ」

「すこし前からよ」とクロエは言った。「すこし前からなの。どうもしようがないの。やってみて」

 アリーズはスイッチを押してみた。わずかな光のかさが電燈のまわりに浮び出た。

「電燈はみな死んでいるのよ」とクロエは言った。「壁がみな縮んで狭くなってきているの。それにここの窓も、そうよ」

「ほんと?」

「よくごらんなさいよ……」

 部屋全体をぐるりと一周していた大きなガラス張りの出窓が今ではもう四隅をまるくした長方形の一対いつついでしかないのだった。出窓の中央には、窓の両端を結びあわせて太陽に通せんぼをする一種の花梗かこうのようなものができているのだ。天井は目だって低くなっていて、コランとクロエのベッドを置いてあった台座は床にぐっと近づいていた。

「どうしてこんなふうになったのかしら」とアリーズはたずねた。

「わからないのよ……」とクロエは言った。「おや、ちょっと明るくなったわ」

 黒ひげのハツカネズミが、台所の廊下のタイルの小さな破片かけらを運んできたところなのだが、その破片が生き生きした微光を放っているのだった。

「あんまり暗くなるとじきに、あの子がちょっぴり持ってきてくれるのよ」とクロエは説明した。

 枕もとのテーブルに分捕品を置いた小ちゃな生き物を彼女はでてやった。(pp. 182-185)

伊東守男

 クロエはベッドに横たわっていた。モーヴ色の寝間きを着、上からピケ織のサテンの軽いオレンジがかったベージュ色の長い部屋着をはおっていた。彼女は周りをグルッと花に取り囲まれており、中でも蘭とバラが多かった。その他にもあじさいとかカーネーションとか椿とか、桃やアーモンドの花がついた長い枝やいく抱えものジャスミンなどもあった。胸ははだけており、右の乳房のアンバー色の上に青い大きな花冠が浮き出ていた。頰骨のところはポーと赤く、眼は輝いていたが乾いていた。そうして彼女の軽い髪の毛はシルクの糸のように電気を帯びていた。

「風邪をひいちゃうわよ。布団をかけていなさいよ」

「そうはいかないのよ。これも治療法の一つだから」

「まあなんてきれいな花なんでしょう。きっとコラン、破産しちゃうわ」とクロエを笑わせようと思って、わざと陽気に言う彼女。

「そうなのよ」と口ごもるクロエ。彼女は見るも哀れな微笑を浮かべた。

「彼、仕事を探してるのよ」と小さな声でクロエ。「だから、いまいないのよ」

「なんで、そんな口調でしゃべるのよ」と尋ねるアリーズ。

「喉が渇いたのよ……」とささやくように言う彼女。

「本当に一日に匙に二杯しか水を飲んじゃいけないの」とアリーズ。

「そうよ」とため息をつくクロエ。

 アリーズが彼女の方にこごむとキスをした。「すぐ治るわよ」

「そうね。明日ニコラと一緒に車で発つのよ」

「で、コランは」

「彼は残るのよ。働かなくちゃならないもの。可哀相に……もうお金がなくなっちゃったのよ」

「あら、どうして」と尋ねるアリーズ。

「花のせいよ……」とクロエ。

「また大きくなっちゃったの」と口ごもるアリーズ。

「睡蓮のこと」と小声で言うクロエ。「睡蓮は枯れてしまいそうよ」

「そう、それじゃよかったじゃないの」

「そうね。だけど喉が渇いて」

「なぜ明りをつけないの。ずいぶん暗いじゃないの」

「しばらく前からそうなのよ。しばらく前からね。どうしようもないわ。電気をつけてみて」

 アリーズがスイッチを入れると、ランプの周りがわずかにポーと明るくなった。

「電気の光はもう瀕死なのよ。壁はせばまってきているわ。窓もよ」

「本当に」と尋ねるアリーズ。

「見てごらんなさいよ」

 壁の一面全体に当っている大きなガラス窓は、いまではもう端が丸くなった二つの長方形の矩形にすぎなくなっていた。一種の花梗かこうのようなものがガラスの真中にでき、二つを結び合わし、太陽を遮っているのだ。天井ははっきりと、それとわかるほど下がってきており、コランとクロエのベッドが置いてあった台は地面から遠くないところに近づいてきていた。

「なんでこんなふうになっちゃったのよ」と尋ねるアリーズ。

「わかんないわ。ほら、すこし明るくなったでしょう」

 真黒な口髭をしたハツカネズミが一匹、台所の廊下のタイルの破片を一枚持ってやって来、お陰で周りがポーと明るくなった。

「あんまり暗くなりすぎると、光を持って来てくれるのよ」と説明するクロエ。

 彼女がネズミを撫でてやると、ネズミは枕元のテーブルの上に、持って来たものを置いて行った。(pp. 183-186)

野崎歓

 クロエはベッドに横になっていた。薄紫の絹のパジャマに、薄いオレンジがかったベージュのサテンキルトで仕立てた、長いドレッシングガウンを着ていた。

 彼女のまわりには山ほど花があり、とりわけ蘭やバラが多かった。アジサイカーネーション、椿、長い枝に咲いた桃の花やアーモンドの花、そしてジャスミンの花も何抱え分もあった。彼女は胸元をはだけていて、琥珀色をした右の乳房が、青い花の大きな花冠と鮮やかなコントラストを見せていた。両頰はうっすらピンク色を帯び、目はきらきらと輝いていたが、瞳に潤いがなかった。髪は絹糸のように軽やかで電気を帯びていた。

「風邪を引いちゃうわよ!」アリーズは叫んだ。「ちゃんと着てなくちゃ」

「違うのよ」クロエがつぶやいた。「こうしておかなければならないの。治療法なのよ」

「なんてきれいな花でしょう!」アリーズがいった。「これじゃコランは破産しちゃうわね」アリーズはクロエを笑わそうとして陽気に付け加えた。

「ええ」とクロエはささやき、寂しそうな微笑みを浮かべた。

「あの人、仕事を探しているのよ」彼女は小さな声でいった。「だからいまいないの」

「どうしてそんな風に話すの?」アリーズが尋ねた。

「喉が渇いてるの……」クロエは声をひそめていった。

「毎日、本当にスプーン二さじ分の水しか飲んでいないの?」

「そうよ……」クロエはため息をもらした。

 アリーズは彼女の上に身をかがめてキスした。

「じきに治るわよ」

「ええ。わたし、明日ニコラと車で旅立つの」

「それで、コランは?」アリーズが尋ねた。

「あの人は残るわ。仕事をしなければならないから。かわいそうなコラン……。もうドゥブルゾンがなくなってしまったの……」

「どうして?」

「花にお金がかかるから……」

「あれ、大きくなっているの?」アリーズが小声で訊いた。

「睡蓮?」クロエはほんのささやき声でいった。「いいえ。もうすぐ出ていってくれると思うわ……」

「それならよかったじゃない」

「ええ。でもわたし、喉が渇いて」

「どうして明かりをつけないの? この部屋、とっても暗いわよ」

「しばらく前からこうなの。どうしようもないのよ。やってごらんなさい」

 アリーズはスイッチをいじってみたが、ランプのまわりにかすかな光の輪が生じるばかりだった。

「ランプが死にそうなの」クロエがいった。「壁も縮んでいるわ。そしてここの窓もそうよ」

「本当?」

「ごらんなさい……」

 壁いっぱいの幅に広がっていた大きな窓ガラスは、二個の細長い長方形に分かれてしまい、角も丸くなっていた。ガラスの真ん中に植物の茎のようなものが生えて上下の辺をつなぎあわせ、日の光が入ってくる邪魔をしていた。天井はいちじるしく低くなり、コランとクロエのベッドがのっていた台座も床からさほど高くはなくなっていた。

「どうしてこんなことが起こるのかしら?」アリーズが尋ねた。

「わからない……」クロエがいった。「ほら、少し光が来たわ」

 黒い口ひげを生やしたハツカネズミが入ってきたところだった。ハツカネズミの運んできたキッチンの色つきタイルの小さなかけらが、強力な光を放っていた。

「あんまり暗くなってしまうと、この子が少し運んできてくれるのよ」クロエが説明した。

 ハツカネズミは獲物を枕元のテーブルに置き、クロエはその頭をでてやった。(pp. 221-224)

*1:引用は Boris Vian, L’Écume des jours (Paris: Pauvert, 1996) による。