ひよこのるるの自由研究

日本語で読める世界の文学作品と、外国語に翻訳されている日本語の文学作品を、対訳で引用しています。日本語訳が複数あるものは、読みやすさ重視で比較しておすすめを紹介しています。世界中の言語で書かれたもの・訳されたもののコレクションを目指しています。

世界文学全集のためのメモ 15 『霊山』 高行健

中国語編 2

高行健(Gāo Xíngjiàn)
高行健(こう・こうけん、ガオ・シンジエン)
1940-

《灵山》
『霊山』
1990

日本語訳
飯塚容訳 高行健ガオ・シンヂエン 『霊山』2003年(集英社 📗

10

  树干上的苔藓,头顶上的树枝丫,垂吊在树枝间须发状的松萝,以及空中,说不清哪儿,都在滴水。大滴的水珠晶莹透明,不慌不忙,一颗一颗,落在脸上,掉进脖子里,冰凉冰凉的。脚下踩着厚厚的绵软的毛茸茸的苔藓,一层又一层,重重叠叠。寄生在纵横倒伏的巨树的躯干上,生生死死,死死生生,每走一步,湿透了的鞋子都呱叽作响。帽子头发羽绒衣裤子全都湿淋淋的,内衣又被汗水湿透了,贴在身上,只有小腹还感到有点热气。

  他在我上方站住,并不回头,后脑勺上那三片金属叶片的天线还在晃动。等我从横七竖八倒伏的树干上爬过去,快到他跟前,还没喘过气来,他就又走了。他个子不高,人又精瘦得像只灵巧的猴子,连走点曲折的之字形都嫌费事,不加选择,一个劲往山上直窜,早起从营地出发,两个小时了,一直不停,没同我说过一句话。我想他也许用这种办法来摆脱我,让我知难而退。我拼命尾随他,距离却越拉越大了,他这才时不时站住等我一下,乘我喘息的时候,打开天线,戴上耳机,找寻着信号,在小本子上记上一笔。

  经过一块林间隙地,那里设置了一些气象仪器。他查看作些记录,顺便告诉我,空气的湿度已经饱和了,这是他一路上同我说过的第一句话,算是友好的表示。前去不久,他又向我招手,让我跟他拐进一片枯死的冷箭竹丛,那里立着个用圆木钉的大囚笼,一人多高,闸门洞开,里面的弓子没有安上。他们就是用这种囚笼诱捕熊猫,然后打上麻醉枪,套一个发射无线电讯号的颈圈,再放回森林里去。他指着我胸前的照相机,我递给他,他为我拍了一张在囚笼前的照片,幸好不在囚宠里面。

  在幽暗的椴木和槭树林子里钻行的时候。山雀总在附近的花揪灌丛中(左口右去)呤(左口右去)呤叫着,并不感到寂寞。等爬到二千七、八百公尺高度进入针叶林带,林相逐渐疏朗,黑体锋的巨大的铁杉耸立,枝干虬劲,像伞样的伸张开。灰褐的云杉在三、四十公尺的高度再超越一层,高达五、六十公尺,长着灰绿新叶的尖挺的树冠越发显得俊秀。林子里不再有灌丛,可以看得很远,杉树粗壮的躯干间,几株团团的高山杜鹃足有四米多高,上下全开着一蓬蓬水红的花,低垂的枝丫仿佛承受不了这丰盛的美,将硕大的花瓣撒遍树下,就这样静悄悄展现它凋谢不尽的美色。这大自然毫不掩饰的华丽令我又有一种说不清的惋惜。而这惋惜纯然是我自己的,并非自然本身的属性。

  前前后后,有一些枯死了又被风雪拦腰折断的巨树,从这些断残的依然矗立的庞大的躯干下经过,逼迫我内心也沉默,那点还折磨我想要表述的欲望,在这巨大的庄严面前,都失去了言辞。

  一只看不见的杜鹃在啼鸣,时而在上方,时而在下方。时而在左边,时而到了右边,不知怎么的总围着转,像要把人引入迷途,而且好像就在叫唤:哥哥等我!哥哥等我!我禁不住想起兄弟俩去森林里点种芝麻的那个故事,故事中的后娘要甩掉丈夫前妻的孩子,却被命运报复到她自己亲生的儿子身上,我又想起迷失在这森林里的两位大学生,有种无法抑制的不安。

  他在前面突然站住,举手向我示意,我赶紧跟上,他猛拉了我一把,我跟他蹲下,立即紧张起来,随即也就看见前面树干的间隙里,有两只灰白带麻点的赤足的大鸟,在斜坡上疾走。我悄悄往前迈了一步,这一片沉寂顿时被空气的搏击声打破。

  “雪鸡。”他说。

  只一瞬间,空气又仿佛凝固了,坡上那对生机勃勃灰白带麻点赤足的雪鸡,就像根本不曾有过,让人以为是一种幻觉,眼面前,又只有一动不动的巨大的林木,我此刻经过这里,甚至我的存在,都短暂得没有意义。

  他变得比较友善了,不把我甩远,走走停停,等我跟上。我和他的距离缩短了,但依然没有交谈。后来他站住看了看表,仰面望着越见疏朗的天空,像用鼻子嗅了嗅似的,然后陡直往一个坡上爬去,还伸手拉了我一把。

  我喘息着,终于到了一片起伏的台地,眼前是清一色的冷杉纯林。

  “该三千公尺以上了吧?”我问。

  他点头认可,跑到这片台地高处的一棵树下,转过身去,戴上耳机,举起天线四面转动。我也转着看,四周的树干一样粗壮,树与树之间距离相等,一律那么挺拔,又在同样的高度发杈,也一样俊秀。没有折断的树木,朽了就整个儿倒伏,在严峻的自然选择面前,无一例外。

  没有松萝了,没有冷箭竹丛,没有小灌木,林子里的间隙较大,更为明亮,也可以看得比较远。远处有一株通体洁白的杜鹃,亭亭玉立,让人止不住心头一热,纯洁新鲜得出奇,我越走近,越见高大,上下裹着一簇簇巨大的花团,较之我见过的红杜鹃花瓣更大更厚实,那洁白润泽来不及凋谢的花瓣也遍洒树下,生命力这般旺盛,焕发出一味要呈献自身的欲望,不可以遏止,不求报偿,也没有目的,也不诉诸象征和隐喻,毋需附会和联想,这样一种不加修饰的自然美。这洁白如雪润泽如玉的白杜鹃,又一而再,再而三,却总是单株的,远近前后,隐约在修长冷峻的冷杉林中,像那只看不见的不知疲倦勾人魂魄的鸟儿,总引诱人不断前去。我深深吸着林中清新的气息,喘息着却并不费气力,肺腑像洗涤过了一般,又渗透到脚心,全身心似乎都进入了自然的大循环之中,得到一种从未有过的舒畅。

  雾气飘移过来,离地面只一公尺多高,在我面前散漫开来,我一边退让,一边用手撩拨它,分明得就像炊烟。我小跑着,但是来不及了,它就从我身上掠过,眼前的景象立刻模糊了。随即消失了色彩,后面再来的云雾,倒更为分明,飘移的时候还一团团旋转。我一边退让,不觉也跟着它转,到了一个山坡,刚避开它,转身突然发现脚下是很深的峡谷。一道蓝雷雷奇雄的山脉就在对面,上端白云笼罩,浓厚的云层滚滚翻腾,山谷里则只有几缕烟云,正迅速消融。那雪白的一线,当是湍急的河水,贯穿在阴森的峡谷中间。这当然不是几天前我进山来曾经越过的那道河谷,毕竟有个村寨,多少也有些田地,悬挂在两岸的铁索桥从高山上望下去,显得十分精巧。这幽冥的峡谷里却只有黑森森的林莽和峥嵘的怪石,全无一丁点人世间的气息,望着都令人脊背生凉。

  太阳跟着出来了,一下子照亮了对面的山脉,空气竟然那般明净,云层之下的针叶林带刹时间苍翠得令人心喜欲狂,像发自肺腑底蕴的歌声,而且随着光影的游动,瞬息变化着色调。我奔跑,跳跃,追踪着云影的变化,抢拍下一张又一张照片。

  灰白的云雾从身后又来了,全然不顾沟壑,凹地,倒伏的树干,我实在无法赶到它前面,它却从容不迫,追上了我。将我绦绕其中。景象从我眼前消失了,一片模糊。只脑子里还残留着刚才视觉的印象。就在我困惑的时刻,一线阳光又从头顶上射下来,照亮了脚下的兽踪,我才发现这脚下竟又是个奇异的菌藻植物的世界,一样有山脉、林莽、草甸和矮的灌丛,而且都晶莹欲滴,翠绿得可爱。我刚蹲下,它又来了,那无所不在的迷漫的雾,像魔术一样,瞬间又只剩下灰黑模糊的一片。

  我站了起来。茫然期待。喊叫了一声,没有回音。我又叫喊了一声,只听见自己沉闷颤抖的声音顿然消失了,也没有回响,立刻感到一种恐怖。这恐怖从脚底升起,血都变得冰凉。我又叫喊,还是没有回音。周围只有冷杉黑呼呼的树影,而且都一个模样,凹地和坡上全都一样,我奔跑,叫喊,忽而向左,忽而向右,神智错乱了。我得马上镇定下来,得先回到原来的地方,不,得先认定个方向,可四面八方都是森然矗立的灰黑的树影,已无从辨认,全都见过,又似乎未曾见过,脑门上的血管突突跳着。我明白是自然在捉弄我,捉弄我这个没有信仰不知畏惧目空一切的渺小的人。

  我啊—喂—哎——喊叫着,我没有问过领我一路上山来的人的姓名,只能歇斯底里这样叫喊,像一头野兽,这声音听起来也令我自己毛骨悚然。我本以为山林里都有回声,那回声再凄凉再孤寂都莫过于这一无响应更令人恐怖,回声在这里也被浓雾和湿度饱和了的空气吸收了,我于是醒悟到连我的声音也未必传送得出去,完全陷入绝望之中。

  灰色的天空中有一棵独特的树影,斜长着,主干上分为两枝,一样粗细,又都笔直往上长,不再分枝,也没有叶子,光秃秃的,已经死了,像一只指向天空的巨大的鱼叉,就这样怪异。我到了跟前,竟然是森林的边缘。那么,边缘的下方,该是那幽冥的峡谷,此刻也都在茫茫的云雾之中,那更是通往死亡的路。可我不能再离开这棵树,我唯一可以辨认的标志,我在记忆中努力搜索一路来见到过的景象,得先找到像它这样可以认定的画面,而不是一连贯流动的印象。我似乎记起了一些,想排列一下,建立个顺序,作为退回去的标志。可记忆就这般无能,如同洗过的扑克牌,越理越失去了头绪,又疲惫不堪,只好在湿淋淋的苔前上就地坐下。

  我同我的向导就这样失去了联系,迷失在三千公尺以上航空测绘的座标十二M一带的原始森林里。我身上一没有这航测地图。二没有指南针,口袋里只摸到了已经下山了的老植物学家前几天抓给我的一把糖果。他当时传授给我他的经验,进山时最好随身带一包糖果,以备万一迷路时应急。手指在裤袋里数了数,一共七颗,我只能坐等我的向导来找我。

  这些天来,我听到的所有迷路困死在山里的事例都化成了一阵阵恐怖,将我包围其中。此刻,我像一只掉进这恐怖的罗网里又被这巨大的鱼叉叉住的一条鱼,在鱼叉上挣扎无济于改变我的命运,除非出现奇迹,我这一生中不又总也在等待这样或那样的奇迹?(第58~64页)*1

 木の幹に生えた苔にも、頭上の枝にも、枝の間から垂れ下がったひげのようなネナシカズラにも、そして空中のどこか判然としない場所にも、水が滴っている。透き通った大きな水玉がゆっくりと、一滴ずつ顔に落ち、冷たい水となって首筋に流れ込んだ。厚くて柔らかい苔の絨毯じゆうたんを踏みしめて歩く。苔は何層にも折り重なって、横倒しになった巨木に寄生し、成長と死滅を繰り返している。歩くたびに、濡れた靴がぐしゃっと音を立てた。帽子、髪の毛、ダウンジャケットとズボン、すべてがぐっしょり濡れている。下着も汗で湿って、体に貼りついていた。下腹部だけがいくらか熱気を帯びている。

 彼は前方で立ち止まったが、振り向こうとはしない。後頭部につけた、金属片三枚からなるアンテナが揺れていた。私が折り重なった木の幹を乗り越え、ようやく追いつきそうになったとき、息を整える間も与えず、彼はまた歩き出した。彼は小柄で、すばしこい猿のように痩せていた。くねくねと曲がった道を難なく歩き、選択の余地を与えず、一気に山頂を目指した。朝、キャンプを出発してから二時間になるが、一度も休憩を取らず、まったく口もきかなかった。もしかすると、こういうやり方で私を疎外し、計画を断念するように仕向けているのかもしれない。私は懸命に彼のあとを追ったが、間隔は離れる一方だった。そこでようやく彼は立ち止まり、私が追いついてくるのを待った。私が息をついている間に、彼はアンテナを伸ばし、ヘッドホンをつけ、電波をキャッチしてノートに記録を取った。

 森の中の空地に、気象観測の計器が設置されていた。彼は数字をメモしながら、私に言った。湿度がもう飽和状態だ。それは道中、彼が発した最初の言葉だった。友好のしるしなのだろう。少し先へ行ってから、彼は私に手招きし、枯れた笹の茂みに入ろうと合図した。そこには丸太で組み立てた、人の背丈ほどの高さのおりがあった。出入り口は開いたままで、バネは作動していなかった。彼らはこうした仕掛けでパンダを捕獲し、麻酔銃を撃ったあと、無線機のついた首輪を装着して、再び森に帰すのだ。彼が私の胸元のカメラを指差した。カメラを手渡すと、彼は檻の前でのスナップを撮ってくれた。檻の中の写真でなくてよかった。

 薄暗いシナノキとカエデの林を抜けて行く。ヤマガラが近くのトウキササゲの茂みでずっと鳴いていたので、寂しさを感じなかった。二千七、八百メートルまで登って針葉樹林帯に入ると、樹木がしだいにまばらになる。黒々とした巨大なツガがそびえ立ち、曲がりくねった枝を傘のように広げていた。その三、四十メートルの高さを越えて、さらに五、六十メートルに達するのが灰褐色のトウヒで、緑の若葉の茂るまっすぐに伸びた枝が美しかった。灌木の茂みがなくなったので、見通しがいい。スギの太い幹の間には、四メートルほどの高さのコウザンツツジが群生していて、薄紅色の花をいっぱいにつけている。垂れ下がった枝はまるで、このあふれるほどの美しさを支えきれないかのようだ。大きな花弁を地面に撒き散らし、いつまでもせない美しい色を静かに並べて見せていた。この大自然の取り繕うことのない華麗さが私に、理由のない無念さを抱かせた。だがこの無念さは、私自身に由来するもので、決して大自然の属性ではなかった。

 立ち枯れて、風雪にへし折られた巨木が続いている。残骸ざんがいとなってなお聳え立つ太い幹の下を歩いていると、私は威圧されて押し黙った。はけ口を求めて私を悩ませていた欲望も、この巨大な荘厳さの前では、言葉を失ってしまった。

 カッコウが姿を見せずに鳴いている。ときには前方で、ときには後方で。またときには左側で、ときには右側で。なぜかぐるぐる回って、人を惑わせようとしているようだ。その鳴き声は「哥哥コーコー等我ドンウオー哥哥コーコー等我ドンウオー」[「兄さん、待って」の意]と言っているようだった。私はそこで、兄弟が森へ行ってゴマの種をまく話を思い出した。物語の中の継母ままははは先妻の子供を捨てようとするが、運命の報復によって実の子供を失うことになる。私はさらに、この森の中で失踪した二人の大学生のことを思い出し、不安を抑えきれなくなった。

 彼が前方で突然立ち止まり、手を上げて私に合図した。急いで追いついた私は、ぐっと引き寄せられ、緊張して彼と一緒にしゃがみ込んだ。前方の幹と幹の間に二羽の鳥が見えた。灰色で斑点のある、足の赤い大きな鳥だ。坂道を駆け回っている。私はそっと前に出た。その場の静けさは、空気中の衝撃音によって瞬時に破られた。

雪鶏せつけいだ」彼が言った。

 ほんの一瞬、空気がまた凝固したようだ。坂の上を元気に駆け回っていた二羽の鳥、灰色で斑点があり、足の赤い雪鶏は、まるで存在しなかったようだった。一種の幻覚だったという気がする。目の前にあるのは、またしても微動だにしない巨木だけ。私がいまここを通ることも、私の存在自体さえも、意味がないほど短時間の出来事なのだ。

 彼は以前より友好的になり、私を置き去りにしたりせず、少し行っては立ち止まり、私が追いつくのを待ってくれた。私と彼の距離は縮まったが、やはり言葉は交わさなかった。彼は立ち止まって腕時計を見たあと、ますます視界の開けた空を振り仰いだ。まるで匂いを嗅いでいるような仕草だった。そのあと、彼は一気に坂を登り、手を伸ばして私を引き上げた。

 私はあえぎながら、ついに台地の上に立った。眼下には見渡すかぎりのモミの林が広がっている。

「三千メートルは登ったでしょう?」私は尋ねた。

 彼はうなずくと、台地の小高いところにある木の下へ走って行き、向き直り、ヘッドホンをつけ、アンテナを伸ばして体を回転させた。私もぐるぐる回って観察した。周囲の木はみな幹が太く、等間隔で並んでいる。いずれもまっすぐに伸び、同じ位置で枝分かれした美しい木だった。途中で折れている木は一本もなく、枯れた木は根こそぎ引っくり返っていた。厳しい自然の試練の前では、例外などあり得ない。

 ネナシカズラも、笹の茂みも、灌木も姿を消した。木と木の間隔が広がり、明るさが増し、見通しがきくようになった。遠くに真っ白なツツジの株が、すっくと立っている。驚くほど新鮮で、見る者の心を熱くさせた。近づくにつれて大きさが際立ち、上から下まで巨大な花の塊に包まれているのがわかる。以前見たことのある赤いツツジの花よりも、花弁が大きく厚かった。真っ白で潤いのある、まだ枯れていない花びらが地面に降り敷いている。こんなにも生命力が旺盛で、自分を誇示したいという欲望をみなぎらせているとは。抑えようがなく、見返りを求めず、目的もなければ、象徴と隠喩に頼ろうともしない。こじつけたり、想像をたくましくしたりする必要もない。それは修飾を加えない、自然の美しさなのだ。雪のように白く、玉のように潤いのある白ッッジの株がひとつ、またひとつと現れる。遠く近く、冷厳に聳え立つモミの木の間にぼんやり浮かぶ様は、あの姿を見せない鳥のようだった。疲れることなく人の魂を誘い、少し先まで行っては待っている。私は森林のすがすがしい空気を深く吸い込んだ。息が上がっていたが、呼吸は苦しくない。胸の中が洗われるようだった。空気は足の裏にまで浸透し、全身全霊が大自然の循環の中に置かれたようで、かつて体験したことのない気持ちよさを感じた。

 霧が流れてきて、私の目の前の地面から一メートルほどのところで、パッと広がった。私は身をかわしながら、霧を手で払った。炊煙のように、はっきり目に見える霧だった。私は小走りになったが、それでも間に合わない。霧は私の体をかすめて広がり、目の前の景色があっという間にぼやけてしまった。色彩も失われた。続いて湧き出てきた雲はさらにはっきりした塊となり、渦巻きながら漂っている。私は身をかわしながらも、思わずその雲と一緒に歩き回っていた。坂道にさしかかり、雲の塊から逃れて振り返った瞬間、足元に深い峡谷があることに気づいた。青くかすんだ雄大な山並みが正面に見える。山頂を覆っている厚い雲の層は、もくもくと上下運動を繰り返していた。谷のほうには、いく筋かの雲が見えるだけ。それもすぐに消えてしまった。真っ白な線は流れの速い河で、暗い峡谷の中央を貫いている。それはもちろん、数日前に私が山に入ったときに渡ったあの谷川ではなかった。あそこには村があり、わずかながら畑もあった。山の上から見ると、両岸をつなぐワイヤーロープの橋がとても精巧に見えた。ところがこの薄暗い峡谷には、奥深い林と高々と聳える奇怪な岩があるだけだ。まるで人間が暮らしている気配はない。見ただけで、背筋が冷たくなるのだった。

 太陽が出て、正面の山並みが瞬時に明るくなった。空気がとても澄んでいるので、雲の層の下に広がる針葉樹林の緑の鮮やかさが、見る者の心を楽しませた。胸の底から湧き上がる歌声のようだ。しかも、光の移動につれて、色合いが瞬時に変化する。私は駆け出し、跳びはね、変化する雲の影を追いかけ、夢中になって何枚も写真を撮った。

 灰色の雲がまた背後から近づいてきた。谷があり、窪地くぼちがあり、倒れた幹があることも、まったく意に介していない。私は雲の先を行くことができなかった。雲は落ち着き払って、私に追いついてくる。私は雲に巻き込まれた。目の前から景色が消え、あたり一面が朦朧となった。頭の中にだけ、さっき視覚で得た印象が残っている。困惑の只中にいたとき、一筋の陽光が頭上から差し込んできて、足元の苔を照らし出した。私は足元に、不思議な藻菌植物の世界が広がっていることに気づいた。やはり山があり、林があり、草地があり、やぶがあって、すべてが水に濡れ、美しい緑色に輝いている。私がしゃがんだとたん、また雲が押し寄せてきて、あたり一面に立ち込めた。魔術のように、ぼんやりした灰色の世界が一瞬のうちに戻ってきた。

 私は立ち上がり、漠然とした期待を込めて大声で叫んだが、返事はなかった。もう一度叫んでみても、聞こえるのは自分の重苦しい震える声だけ。それもすぐに消え、こだまも返ってこない。私は急に恐ろしくなった。この恐怖は足元から湧き上がったもので、血も凍りつきそうだった。私はまた叫んだが、今度も返事はない。周囲に見えるモミの黒い樹影は、窪地にあるものも坂道にあるものも、みな同じ形状をしている。私は駆け出し、叫び声を上げた。右を向いたり左を向いたり、精神が錯乱していた。早く落ち着かなければならない。もとの場所に帰らなければならない。いや、まずは方角を確かめることだ。しかし、四方八方に黒い樹影が立ち並び、まるで見当がつかない。すべて見覚えがあるような気もするし、初めて目にする景色のようでもある。こめかみの血管がピクピクと動いていた。自然が私をもてあそんでいるのだ。この信仰を持たず、恐れを知らない、高慢な人間をもてあそんでいるのだ。

 私は、おーい、おーいと叫んだ。一緒に山に入った男の名前を知らないので、ヒステリックにそう叫ぶしかない。野獣のような声を聞くと、我ながら身の毛がよだった。私は、山の中では必ずこだまが返ってくると思っていた。どんなに物寂しく孤独なこだまでも、まったく返事のない恐怖よりはましだ。ここではこだまも、濃い霧と湿度の高い空気に吸収されてしまう。自分の声も伝わらないのだと悟って、私は深い絶望に陥った。

 灰色の空に、独特の形をした樹影が見えた。かしいだ幹は均等な太さで二股ふたまたに分かれ、まっすぐ上に伸びている。その先はもう枝分かれしていない。葉もつけておらず、丸坊主で、すでに立ち枯れていた。空に向かって突き立てられた巨大なやすのようだ。まったく奇妙な形をしている。たどりついてみると、そこが森のはずれだった。だとすると、その先はいまも果てしない雲に包まれている暗い峡谷なのだろう。それは死に至る道でもあった。この木は唯一の目印なので、私はそこから動けなくなった。そして懸命に、途中で見た景色の記憶をたどった。まずはこの木のように、確認できる光景を見つけなければならない。一連の流動的なイメージではだめだ。私はいくつかの光景を思い出したような気がして、それを順番に並べてみようとした。引き返すときの目印にするつもりだった。しかし記憶というのは当てにならないもので、よくシャッフルしたトランプのように、ますます糸口がめなくなる。へとへとに疲れた私は、仕方なく湿った苔の上に腰を下ろした。

 私はこうしてガイドとの連絡を失い、標高三千メートルを越える、航空測量の座標12M一帯の原生林の中に取り残されてしまった。私はその測量地図も、磁石も持っていない。ポケットの中には、すでに山を下りた植物学者が数日前にくれたあめが入っているだけだった。植物学者は、自分の経験を伝授してくれた。山に入るときは、飴を持って行ったほうがいい。万一遭難したとき、急場をしのぐことができる。手をズボンのポケットに突っ込んで数えてみると、全部で七つあった。私はここにすわって、ガイドが探しにくるのを待つしかない。

 この数日間に耳にした、山で遭難して死んだ人間の話のひとつひとつが恐怖に変わり、私を包み込んだ。このとき、私は恐怖の網に落ち、あの巨大な簎で突き刺された魚のようだった。簎の下でもがいても、奇跡が起きないかぎり、自分の運命を変えることはできない。私は一生涯、こうした様々な奇跡を待ち続けているのではないか?(pp. 68-75)

78

  一个死去的村庄,被大雪封住,背后默默的大山也都积雪覆盖,灰黑的是压弯了的树干,那灰的蓬松的该是杉树上的针叶,黯淡的影子只能是雪堆积不上的岩壁,全都没有色彩,不知是白天还是夜晚,昏暗中又都明亮,雪好像还在下着,走过的脚印跟着就模糊了。

  一个麻疯村。

  也许。

  也没有狗叫?

  都死绝了。

  你叫喊一下。

  不必,这里有过人家,一堵断墙,被雪压塌了,好沉重的雪,都压在睡梦中。

  睡着睡着就死掉了?

  这样倒好,怕的是屠杀,斩尽杀绝,无毒不丈夫,先用肉包子打狗,肉馅里掺了砒霜。

  狗垂死时不会哀叫?

  一扁担打过去,打狗的鼻子,高明的打手。

  为什么不打别处?

  狗打鼻子才能顿时丧命。

  他们就没一点反抗?全扼杀在屋子里,没出门一步。丫头和小儿也没逃得出?

  用的是板斧。

  连女人也不放过?

  奸杀女人时更加残忍——

  别说了。

  害怕了?

  这村子不能就一户人家?

  一家三兄弟。

  他们也死绝了?

  说的是血族复仇,要不是瘟疫,或是发了横财,他们在河床里掏到金子。

  他们被外人杀死的?

  他们霸占了河床不准外人来淘。

  河床在那里?

  你我脚下。

  怎么就看不见?

  看见的只是幽冥中升腾的水气,这只是种感觉,这是条死河。

  你我就在这死河之上?

  对了,让我领着你走。

  去哪儿?

  到河的对岸,到那白皑皑的雪地里,雪地的边沿有三棵树,再过去就到山前,被雪覆盖的房屋压塌在积雪之下。只这段残壁还矗立,断墙背后可以捡到破了的瓦罐和青瓷碗片。你止不住踢了一脚,一只夜鸟扑扑飞了起来叫你心凉,你看不见天空,只看见雪还在飘落,一道篱笆上茸茸的积雪,篱笆后面是个菜园。你知道菜园里种有耐寒的雪里蕻和像老婆婆面皮样的瓢儿菜,都理在雪下。你熟悉这菜园子,知道哪里是通往这菜园的后门槛,坐在门槛上你吃过煮熟了的小毛栗,是儿时的梦还是梦中的儿时你也弄不清楚,弄明白要费很大气力,你现在呼吸微弱,只能小心翼翼,别踩住了猫尾巴,那东西眼睛在暗中放光,你知道它在看着你,你假装并没看它,你得一声不响穿过天井,那里竖着根筷子,筷子上扣着个蔑匾,你和她就躲在门背后牵着根麻绳,等麻雀儿来,大人们在屋里打牌,他们都戴着铜边的圆眼镜,像金鱼的鼓眼泡,眼珠突出在眼眶外面,可什么也看不见,捻的纸牌一张张凑到眼镜跟前,你们便爬到桌子底下,看见的全是腿,一只马的蹄子,还有一条肥尾巴拖得老长,你知道那是狐狸,它摆动摆动,变得邦邦硬,成了一条花斑母老虎,蹲坐在太师椅上,随时准备扑向你,你无法从它面前走开,你知道格斗会很残酷,而它就扑向你!

  你怎么啦?

  没什么,好像做了个梦,梦中的村庄落着雪,夜空被雪映照,这夜也不真实,空气好生寒冷,头脑空空荡荡,总是梦到雪和冬天和冬天在雪地上留下的脚印,我想你,

  不要同我讲这个,我不要长大,我想我爸爸,只有他真爱我,你只想跟我睡觉,我不能没有爱情也做爱,

  我爱你,

  假的,你不过是一时需要,

  你说到哪儿去了?我爱你!

  是的,在雪地里打滚,像狗一样,一边去吧,我只要我自己,

  那狼会把你叼走,把你内脏吃空,还有狗熊,把你抢到洞里成亲!

  你就想着这个,关心我,关心我的情绪,

  什么情绪?

  猜猜看,你好苯哟,我想飞——

  什么?

  我看见黑暗中一朵花,

  什么花?

  山茶花

  我摘给你戴上,

  不要破坏它,你不会为我去死,

  为什么要死?

  你放心好了,我不会要你为我去死,我真寂寞,没有一点回声,我大声喊叫,四周静悄悄,泉水声也没有,连空气都这么沉重,他们淘金的河流在哪儿?

  在你脚下的雪下,

  胡说,

  那是一条地下的暗河,他们都躬着腰在河上涮洗,

  有一个刺探,

  什么?

  什么也没有,

  你真坏,

  谁叫你问来着,喂,喂,好像有回声,前面,你带我过去,想过去就过去好了,……我看见,你和她,在雪地里,灰蒙蒙的夜,不甚分明,又还看得见,你在雪地里,一双赤脚。

  不冷吗?

  不知道冷。

  你就这样同她在雪地里一起走着,周围是森林,深蓝色的树木。

  没有星星?

  没有星星,也没有月亮。

  也没有房屋?

  没有。

  也没有灯光?

  都没有,只有你和她,在一起走着,走在雪地上,她戴着毛围巾,你赤着脚。有点冷,又不太冷。你看不见你自己,只觉得你赤脚在雪地里走,她在你身边,挽住你的手。你捏住她手,领着她走。

  要走很远吗?

  很远,很远,不害怕吗?

  这夜有些古怪,墨蓝又明亮,有你在身边,就并不真的害怕。

  有一种安全感?

  是的。

  你在我怀里?

  是的,我依着你,你轻轻搂住。

  吻了你吗?

  没有。想我吻你吗?想,可我也说不清楚,这样就很好,一直走下去,我还看见了一只狗。

  在哪儿?

  在我前面,它好像蹲在那儿,我知道它是一只狗,我还看见你哈着气,腾腾的水汽。

  你感到了温热?

  没有,可我知道你哈出的是热气,你只是哈气,没有说话。

  你睁着眼睛?

  不,闭着,可我都看见了,我不能睁开眼睛,我知道,睁开眼睛,你就会消失,我就这样看下去,你就这样搂住我,不要那么紧,我喘不过气来,我还想看,还想留住你,啊,他们现在分开了,在朝前走。

  还在雪地里?

  是的,雪有些扎脚,但挺舒服,脚有点冷,也是我需要的,就这样走下去。

  看得见自己的模样?

  我不需要看见,我只要感觉,有点冷,有一点点扎脚,感觉到雪,感觉到你在我身边,我就安心了,放心走下去,亲爱的,你听见我叫你吗?

  听见了。

  亲亲我,亲亲我的手心,你在哪儿?你别走呀!

  就在你身边。

  不,我叫你的魂呢,我叫你,你可要过来,你不要抛弃我。傻孩子,不会的。我怕,怕你离开,你不要离开我,我受不了孤独。你这会不就在我怀里?是的,我知道,我感激你,亲爱的。睡吧,安心睡吧。我一点也不瞌睡,头脑清醒极了,我看见透明的夜晚,蓝色的森林,上面还有积雪,没有星光,没有月亮,这一切都看得清清楚楚,好奇怪的夜晚,我就想同你永远待在这雪夜里,你不要离开,不要把我抛弃,我想哭,不知为什么,不要抛弃我,不要离我这么远,不要去吻别的女人!(第476~482页)

 死滅した村、大雪に閉ざされている。背後の物言わぬ山々も積雪に覆われていた。黒っぽく見えるのは雪の重みでたわんだ木の幹で、灰色の塊は杉の尖った葉だ。暗い影は雪をかぶっていない岩壁だろう。いずれも色彩を欠いていて、昼なのか夜なのかさえわからない。薄暗いのに、すべてが明るく見える。雪はまだ降り続いているようで、足跡がすぐに搔き消されてしまった。

 伝染病患者の村ね。

 そうかもしれない。

 犬もいないの?

 すべて死に絶えた。

 叫んでみたらどう?

 その必要はない。ここに住んでいた人たちは、雪の重みで崩れた壁の下敷きになった。寝込みを襲われたんだ。

 眠ったまま死んだの?

 それならよかった。恐ろしいのは大虐殺だ。殺戮さつりくの限りを尽くし、残忍であることが男らしいとされた。まずは肉饅頭まんじゆうで犬を始末した。あんの中に砒素ひそを入れて。

 犬は瀕死の叫び声を上げたでしょう?

 天秤てんびん棒で叩くんだ。鼻に一撃を食らわせるのが、いちばんいい。

 どうして、ほかの場所じゃいけないの?

 犬は鼻を叩かれるとすぐ絶命するんだ。

 抵抗する人はいなかったのかしら?

 全員が室内で殺され、一歩も外へ出られなかった。

 少女や子供も逃げ出せなかったの?

 斧が使われた。

 女の人も容赦なく?

 女は強姦されたから、もっと悲惨で――

 やめてちょうだい。

 怖いのか?

 この村は一家族だけになったのね?

 一家族の三兄弟だ。

 彼らも死に絶えたの?

 一族は怨みを買ったらしい。伝染病がなければ、彼らはボロもうけしていただろう。河底で砂金を見つけたんだからな。

 よそ者に殺されたの?

 彼らは河を独占して、よそ者に砂金を採らせなかった。

 河はどこ?

 我々の足の下さ。

 どうして見えないのかしら?

 見えるのは冥界から湧き上がる蒸気だけ。これは感覚にすぎない。死んだ河なんだ。

 私たちはその死んだ河の上にいるのね?

 そうだ。きみを案内してあげよう。

 どこへ?

 河の対岸へ。あの真っ白な雪原へ。雪原のはずれには三本の木がある。さらに進むと山のふもとに着く。雪に覆われた家は重みに耐えきれず、つぶれてしまった。わずかに残った壁だけがそそり立ち、その背後で素焼きのつぼ青磁の茶碗の破片を拾うことができた。おまえが壁を蹴ると、夜の鳥がバタバタと飛び立った。雪がまだ降り続いていて、空は見えない。厚く雪が積もった垣根の向こう側は菜園だった。菜園では、寒さに強い芥子からしと老婆の顔のようにしわだらけのターサイが、雪の下で育っている。おまえはこの菜園をよく知っていた。どこに菜園の裏門があるのかも知っている。門の敷居にすわって、おまえはゆでたくりを食べた。それは子供時代の夢なのか、それとも夢の中の子供時代なのか。はっきりさせるためには手間がかかりそうだ。おまえは息をひそめ、猫の尻尾を踏まないように用心した。猫は暗闇の中で目を光らせている。おまえは猫の視線を感じたが、自分は猫を見ていないふりをした。物音ひとつ立てずに、中庭を通り抜けなければならない。そこにははしが立ててあり、箸の上にはざるがかぶせてあった。おまえと彼女は門の背後に隠れて、麻縄を手に持ち、雀がやって来るのを待っていた。大人たちは部屋の中で、トランプに興じている。彼らはみな丸いメガネをかけていた。出目金のように目玉が飛び出しているが、何も見えていない。カードは一枚ずつ、メガネのすぐ前まで近づけられる。おまえたちは机の下にもぐり込んだ。見えるのは足ばかり。馬のひづめもあった。太くて長い尻尾は、狐のものだろう。尻尾は左右に揺れ動くうちに硬くなり、まだらとらに変身した。虎は肘掛椅子にすわり、いつでもおまえに襲いかかれる態勢を整えていた。おまえは身動きが取れなくなった。虎と闘えば悲惨な結果になるだろう。ところが、虎はおまえに向かってきた!

 どうしたの?

 何でもない。夢を見たらしい。夢の中の村に雪が降り、夜空は雪に照り映えていた。だが、その夜には真実味が欠けている。空気がとても冷たくて、頭の中は空っぽだ。いつも夢に見るのは、雪、冬、そして冬に雪原に残された足跡だった。きみのことが恋しかった。

 そんな話はやめて。私は大人になりたくない。お父さんが恋しいの。私を本当に愛してくれたのは、お父さんだけだった。あなたは私と寝ることしか考えていない。愛情のないセックスはできないわ。

 きみを愛している。

 噓よ。どうせ一時的な衝動でしょう。

 何てことを言うんだ。愛しているよ!

 そう。雪の上を転げ回る。まるで犬のように。離れてちょうだい。私が欲しいのは自分だけなの。

 狼はきみを連れ去り、内臓を食い尽くすだろう。それに熊も、きみをさらって行って嫁さんにするはずだ!

 そんなことしか思いつかないの? 私のことを考えて、私の気持ちを考えてよ。

 どんな気持ちだ?

 想像してみて。気のきかない人ね。私は飛びたいの――

 何だって?

 私は暗闇に一輪の花を見たわ。

 どんな花だ?

 ツバキの花。

 摘み取って、きみの髪に飾ってあげよう。

 花をいためちゃだめよ。私のために死ぬ気もないくせに。

 どうして、死ぬ必要があるんだ?

 安心して。あなたに死んでくれとは言わないから。私は寂しいの。誰も返事をしてくれないから。大声で叫んでも、あたりは静かなまま。泉の音も聞こえない。空気もこんなに重くて。砂金を採った河はどこにあるの?

 きみの足元の雪の下さ。

 噓でしょう。

 それは地下に隠れた河なんだ。彼らは腰をかがめて、その河で洗い物をした。

 トゲのある麦。

 何だって?

 何でもないわ。

 きみはずるいな。

 質問をしてきたのは、あなたのほうよ。ねえ、ねえ、返事が聞こえたみたい。向こうよ。連れて行ってちょうだい。

 行きたいのなら、自分で行けばいい。

 ……

 私は、おまえと彼女が雪原にいるのを見た。薄暗い夜のことなので、はっきりしなかったが、おまえが雪の中で裸足でいるのも見えた。

 寒くないの?

 寒さがわからない。

 おまえはこうして、彼女とともに雪原を歩いた。周囲は森で、樹木は黒々としていた。

 星はないの?

 星はない。月もない。

 家もないのね?

 家もない。

 明かりもないのね?

 明かりもなかった。おまえと彼女だけが一緒に雪原を歩いていた。彼女はマフラーをしていたが、おまえは裸足だった。少し寒かったが、そうでもないようにも思えた。おまえは自分の姿が見えず、ただ素足で雪原を歩いていることだけを意識していた。彼女は身を寄せて、おまえの手にすがった。おまえは彼女の手を引いて歩き続けた。

 遠くまで行くの?

 ずっと、ずっと遠くまで行く。怖くないだろう?

 今夜は何か変だわ。暗いのに明るいようでもあって。でも、あなたがそばにいるから、少しも怖くない。

 安心感があるのか?

 そうよ。

 胸に抱かれているから?

 そうよ。あなたに寄り添い、抱きしめられている。

 ロづけした?

 まだよ。

 してほしい?

 ええ。でも、自分でもよくわからない。こうしているのが気持ちいいから。ずっと歩き続けるの。私、犬を見たわ。

 どこで?

 目の前にいたのよ。その場にうずくまっていたらしい。でもすぐに、犬だとわかったの。それから、あなたが息を吐くところも見たわ。盛んに水蒸気が上がっていた。

 ぬくもりを感じたのかい?

 いいえ。でも、あなたが吐いた息が熱いことはわかったわ。あなたは息を吐くだけで、何も言わなかった。

 きみは目を開けていたの?

 いいえ、閉じていた。それでも見えたのよ。私は目を開けられなかった。目を開ければ、あなたが消えてしまうことを知っていたから。私はそのまま、あなたに抱かれていた。そんなに強く抱かないで。私は息ができなくなる。私はもっと見たい。あなたにもっといてほしい。ああ、二人は離れてしまった。前へ向かって歩いている。

 まだ、雪原にいるのか?

 ええ。雪に足を取られるけど、気分は最高よ。足が少し冷たいのは望むところだった。このまま歩き続けて行く。

 自分の姿は見えるのか?

 見る必要はないわ。感覚さえあれば、少し足を取られて雪を感じることができれば、あなたがそばにいるという実感があれば、私は安心よ。落ち着いて歩いて行ける。ねえ、私の呼びかけが聞こえる?

 聞こえる。

 ロづけして。私の手に口づけして。あなた、どこにいるの? 行かないで!

 きみのそばにいるよ。

 いいえ。私はあなたの魂を呼んでいるの。ねえ、ここへ来て。私を捨てないで。

 バカだなあ。捨てるはずないだろう。

 怖いのよ。あなたが行ってしまうのが。行かないでね。私は孤独に耐えられない。

 こうして、胸に抱かれているじゃないか。

 そうね。わかってるわ。ありがとう、あなた。

 さあ、安心して眠るんだ。

 私はちっとも眠くない。頭がえわたっているの。私は透き通った夜を観察した。黒い森は雪で覆われている。星もなければ月もない。すべてがはっきり見て取れた。なんて不思議な夜でしょう。私はあなたといつまでも、この夜の中にいたい。ねえ、どこへも行かないで。私を捨てないで。わけもなく、私は泣きたくなった。私を捨てないで。遠くへ行かないで。ほかの女の人に口づけしないで!(pp. 518-525)

*1:引用は高行健《灵山》(桂林:漓江出版社,2000)による。