ひよこのるるの自由研究

日本語で読める世界の文学作品と、外国語に翻訳されている日本語の文学作品を、対訳で引用しています。日本語訳が複数あるものは、読みやすさ重視で比較しておすすめを紹介しています。世界中の言語で書かれたもの・訳されたもののコレクションを目指しています。

世界文学全集のためのメモ 35 『正法眼蔵』 道元

日本語編 12

道元
1200-1253

正法眼蔵
1231-1253

原文
正法眼蔵』(水野弥穂子校注、岩波文庫、全4冊、1990-1993年)📗📗📗📗

現代語訳
①西嶋和夫訳『現代語訳正法眼蔵』1970-1979年(仏教社、全12巻 📗
②高橋賢陳訳『全巻現代訳 正法眼蔵』1971-1972年(理想社、上下巻 📗📗
③中村宗一訳『全訳 正法眼蔵』1971-1972年(誠信書房、全4巻 📗📗📗📗
④増谷文雄訳『正法眼蔵 全訳注』1973-1975年(講談社学術文庫、全8巻 📗📗📗📗📗📗📗📗
⑤玉城康四郎訳『現代語訳 正法眼蔵』1993-1994年(大蔵出版、全6冊 📗📗📗📗📗📗
石井恭二訳『正法眼蔵』1996年(河出書房新社、全5巻 📗📗📗📗
⑦水野弥穂子訳(第1~7巻)、石井修道訳(第8・9巻)『原文対照現代語訳 道元禅師全集 正法眼蔵』2002-2012年(春秋社、全9巻 📗📗📗📗📗📗📗📗📗
⑧窪田慈雲訳『坐禅に活かす「正法眼蔵」現代訳抄』2010年(未見)、『魂に響く「正法眼蔵」現代訳抄』2011年(春秋社 📗📗
ひろさちや訳『新訳 正法眼蔵』2013年(PHP研究所 📗

原文は全く歯が立たないので今回は現代語訳も比べてみたが、この中では⑤玉城康四郎訳が比較的読みやすかった。なお、ここに挙げた以外にもたくさんの現代語訳や注釈書が出ている。

ドイツ語訳
[1]Dōgen Zenji, Shōbōgenzō: die Schatzkammer der Erkenntnis des wahren Dharma (übersetzt von Manfred Eckstein, Zürich: Theseus-Verlag, 1977-1987, 2 Bd.)(Kōsen Nishiyama, John Stevens による英訳からの重訳)
[2]Meister Dōgen, Shōbōgenzō: die Schatzkammer des wahren Dharma-Auges (übersetzt von Ritsunen Gabriele Linnebach und Gudō Wafu Nishijima-Rōshi, Heidelberg-Leimen : Kristkeitz, 2001-2008, 4 Bd.)
[3]Dōgen, Shōbōgenzō. Ausgewählte Schriften: Anders Philosophieren aus dem Zen (übersetzt von Ryōsuke Ōhashi und Rolf Elberfeld, Tokyo: Keio University Press, 2006)

現成公案

 たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、たきぎはさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位ほふゐに住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらにしやうとならず。しかあるを、しやうの死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生ふしやうといふ。死のしやうにならざる、法輪ほふりのさだまれる仏転ぶつてんなり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

 人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天みてんも、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣礙けいげいせざること、滴露てきろの天月を罣礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水だいすい小水せうすいを撿点し、天月の広狭くわうけふ辦取はんしゆすべし。

 身心しんじんに法いまだ参飽さんぱうせざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方よもをみるに、たゞまろにのみみゆ、さらにことなるさうみゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、けたなるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿ぐうでんのごとし、瓔珞えうらくのごとし。たゞわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法またしかあり。塵中ぢんちゆう格外かくぐわい、おほく様子やうすたいせりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取会取ういしゆするなり。万法の家風をきかんには、方円はうゑんとみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下ちよくかも一滴もしかあるとしるべし。

 うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只ようだいのときは使だいなり。えうせうのときは使せうなり。かくのごとくして、頭々てうてう辺際へんざいをつくさずといふ事なく、処処に踏飜たふほんせずといふことなしといへども、とりもしそらをいづればたちまちに死す、うをもし水をいづればたちまちに死す。以水いすい為命ゐめいしりぬべし、以空いくう為命ゐめいしりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修証しゆしようあり、その寿者じゆしや命者みやうしやあること、かくのごとし。

 しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李あんりしたがひて現成げんじやう公案こうあんす。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。

 しかあるがごとく、人もし仏道修証しゆしようするに、とく一法いつぽふつう一法いつぽふなり、一行いちぎやうしゆ一行いちぎやうなり。これにところあり、みち通達つうだつせるによりて、しらるゝきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽きうじん同生どうしやうし、同参どうさんするゆゑにしかあるなり。得処とくしよかならず自己の知見ちけんとなりて、慮知りよちにしられんずるとならふことなかれ。証究しようきうすみやかに現成げんじやうすといへども、密有みつうかならずしも現成げんじやうにあらず、見成これ何必かひつなり。(1, pp. 55-59)

①西嶋和夫訳

 

薪は灰となる。〈しかし〉さらに灰が薪となることはあり得ない。しかしながら〈この事から〉灰は後の状態、薪は前の状態という風に判断してはならない。銘記せよ。薪は薪という宇宙秩序の一隅に座を占め、前もあればあともある。しかも前もあり、後もありながら、前との間、後との間はいずれも切断されている。灰は灰という宇宙秩序の一隅に座を占め、後もあれば前もある。〈しかも後もあり前もありながら前後との間はいずれも切断されている。〉上記の薪が灰となった後、さらに薪となることがないのと同じように、人が死んだ後、さらに生きるということはない。しかしながら生が死に変化するというふうに主張しないことが、仏教的世界観に特有の慣例である。このような理由から〈仏教では生のことを瞬間瞬間における状態として把え〉「生起しない」という。〈また〉死が生に変化しないということも、釈尊の説法における定式的な主張である。〈そして〉このような理由から〈仏教では死のことをも瞬間瞬間における状態と考え〉「消滅しない」という。生もある瞬間における状態であり、死もある瞬間における状態である。〈それは〉たとえば冬と春との関係のようなものである。冬が春に変化するというふうに思惟せず、春が夏に変化するというふうに主張しないこと、〈これが仏教における鉄則〉である。

人が悟りを得る有様は、水に月影が宿るのに似ている。〈この場合〉月が水にぬれるということもなく、月によって水がやぶられるということもない。月の光は広く大きなものではあるが、極めて狭い水面にもやどり、月全体も天空全体も、草の葉におく露にもやどり、一つの水滴にもやどる。〈そして〉悟りが人に対して破壊的な作用をしないことは、月が〈水に映った場合〉水に穴をあけることがないのと似ている。〈また〉人が悟りに対して障害とならないことは、一滴の露が天空や月に対して障害とならないのに似ている。水が深いということは、悟りが高いということの数量的比喩として考えてよかろう。〈また〉悟りを得るまでの時間の長短は、面積の広い水面、面積の狭い水面を〈それぞれ〉検討し、天空や月の広い狭いを考えて〈比喩的に〉判断すべきである。

自分の肉体や精神の中に、宇宙秩序がまだ充分に行き亘っていないうちは、すでに宇宙秩序が充分身心に行き亘ったように自覚される。〈しかし〉仮りにも宇宙秩序が自己の身心に充実した場合には、何となく何処かが不足しているように感ずるものである。たとえば船に乗って、山の全く見えない海中に出て四方を見ると、〈海は〉ただ丸くばかり見えて、その他の様子は全く眼に入らない。しかしながらこの大海原は丸いことがすべてでもなければ四角いことがすべてでもない。それ以外の海の性質も〈非常に多く〉挙げつくすことが困難である。海は魚たちにとっては自分たちの住む宮殿である。天人にとっては、自分たちの身を飾る宝玉の首飾りであり、装身具である。ただ我々の眼の届く範囲内では、一時的に丸く見えるに過ぎない。〈そして海が〉このようである如く、宇宙の様子もまた同じである。世間的な見方、出世間的な見方等々により、宇宙も多くの様相を呈してはいるが、〈それは〉真理を学ぼうとする眼の力が及ぶ範囲内だけを認識し理解しているに過ぎない。宇宙の様子を聞こうとする場合、四角いとか丸いとか見える他に、その他の海の性質、山の性質等多くの性質が無限に存在し、〈また海や山以外の〉四方の世界もあることを知らねばならない。ただ単に周囲がこのよう〈に多様〉であるばかりではない。時間的な最小単位である今日唯今の瞬間も空間的な最小単位である海水の一滴も同様であるということを知るべきである。

魚が水中を泳ぐ場合、泳いで水の限界に到達してしまうということはなく、鳥が空を飛ぶ場合、飛んで空の限界に到達してしまうということもない。したがって魚も鳥も未だかつて水或いは空を離れたためしはなく、ただ魚や鳥にとってその動きが大きい時には、水や空を活用することも大きく、魚や鳥にとってその必要があまりない時には、水や空の活用もそれだけ小さいに過ぎない。このようにして魚や鳥はそれぞれ自身の最大限を発揮しないということはなく、到る所に活躍しないということはないが、しかももし鳥が空から逸脱すれば忽ちに死ぬし、もし魚が水を逸脱すれば忽ちに死ぬ。〈そこで〉水や空こそ生命であるという考え方もあれば、鳥や魚こそ生命であるという考え方もあり、〈逆に〉生命が鳥や魚の姿をしているという考え方もある。〈また〉この他にもさらに進んだ見方があるであろうし、実践もあれば体験もある。年齢とか生命とかというもののあり方もこのようである。しかるに水を探究し空を探究し尽した後、水や空を泳いだり飛んだりしようとする魚や鳥がもしあったとするならば、それらの魚や鳥は、水にも空にも行為の方途を得ることができず、行為の場を得ることができない。〈逆に〉この行為の場をさえ獲得すれば、それに具体的な行為が自然に随伴し、宇宙秩序が現実のものとなる。この行為の方途をさえ獲得するならば、それに自然に随伴する具体的な行為こそ現実の宇宙秩序そのものである。〈そして〉この行為の方途なり、この行為の場なりは、大きいとも規定できないし、小さいと規定できない。それは主体でもなければ客体でもなく、従来から存在するのでもなく、〈また〉今出現したものでもない。〈しかも〉それなればこそ、現に眼の前に実在するのである。このように人が仏教的真理を実践し体験する場合は、一つの宇宙秩序を体得することにより始めて一つの宇宙秩序に通達し、一つの行為に遭遇することにより始めて一つの行為を実践する〈といったように、仏教的真理に対する一つ一つの個別的な体験であり、実践である〉。この場合、行為の場が存在し、行為の方途が整っているにもかかわらず、認識の対象としては必ずしも明瞭でないのは、この認識することと仏教的宇宙秩序の究局とが同時に生起し、同処に共存するがために、どれが認識の主体でどれが認

識の客体であるかが明瞭でないからである。〈すなわち〉自分の把握したところのものは、必ず自分の認識となり、世界観となって理性的な認識の対象となると思い込んではならない。仏教の究局を体験するということは、早急に実現可能なところではあるが、密かにそれを持ち続けているということは、顕現と必ずしも同一ではなく、〈総じて〉現実とは、いい難き何物かである。(1, pp. 88-94)

②高橋賢陳訳

 

 たき木は燃えて灰となる。それがまたもとにかえってたき木になるということはない。仏典にもそのように述べてあり、確かにそれには違いないが、これを常識的に解釈して灰はのちで、たき木はさきだからと思ってはならない。知るがよい、たき木はたき木というあり方においてその前後があるのであり、前後はありながら前後はとぎれているのである。同様に、灰は灰というあり方においてそれの前後があるのである。右の、たき木が灰となってからは、もはやたき木とはならないのと同様、人が死んでからまたもとの生となるということはない。それをやはり、死がのちで生がさきだからと思ってはならない。元来が右のような断絶性(前後がとぎれていること)の道理により、生が死になると言わないのが仏法上の当然の理とされているところであり、また死が生にはならないと言うのも仏のつねづね説かれる教えであって、そうした道理を不生不滅と言うのである。生は生でその時のあり方であり、死は死でその時のあり方である。たとえば冬と春とのようなもので、冬が春になるとは思わず、春が夏になるとは言わないのと同様である。

 人が悟りを得るのは、水に月がやどるようなものである。月がそれによってぬれるわけではない、水もそのために破れるということはない。広く大きな光であるけれどもわずかな水にやどり、月全体も天全体も、草の露にもやどれば一滴の水にもやどる。悟ったからとて人間が変わるわけではないのは、ちょうど月が水を突き破らないのと同様である、人が悟りを妨げないのは一滴の露が天の月を妨げないのと同様である。そしてその映ることの深いのは月が高いことによるものであろう。またその時の修行の長短は、水の大小とそれに映る天月の広狭とから判断して、じゅうぶん納得しておくべきことである。(たとえば、長期の修行を経た悟りは大水が天月を広く映すのにも似ており、短期の修行による悟りは小水が天月を狭く映すのにも似ている。いずれにしてもそれは時による悟りであって、悟りの質に変りのないことは水の大小、天月の広狭にかかわらず、映すのは全天であり全月であるのと同様である)。

 身心に仏法がまだじゅうぶん体得されていない間は、むしろこれで足りたように思う。反対に、仏法がもし身心にゆきわたれば、どこか不足しているように思うものである。たとえば船に乗って陸の見えない海洋に出て行き、四方を見るとただまるく見えるだけで、ほかに格別異なった様子があるようには思われない。しかしながら、この大海は円いのではない、四角いのでもない、残っている海のあり方を見つくすことができないのである。水は魚にとっては宮殿のようであり、天人にとっては玉の首飾りのようであると言われるが、人が大海へ出た場合も、ただ視野の及ぶ範囲で一応まるく見えるだけである。それと同様に、すべての事物がまたそうである。世間的にも仏法のうえでも、種々さまざまな趣きがあるけれども、修行の能力の及ぶ範囲内だけで理解し会得しているのである。万事につけ、そのものの真相を知ろうと思えば、さきの流のように、円いとか四角いとかの表面上見えることのほかに、残された海のあり方、山のあり方が限りなく多く、諸方面にいろいろな世界があることを知るべきである。自分の周辺だけがそうなのではない、自分の足もとも一滴の水も同様であることを知らなくてはならない。

 魚が水を行くのに、どこまで行っても水に限りはない。鳥が空を飛ぶのに、どこまで飛んでも空に限りはない。しかしながら、魚も鳥も昔からまだ水を離れたことがなく、空を離れたことがない。ただ、必要や能力によって大きくも使い小さくも使うのである。このようにして、それぞれがそれなりの限定によって無限の真理を実現していくのであり、時に応じて特別な活動をするのでもあるが、それにしても水や空を離れてのことではない。鳥がもし空を出ればたちまち死ぬ、魚がもし水を出ればたちまち死ぬ。すると、魚には水がいのちであることがわかったであろう、鳥には空が命であることがわかったであろう。それはまた、空から言えば鳥が命であり、水から言えば魚が命でもある。さらには、命が鳥であったのでもあろう、命が魚であったのでもあろう。そのほか、いろいろの言い方があるであろうが、要するに修行と悟りの性格もそのように相即不離のものであり、そこに一体としての生命があるのである。それなのに、水や空を知りつくしてから水・空を行こうとする魚鳥があるならば、結局水にも空にも生きる道は得られず、安住の所や活躍の場は得られるものではない。

 この所を得れば、その実践がおのずから公案(絶対心理)として現成(実現(現実成就))するのである。この道を得れば、その実践がそのまま現成公案(現実そのままが絶対真理)なのである。この道と言い、この所と言う、その〝道〟や〝所〟は、大きいとか小さいとか初めから決まったものではない。自分の領域、他人の分野と、区別されたものでもない。前からあるのでもなければ、いま現われるというのでもない。だからこそ、実践によってそれ相応に限定することができるのである。ちょうどそのように(魚鳥が無限の可能をそれなりに限定していくというように)、人がもし仏道を修行し実証する場合には、一つの法を得れば一つの法に通じるのである。一つのぎように出会えば一つの行を修めるのである。そこに安住(あるいは安んじて自由に活動する)の地がある。それに至る道も自由に通じているのであるから容易にわかるはずであるが、その辺のところが明瞭に知り分けがたいのは、それを知ることが、仏道に徹することと同時であり、それに伴っているから、そのようなのである。

 身に体得して本物となった所は、必ず自分の知見(知識見解)となって、思慮分別的な意識でとらえられると思ってはならない。もちろん修行に徹して得た結果は即座に現われるものではあるが、そのものに密接したあり方は、必ずしも容易に気付かれるような形で現われるものではない。本物の現われというものは、これといって固定的にとらえられるようなものではない(時宜に即した本来的な実践だけが、よくこれを実現し得るのである)。(上巻, pp. 11-15)

③中村宗一訳

 

 たきぎは燃えて灰となり、それが再び薪に戻ることはない。しかしそれをいちがいに、薪は始めにあるものであり、灰はそれに続くものであると考えてはならない。薪は薪になりきっていて、始めから終りまで薪である。見かけの上では前後があるが、それは、つながりのない前後であって、薪はどこまでも薪である。灰もまた灰になりきっていて、始めから終りまで灰である。ちょうど、薪が灰となった後に、再び薪となることがないように、人が死んでから、再び戻ることはない。このように、生といえば生になりきっていて、生が死に移り変わるといわないのが、仏道において定められた教えである。従ってその道理は、死と生との前後際断であるから、生とは何物からか生れたものでないから「不生」というのである。死といえば死になりきっていて、死が生に移り変わるといわないのが、仏道において定められた教えである。従ってそれを、何物かが死ぬということでないから不滅というのである。生といえば一瞬々々において生になりきっており、死といえば一瞬々々において死になりきっている。それは警えば冬と春のようなものである。人は、冬そのものが春に変わるとは思わず、春そのものが夏になるとはいわない。

 人が悟りを得るのは、ちょうど水に月が宿るようなものである。月は濡れず、水は傷つかない。月も月として、水も水としてそのままである。広く大きな光ではあるが、寸尺の水にも宿る。月も空も全体が草の露にも宿り、一滴の水にも宿る。悟りが人を傷けないのは、月が水をつらぬかないようなものである。人が悟りを妨げないのは、一滴の露が天の月を妨げないようなものである。一滴の水の深さは、天の月の高さを宿している。月影が宿る時の長短にかかわらず、それが大水にも小水にも宿ることを学び、天の月の大きさを知るべきである。

 身心に仏道が本当に体験されていない時には、却ってそれが十分であると思う。もしそれが本当に体験されているならば、どこか一方が足りないと思う。響えば、船に乗って海に出て四方を眺めるとき、海は円く見えるばかりで、その外の形は見えない。しかし、海は円いものでもなく四角いものでもなく、そのほかに様々の姿かたちがある。海は魚が見れば宮殿であり、天人が見れば宝玉づくめの玉飾りである。それがわれわれの目に円く見えるに過ぎないのである。総てのものごとがそうである。常識の立場にも、仏道の立場にも様々の立場があるが、人はただ、自分の能力の範囲内でしか、それを知ることができない。ものごとの真実を知るためには、海山が円いとか四角いとか見えるほかに、そのほかの姿かたちが極まりなく、無限の世界があることを知るべきである。自分の周りがそうであるばかりでなく、自分自身のうちにも、無限の世界があることを知るべきである。

 魚が水を行くとき水には限りがなく、鳥が空を飛ぶとき空には限りがない。しかし魚や鳥は昔から水や空を離れず、広く行く必要があれば広く行き、狭く行く必要があれば狭く行く。そのようにして、それぞれの道を尽くしているとはいえ、鳥が空を離れればたちまち死に、魚が水を離れればたちまち死ぬ。魚が水を命とし、鳥が空を命としていることを、人は知っている。その上は鳥無いところには空は無く、魚の無いところに海は無いことを知りなさい。命は現鳥において実現し、魚において実現するのである。このことを体験すべきである。修行のうちに悟りがあり、それによって長短を超えた命が実現されるということは、このようなことである。それをもし、水を究め尽くしてから後に、水や空を行こうとする鳥魚があるならば、水にも空にも、行くべき道を得ることができず、安住すべき処を得ることができない。今の自分のいるところに気がつけば、おのずから修行ができて、真理が実現するのである。今の自分の行くべき道に気がつけば、おのずから修行ができて、真理が実現するのである。なぜならば、真理を実現するための道や処は、大きなものでも小さなものでもなく、自分のものでも他人のものでもなく、いつどこにおいても実現されるものだからである。以上の譬えのように、仏道の修行をして悟りを得るということは、一つのことにあえばそのことを究め、一つの行いをなせばその行いを貫くことである。そこに仏道を実現する境地があり、仏道を実現する道がありながら、なかなか、そのことを悟ることができない。なぜならば、そのことを悟ることそのものが、仏道の究極を知ることにほかならないからである。

 悟ったことが、必ず知識となって論理的に理解されるとは限らない。悟りの究極は修行によってすぐさま体験されるものであるが、それが自分によって気づかれるとは限らない。なぜならば、それが表面的理解を超えていることだからである。(1, pp. 3-7)

④増谷文雄訳

 

 たきぎは灰となる。だが、灰はもう一度もとに戻って薪とはなれぬ。それなのに、灰はのち、薪はさきと見るべきではなかろう。知るがよい、薪は薪としてさきがありあとがある。前後はあるけれども、その前後は断ち切れている。灰もまた灰としてあり、後があり先がある。だが、かの薪は灰となったのち、もう一度新とはならない。

 それと同じく、人は死せるのち、もう一度生きることはできぬ。だからして、生が死になるといわないのが、仏法のさだまれる習いである。このゆえに不生ふしようという。死が生にならないとするのも、仏の説法のさだまれる説き方である。このゆえに不滅ふめつという。

 生は一時のありようであり、死もまた一時のありようである。たとえば、冬と春とのごとくである。冬が春となるとも思わず、春が夏となるともいわないのである。

 人が悟りを得るのは、水に月の映るようなものである。月も濡れない、水もわれない。月「は「天る光であるが、ぼんほどの水にやどり、月天のことごとくが、草の露にもやどり、一滴うにもやとる。悟りが人をそこなうことなきさまも、月が水を穿うがたざるに同しである。人が信りをこばむことなきさまは、一滴の露が月天をこばまめにひとしい。深きは高きの尺度であろう。だが、年月の長短などのことは、水の大小により、うつる月天の広狭はないことを考えてみるがよかろう。

 いまだ身心しんじんに法のゆきわたらぬ時には、すでに法は満てりと思う。もし法が身心に満ちた時には、どこかまだ足りないように思われる。

 たとえば、船に乗って、陸のみえない海にいで四方を眺めると、ただ円いばかりで、どこにも違った景色はみえない。だが、大海は円いわけでもなく、四角いわけでもない。それ以上の海のさまは見えないだけのことである。海の徳は宮殿のごとく、瓔珞ようらくのごとしという。ただ、わが視界のおよぶところが、いちおう円く見えるのみである。

 よろずのことどももまた同じである。それはこの世の内外にわたり、さまざまの様相をなしているが、人はその力量・眼力のおよぶかぎりをもって見かつ解するのである。よくよろずのことどものさまを学ぶには、ただ円い四角いと見えるところのみでなく、見えざる山海のありようのなお際限さいげんなく、さまざまの世界のあることを知らねばならぬ。自己のまわりがそうというのみではない。脚下も、一滴の水も、またそうだと知らねばならぬ。

 魚が水のなかをゆく。どこまで行っても水の際限はない。鳥が空を飛ぶ。どこまで飛んでも空に限りはない。だが、魚も鳥も、いまだかつて水を離れず、空を出ない。ただ大を用うるときは大を使い、小を要するときは小を使う。そのようにして、それぞれどこまでも水をゆき、ところとして飛ばざるはない。島がもし空を出すればたちまちに死に、魚がもし水を出でなばたちどころに死ぬ。水をもっていのちとなし、空をもって命となすとはそのことである。鳥をもって命となし、魚をもって命となすのである。いや、命をもって鳥となし、命をもって魚となすのであろう。そのほか、さらにいろいろといえようが、われらの修証しゆしようといい、寿命というも、またそのようなのである。

 それなのに、水を究めてのち水を行かんとする魚があり、空をきわめてのち空をゆかんとする鳥があらば、彼らは水にも空にもその道を得ず、その処を得ることはできまい。その処を得れば、その行くところにしたがってさとりは実現し、その道を得れば、そのむところおのずからにさとりは顕現する。その道、その処は、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、前よりあるにあらず、いま新たに現ずるにもあらず、おのずからにしてかくのごとくなるのである。

 それと同じく、人の仏道をおさめんとするにも、一法いつぽうを得れば一法に通ずるのであり、一行いちぎようにあえば一行を修するのである。そこにもまた処があり、道が通じているのであるが、それがはっきりとは判らない。それは、仏法を究めるとともに生じ、ともに関わるからなのである。

 自己の得たるところは、必ずしも、自己の知見となって自覚せられるものと思ってはならぬ。悟りはすみやかに実現しても、わが内なる所有しようはかならずしも明らかではない。それを明らかにすることはかならずしも必要ではないのである。(1, pp. 47-54)

⑤玉城康四郎訳

 

  たきぎが燃えつきると灰となる。灰はふたたび薪にかえることはできない。それだからといって、薪は先で灰は後であると見てはならない。よく知るがよい、薪は薪の在り方として先があり後がある。前後はあっても、前後の跡かたは断ち切れている。灰もまた灰の在り方として後があり先がある。しかしかの薪は、火となった後は、さらに薪とはならない。

 それと同じように、人が死んだのちには、ふたたび生にかえることはできない。しかし、生が死になるといわないのが、仏法の定まったならわしである。それゆえに不生という。また死が生にならないのも、仏説のさだめである。それゆえに不滅という。生も一時のありかたであり、死も一時,のありかたである。たとえば、冬は冬、春は春である。冬が春になり、春が夏になるとはいわない。

 人が悟りを得るのは、たとえていえば、水に月がやどるようなものである。月もぬれず、水もやぶれない。悟りも月も、広く大きな光ではあるが、小さな器の水にもやどる。月全体も大空も、草の露にもかげをおとし、一滴の水にもうつる。悟りが人をやぶらないことは、月が水をうがたないようなものである。人が悟りをさまたげないことは、一滴の露が天空の月をそのままやどすようなものである。しかし水が深ければ天空の月も高い。人によって修行の時節の長短がある。したがって、それぞれの自覚において、水が大きいか小さいか、天空の月は広いか狭いかを、よくよく調べわきまえるべきである。

 法が身心にゆきわたっていないときは、法はすでに充ち足りていると思う。法が身心に満ちた場合には、どこか一方足りないように思われる。たとえば舟にのって、島も見えない海のなかに出て四方を見廻すと、ただ円く見えるだけである。どこにもちがった景色は見えない。しかし実際は、大海が円いというのではない。また四角なのでもない。眼に見えない海の性質というものはとても尽くすことはできない。一水四見といって、同じ水でも、人間にとっては水に見えるが、魚には宮殿であり、天人には瓔珞ようらく(玉の首かざり)であり、餓鬼には濃血である。海の場合も、ただ眼の届くかぎりが、しばらく円く見えるだけである。

 一事が万事で、その他のこともすべてそうである。世間のことについても、出世間(世を超える)のことについても、さまざまな様相を帯びているが、参禅して眼力の及ぶだけを見るのであり、会得するのである。あらゆるものの在り方を学ぶには、円い四角いと見えるほかに、海や山の性質は限りがなく、さまざまな世界のあることを知るべきである。自分の身の回りのことだけではない、足下も一滴の水もそうであると知らねばならぬ。

 魚が水を行くとき、いくら泳いでも水に果てしがなく、鳥が空をとぶとき、いくらとんでも空に限りがない。しかしながら、魚も鳥も、いまだかつて水や空を離れたことがない。働きが大きいときは、使い方も大きいし、働きが小さいときは、使い方も小さい。

 このようにして、そのときそのときに究極を尽くしており、その所その所に徹底しているのであって、もし鳥が空を離れるとたちまちに死んでしまうし、魚が水を出ればたちまちに命はない。したがって、水がそのまま命であり、空がそのまま命であることが知られよう。さらにいえば、鳥が命であり、魚が命である。また命が鳥であり、命が魚であろう。このほか、さらに進んでさまざまないい方があろう。修行しつつ実証(悟り)があり、またその人の寿命があるということも、このようなことである。

 それにもかかわらず、水をきわめ、空を究めてのちに、水や空を行こうとする鳥・魚があるとしたら、水にも空にも、道を得ることも所を得ることもできない。そうではなく、この所を得れば、また、その道を得れば、この日常現実がそのまま永遠の真実となる。この道、この所というのは、大でもなく、小でもなく、自分でもなく、他のものでもなく、初めよりあるのでもなく、いま現われるのでもないから、まさにこのようにあるのである。

 これと同じように、人が仏道を修行し実証する場合には、一法を得れば一法に通じ、一行にえば一行を修するのである。ここに所が得られ、道は通達しているのであるから、それは対象としては知り得ない。なぜかというと、この知るということが、仏法を究めることと一体であるから、そのようになっているのである。

 修行によって体得したことが、かならず自分の見解となって、それが分別でとらえられると思ってはならない。たとい悟りの究極はたちまち実現しても、内密の存在が、かならずしも実現しているわけではない。その実現は、かならずしも決まってはいないのである。(1, pp. 97-101)

石井恭二

 

薪は灰になったならば、ふたたび薪となることはありえない。この事情を灰はのちで薪はさきだと理解してはいけない。知っていなければならないことは、薪は薪としての現象であって、さきがありのちがある。前後はあったとしても、その前後はきれていて現在のままである。灰は灰としての現象であって、これもまた、のちがありさきがある。

かの薪が灰になってしまったならば、ふたたび薪とならないように、人が死んだならばふたたび生きた人にはならない。こうした事情について、生が死になると云わないのはすべての存在する現象は空であって実体がないのだという理にかなったことである。だから仏法では、実体のない生を現象として不生というのである。死が生とならないことも、仏法によって現われる全現象のなかのことである。そのゆえに死にも実体がないからこれを不滅というのである。生と滅とは対立していない。つまりは、生も時に等しい現象である。死も時に等しい現象である。例えば冬と春とのようなものだ。人は冬が春となるとは思わない、春が夏となると云わないのだ。

人が覚りをえるのは、水に月が宿るようなものである。そのとき、月は濡れもしない、水が壊れることもない。広く大きな光ではあるが、ほんの少しの水にも宿り、月のすべては天のすべては草の露に宿り、一滴の水にも宿る。覚りが人を壊さないのは、月が水を穿つことのないようなものである。覚りを覆い妨げることがないのは、一滴の水に天月のすべてが覆い妨げられることなく宿るようなものである。水に映る影の深さは天の高さと等しい。時間の長さと短さは、無量の時も一瞬の時も時であり、大きな水と小さな水のようなものだと考え、大きな水に大きな月と広い空が映り小さな水に小さな月と狭い空が映るようなものだと、努めて会得しなければならない。

身心に仏法が満ちあふれていない状態においては、法がすでに充足していると感じるものだ。仏法がもし身心に満ちているときには何かが足りていないと感じるものである。

たとえば、船に乗って陸も見えない海原に出て四方を見ると、海はただ丸いとだけ見えて、そのほかの姿に見えることがない。しかし、この大海は、丸いものではなく、四角いものでもなく、目には見えない海の様相は尽くしきれない姿をもっている。それは宮殿のように瓔珞のように見事なものである。眼のおよぶばかりには、ただ丸いと見えるだけである。

このように、万象もまたそのようである。一塵の中にも形に捉われぬものにも、多くの様相があるけれど、学び学んで眼力の届く限りを見取り会得するのである。森羅万象にある真の姿を知るためには、目に見える形のほかに、残りの形相は多く極まりなく、そのように十方世界が成り立っていることを知らねばならない。己れの周囲のみがこのようであるわけではない、己れ自身も微小な存在もこのようであると知るべきである。

魚が水中を泳ぐときは、泳いでも泳いでも果てしはなく、鳥が空を飛ぶとき、いくら飛翔しても空に果てしはない。魚も鳥も昔から水中や空中をはなれたことはない。ただ用いる必要さが大きいときは使い方もそれだけ大きい。必要さが小さいときは使い方は小さいのだ。このようにして、それぞれに即したその境涯を使いつくさないことはなく、処々に飛び回らないことがないけれども、鳥がもし空から出ればたちまちに死ぬ。魚がもし水を出ればたちまちに死ぬ。魚は水が命のすべてであることを知っているだろう、鳥は空が命のすべてであることを知っているだろう。鳥にとっては、自分が命のすべてであり、魚にとっては、自分が命のすべてである。命が鳥のすべてであろう、命が魚のすべてであろう。このほかさらに思惟を進めるべきである。[日常の中に]覚りはあるのであって、寿命ある者の生きていることとは、かくのごときである。

そうであるのを、水を究め知り、空を究め知ってから、水や空のなかに生きようと考える魚や鳥があったならば、それらは、水中にも空中にも生きてゆく法を会得するはずがない、生きる場を得ることができない。こうした場であることを会得すれば、日常の現実は、そのまま公按の現成であることが理解される。こうした理法が会得されれば、この日常の現実はそのまま理法の現われであることが理解される。この理法と、この場とは、大きい小さいといったものとは関わりがない、主客といったものではない、過去からあったものではなく、目の前に現われるものではないことから、理法の現われとはこのようなものとしてあるのだ。

このように、人がもし仏道を修行するときには、一つの法を会得することによって全法に通じるのであり、一つの行に出会うことによって全ての行を修めるのである。そのための場はあるのであって、道は本来知られているのに、その場がはっきりしないのは、この知るということが、仏法を究めることとともにあり、知るということはそれと同時であるからである。得た知というものが必ず自己の知見となって、自分に認識されるものだと考えてはならない。究極の覚りは必ず現われるのではあるが、仏法が普遍の究極に存在しているという真実は必ずしも顕在化しないし、見てとれるように現実化することは必ずしもないのである。(pp. 22-28)

⑦水野弥穂子訳

 

 たき木は(燃えて)灰になる、その灰がもう一度たき木になるはずはない。そうであるのに、灰は薪の後の姿であり、灰の前身は薪であると見取てはならない。よく理解しなさい、たきぎは薪のあるべきあり方にあって、その前(樹木であった時)もあり、その後(灰になること)もある。前も後もあるのだが、前も後もまったく別の存在としてあるのである。灰になった時の灰は灰の法位(その時のあり方)としてあり、その後のあり方もあれば、その前のあり方もある。(しかし、)その薪が灰となってしまった後に、もう一度薪になることはないように、人が死んだ後は、それがもう一度生になることはない。こういうことであるので、生が死になると言わないのは、仏法が常に言いならわしてきたところである。だから、この生は(死に対立した生でないから)不生という。死が生にならないというのは法の真実として、いつに変わらず仏の説くところである。だから(生に対立する滅ではないから)不滅という。生も一時(その時)の位(あり方)であり、死も一時(その時)の位(あり方)である。具体的に言うならば、冬と春とのようなものである。冬が春になるとは(仏法では)思わないのであり、春が夏になるとは(仏法では)言わないのである。

 人(誰でもいい、人)が、さとりを得るということは、水に月が宿るようなものである。(月が水に宿ったからといって)月がぬれることはなく、(水に月が宿ったからといって)水が破損することもない。(月の光は)ひろく大きな光であるが、一尺の水にも一寸の水にも宿り、月の全体もそら全体も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿る。(人がさとりを得るといっても、その)さとりが人を破損する(前と違ったものにする)のでないことは、月が(水に宿っても)水に穴をあけないようなものである。人(ただ人であればいい)が(出来・不出来、貴賤男女によって)さとりの罣礙さしさわりにならないことは、一滴の水も(水であれば)天月をうつすのに何の罣礙さしさわりもないようなものである。(自己を知ることが)深いということは、それだけ高い(法の)分量めもりであるにちがいない。(さとりの)時節が、いつであるかは、水そのものに大きい水と小さい水があるかどうか撿点しらべあげ、天月に広い狭いがあるかどうか、修行の上からわきまえなさい。

 (仏道修行者の)身と心に、法が十分ゆきわたらない間は、法はもうこれで十分だと思われる。法がもし身と心に十分足りてくると、一方で足りないところがあると思われるものである。具体的なことで言ってみれば、(大)船に乗って、陸地も見えない海中に出て四方を見ると、海はただ(水平線だけ)まるく見えて、他に別の海の相は見られない。そうではあるが、この大海(のすがた)は、円いのでもない、しかくいのでもない、そのほかの、海が海としてある功徳はあげつくすことができないのである。龍魚は水を宮殿と見、天人は水を瓔珞たまかざりと見る(人間は水と見ているが、餓鬼には膿血うみしる・ちと見える)ようなものである。ただ(それぞれ)自分の眼(力)の及ぶ範囲で、とりあえず(海は)円いと見えるだけなのである。それと同じように、(自分の外にあると思っている)万法(万物)もまたその通りである。塵中(世間のこと)も格外(仏法の上のこと)も、それぞれいろいろな様子ありかたがあるのであるが、参学して開けてくる眼力の及ぶ範囲だけを、見たり会得したりするのである。(自己の外にあると思っている)万法の家風ありかたを(その真実の通りに)受けとるには、しかくい、まるいと見える形のほかに、それにも余る海のありかた、山のありかたが多くあってきわまるところがなく、四方に広がる世界のあることを知らなければならない。かたわら(自分の周囲、外側)だけがこのようにあるのではなく、直下(自分の足もと、自分自身)も、一滴の水も、そのようにあるのだと知りなさい。

 魚が水を泳いでゆくとき、泳いでも泳いでも水の終わりがなく、鳥が空を飛ぶとき、飛んでも飛んでも空に終わりがない。そうではあるが、魚も鳥も、昔から(魚が)水から離れたことはなく、(鳥も)空から離れたことがない。ただ、大きく泳ぎ、大きく飛ぶ必要があるときは、(海や空を)大きく使うのである。小さく泳ぎ、小さく飛ぶときは、(水や空を)小さく使うのである。このようにして、頭々ひとつひとつに自己の辺際かぎりをつくしていないということはなく、そのところ、その処に踏飜ぜんりよくをつくしていないということはないのであるが、(だからといって)鳥がもし空からとび出せば即座に死ぬし、魚が水から出れば直ちに死ぬ。(魚にとって)水は命だったことがわかるはずであり、(鳥にとって)空が命であったことがわかるはずである。(しかし、鳥は鳥であればこそ鳥だったのだから)鳥を命としていたということであり、(魚は)魚を命としていたということである。命を鳥としていたとも言えるし、命を魚としていたということであるはずである。このほかさらに、進んで考えることがあるはずである。(何を命として生きるかに、それぞれ)修行があり、その実証があり、そこに寿命があるということは、このようなものである。

 そういうことであるのに、水の全体を知りつくし、空の全体を知りつくして後、水を泳ごう、空を飛ぼうと思うような鳥や魚があるとしたら、彼らは、水にも空にも、泳ぐみち、飛ぶみちを得ることはできるはずがなく、泳ぐところ、飛ぶところを得ることはできないはずである。今この生きているところが自己の真実であるということになれば、この行李(日常の生活)が次々と真実の実現となる。この生きている真実のみちが自分のものになれば、この行李が次々と真実の実現となる。この(真実で生きる)みち、この(真実で生きる)ところは、大小の問題ではなく、自他の問題でもなく、前からあるのでもなく、今、急に出現したものでもないから、かくのごとく(真実そのもので)あるのである。

 そうであるように、人(誰でもいい、人)がもし、仏道を修行すると、同時に仏が実証されるので、一法を得れば一法に通じるのであり、一行にであった時は、一行を修行しているのである。この修行はいつでもその修行するところがあり、そのみちは(どこでも)通達しているので、修行して知られる範囲が修行者自身にはっきりしないのは、この知ることが仏法の究尽(究め尽くしたところ)と同時に生きているのであり、同じ修行をしているために、そのようにあるのである。(修行して)自分に得た内容が、必ず自己の知識・見解となって、自分の思慮・知覚に知られるであろうと思い慣らわしてはならない。真実に生きる実証の究極は直ちに現成しているのであるが、自己にもっとも親しい真実のあり方は、必ずしも現成しているものではなく、現実にあらわれている事実は何必(何ぞ必ずしも……ならんや)という、人間の知識・判断ではとらえきれないものである。(1, pp. 52-57)

ひろさちや

 

 たきぎは燃えて灰となるが、もう一度元に戻って薪になるわけがない。ところがわれわれは、灰は薪が燃えたのちの姿、薪は灰になる前の姿と見るが、とんでもない誤りである。薪は薪としてのあり方において、先がありのちがある。前※後があるといっても、その前後は断ち切れていて、あるのは現在ばかりである。灰は灰のあり方においてのちがあり先がある。薪が灰となったのち、再び薪とならないように、人は死んだのち再びしようにならない。だから仏教的な表現においては、生が死となったと言ってはいけないのである。その故に不生不滅と言う。死が生になると言わないのが仏教の表現だ。それ故に不生不滅と言う。生は一時のあり方であり、死も一時のあり方だ。たとえば、冬と春のようなもの。世間の人は、冬が去って春が来たと思い、春が去って夏になったと思うであろうが、仏教の考え方からすればそれはまちがっている。

 人が悟りを得るのは、水に月が宿るのと同じ。月は濡れないし、水は傷つかない。どんなに広く大きな光であっても、一尺、一寸といった小さな水に宿り、月の全体、天空の全体が草の露にも宿り、一滴の水にも宿る。悟りが人を傷つけ変化させないのは、月が水に孔をあけないのと同じ。人が悟りを濁らせることがないのは、一滴の水が天の月を濁らせないのと同じである。悟りの深さは天上の月の高さに相当する。その時間の長い/短いは、水の分量の大/小と天上の月の広い/狭いを考えると分かるであろう。すなわち、大きな満月であれば長時間天空にあり、三日月であれば短時間しか天空にない。それ故、露に宿る時間も短い。

 みずからの身心にまだ仏法が十分にゆきわたっていないときには、もうすでに十分に仏法が足りているように思われる。逆に仏法が満ち足りたときには、どこか足りないと感じられるのだ。たとえば、船に乗って山影も見えぬ大海原の真ん中に出て四方を見れば、海はただ円く見えるのみで、そのほかにいかなる形も見えない。しかしながら、海は円いわけでもなく四角なわけでもなく、さまざまな姿・形があるのである。魚が見れば海は宮殿のようであり、天人が見ればr瓔珞wようらく(貴金属の装具)のように見える。それと同じで、その人は自分の目が及ぶ範囲で、しばらくのあいだ海を円く見ているのだ。宇宙の方物がそうしたあり方をしている。世間のことであれ、仏法上のことであれ、万物はさまざまな姿で存在しているのだが、それをわれわれは仏道修行によって得られたそれぞれの眼力でもって、それぞれに認識するのである。万物のありようを学ぶには、四角いとか円いといったふうに見るだけでなく、海にしろ山にしろ、目に見えぬ部分が限りなくあり、無限の世界が存在していることを知らねばならぬ。これは、眼前の世界がそうであるばかりでなく、自分自身についても、一滴の水といった微細な世界についても、そうであると知らねばならぬ。

 魚は水を泳ぐが、いくら泳いでも水の果てはなく、鳥は空を飛ぶが、いくら飛んでも空の果てはない。そして、魚も鳥も、いまだ昔より水や空を離れたことはない。水や空は、大きな分量が必要なときは大きな分量が使われる。小さな分量が必要とされるときは小さな分量が使われる。このようにして、それぞれが隅々まで動き回り、踏み入れない場所はないのである。だが、かりに空の外に出るとたちまちに死んでしまい、もし魚が水を出たらたちまちに死んでしまう。それ故、魚は水をもって命とし、烏は空をもって命とすと知るべきだ。そしてそうだとすると、空は鳥をもって命としているのであり、水は魚をもって命としている。さらには、空は命をもって鳥とし、水は命をもって魚としているのだ。いや、以上で終わらせず、なおも思考を推し進めるべきだ。修行があり、悟りがあり、寿命があるということは、このようなものである。

 ところが、それをまちがって、水を究め尽くしてから、空を究め尽くしてから、水や空を行こうと考える鳥や魚があれば、水にも空にも道を得ることができず、ところを得ることができない。われわれがこの処さえしっかりと確保すれば、日常生活のうちに悟りの世界が実現する。この道さえ確保すれば、日常生活のうちに悟りの世界が実現する。この道、この処は、大きなものでもなく小さなものでもなく、自分のものでもなく他人のものでもなく、ずっと以前より存続していたものでもなく、いま新たに出現したものではない。まさにあるがままにあるものだ。

 それと同様、人がもしも仏道を歩むのであれば、一つの教えに出会えばそれをしっかりと学べばよいのであり、たまたま一つの修行に出会えばそれをしっかりと修すればよいのだ。そうすれば、そこに自分が仏法に生きる処があり、悟りへの道が通じている。けれども、われわれは無限の悟りの世界全体を知ることはできない。なぜかといえば、悟りの世界全体をわれわれが知ることのできるのは、われわれが仏法を究め尽くした瞬間に、それと同時にその知が実現するからだ。われわれが仏道を歩む過程で一つ一つ学んだことが、自分の知見となり、そして思慮深い人間になる、といったようなことはないのだ。究極の悟りは修行によって速やかに体験されるけれども、有と無に分かれる以前の自己が体験されるとは限らない。そもそもそのような体験が必要か否か。必要はないだろう。(pp. 34-41)

[1] Manfred Eckstein 訳

 

Sobald Brennholz zu Asche verwandelt ist, kann es nicht wieder Feuerholz werden; aber wir sollten die Asche nicht als den potentiellen Zustand von Feuerholz ansehen oder umgekehrt. Asche ist ganz Asche, und Feuerholz ist Feuerholz. Sie haben ihre eigene Vergangenheit, Zukunft und freies Dasein.

Gleichfalls können Menschen, wenn sie sterben, nicht zum Leben zurückkehren; aber in der buddhistischen Lehre sagen wir niemals, daß das Leben sich in den Tod wandelt. Dies ist eine etablierte Lehre des Buddha-Dharma. Wir nennen es »Nicht-Werden«. Gleichermaßen kann der Tod sich nicht zu Leben wandeln. Dies ist ein anderes Prinzip des Buddha-Gesetzes. Es wird »Unzerstörbar« genannt. Leben und Tod haben ganze Existenz, wie die Beziehung zwischen Winter und Frühling. Denke jedoch nicht, daß der Winter sich in den Frühling wandelt oder der Frühling zum Sommer.

Wenn menschliche Lebewesen Erleuchtung erlangen, ist dies wie der Mond, der sich im Wasser spiegelt. Der Mond erscheint im Wasser aber wird nicht naß, und das Wasser wird nicht durch den Mond gestört. Das Licht des Mondes bedeckt die Erde und kann dennoch in einem kleinen Teich, einem winzigen Tautropfen und sogar in einem allerkleinsten Wassertröpfchen enthalten sein.

Genauso wie der Mond in keiner Weise das Wasser stört, macht die Erleuchtung dem Menschen keine Schwierigkeiten. Betrachte die Erleuchtung nicht als ein Hindernis in deinem Leben. Die Tiefen des Tautropfens können die Höhen von Mond und Himmel enthalten. Wenn das Wahre Dharma noch nicht vollständig erreicht ist, und zwar körperlich und geistig, besteht die Gefahr, daß man meint, das ganze Dharma zu besitzen und, daß die Arbeit beendet sei. Wenn das Dharma jedoch vollständig gegenwärtig ist, erkennst du deine eigene Unzulänglichkeit.

Zum Beispiel: Wenn du mit einem Boot in die Mitte des Ozeans fährst, so daß du keine Berge mehr siehst, und dann in die vier Himmelsrichtungen schaust, erscheint der Ozean rund – und dennoch ist er nicht rund. Sein Wesen ist grenzenlos. Er ist wie ein Palast oder ein Kranz kostbarer Juwelen. Uns jedoch erscheint er als ein großer Kreis von Wasser.

Wir können erkennen, daß dies von allen Dingen gesagt werden kann. Abhängig von unserem Standpunkt, sehen wir die Dinge in verschiedener Weise. Richtige Wahrnehmung hängt von dem Ergebnis des Studiums und der Übung eines jeden ab. Um die verschiedenen Arten der Standpunkte zu verstehen, müssen wir die zahllosen Ansichten und Eigenschaften der Berge und Ozeane untersuchen, nicht nur als Kreise. Wir sollten erkennen, daß es nicht nur außerhalb von uns so ist, sondern auch in uns – sogar in einem einzigen Wasser tropfen.

Die Fische im Ozean finden das Wasser endlos und die Vögel denken, daß der Himmel grenzenlos ist. Jedoch weder Fische noch Vögel sind von ihrem Lebensraum getrennt. Wenn ihr Bedürfnis groß ist, nehmen sie viel, wenn es klein ist, nehmen sie wenig. Sie nützen jede Lage vollständig bis zum äußersten aus – frei und grenzenlos. Wir wissen aber, daß Vögel sterben, wenn sie von ihrem ureigenen Lebensraum getrennt werden. Wir sollten erkennen, daß das Wasser das Leben für die Fische ist und der Himmel das Leben für die Vögel. Im Himmel sind die Vögel lebendig und im Wasser die Fische. Viele weitere Beispiele könnten aufgeführt werden. Die Übung und die Erleuchtung gleicht der obigen Verwandschaft zwischen Himmel und Vogel und Fisch und Wasser. Jedoch sehen wir nach dieser Klarstellung von Wasser und Himmel, daß, wenn Vögel oder Fische versuchen, in den Himmel oder ins Wasser einzudringen, sie dazu weder Weg noch Aufnahme finden. Wenn wir diesen Punkt verstehen, ist die Erleuchtung in unserem täglichen Leben verwirklicht. Wenn wir diesen Weg erreichen, sind alle unsere Handlungen die Verwirklichung der Erleuchtung. Dieser Weg, dieser Ort ist nicht groß oder klein, gehört nicht mir oder den anderen, ist nicht vergangen oder gegenwärtig – er ist eben so, wie er ist.

Wenn wir so den Buddha-Weg üben und erkennen, können wir jedes Dharma meistern und durchdringen, können jeder Übung entgegentreten und sie vollenden. Es gibt einen Ort, wo wir den Weg ergründen können und den Umfang der erkennbaren Wahrnehmungen sehen. Dies geschieht, weil unsere Erkenntnis mit der letzten Erfüllung des Buddha-Dharmas zusammen existiert.

Nachdem diese Erfüllung zur Basis unserer Wahrnehmung wird, dürfen wir nicht glauben, daß unsere Wahrnehmung notwendigerweise durch den Intellekt zu verstehen ist. Obgleich Erleuchtung plötzlich verwirklicht wird, ist sie dennoch nicht immer gänzlich offenbart, weil sie zu tief und unauslotbar für un seren begrenzten Intellekt ist. (Bd. 1, S. 25-26)

[2] Ritsunen Gabriele Linnebach & Gudō Wafu Nishijima-Rōshi 訳

 

Brennholz wird zu Asche, und die Asche kann niemals wieder zu Brennholz werden. Trotzdem sollten wir die Asche nicht als das Spätere und das Brennholz als das Frühere ansehen. Ihr müsst nämlich verstehen, dass das Brennholz im Dharma seinen eigenen Platz als Brennholz einnimmt. Es hat [zwar) ein Vorher und ein Nachher, aber trotzdem existiert das Vorher unabhängig vom Nachher. Asche nimmt im Dharma ihren eigenen Platz als Asche ein. Sie hat ein Vorher und ein Nachher.

Ebenso wie das Brennholz, das einmal Asche geworden ist, nicht wieder zu Brennholz werden kann, können auch die Menschen nach dem Tod nicht mehr leben. Deshalb wurde im Buddha-Dharma seit jeher gelehrt, dass Tod nicht zu Leben wird, und so sprechen wir vom »Nicht-Werden«. Und nach Buddhas überlieferten Worten wird Leben nicht zu Tod, und so sprechen wir vom »Nicht-Vergehen«, Leben ist ein Augenblick in der Zeit. Tod ist ein Augenblick in der Zeit. Das Gleiche gilt zum Beispiel auch für Winter und Frühling. Im Buddha-Dharma denken wir nicht, dass Winter zu Frühling wird, und wir sagen nicht, dass Frühling zu Sommer wird.

Ein Mensch, der das Erwachen erlangt hat, gleicht dem Mond, der sich im Wasser spiegelt: der Mond wird nicht nass und das Wasser wird nicht bewegt. Obgleich das Mondlicht groß und weit scheint, spiegelt es sich auf einer winzigen Fläche Wasser. Der ganze Mond und der ganze Himmel spiegeln sich in einem einzigen Tautropfen auf einem Grashalm und in einem einzigen Wassertropfen. Das Erwachen verändert den Menschen nicht, so wie der Mond auch das Wasser nicht verändert. Der Mensch behindert das Erwachen nicht, so wie der Tautropfen auch nicht den Himmel und den Mond behindert. Die Tiefe des Erwachens ausloten und die Höhe ermessen: erforscht Länge und Kürze dieses Augenblicks in Ozeanen und Bächen. Beobachtet die Weite und Enge des Himmels und des Mondes.

Wenn der Dharma den Körper und Geist noch nicht ausfüllt, glauben wir, dass es schon genüge. Wenn der Körper und Geist ganz vom Dharma erfüllt sind, empfinden wir, dass noch etwas fehle. Wenn wir zum Beispiel mit einem Boot weit ins Meer hinausfahren, wo wir kein Land mehr sehen können, und dann in die vier Himmelsrichtungen blicken, so erscheint uns das Meer einfach nur rund, ohne jede andere Form. Das Meer ist jedoch weder rund noch eckig. Es hat viele verschiedene Merkmale: es ist für Fische] wie ein Palast und [für Götter] wie eine Perlenkette. Aber so weit unser Auge reicht, erscheint uns das Meer nur rund. Wie mit dem Meer ist es mit den zehntausend Dingen. Diese Welt des Staubes und die [Buddha-]Welt sind unendlich vielfältig, aber wir erkennen und begreifen sie nur, soweit unsere Praxis, unser Studium, unsere Sicht und unsere Kraft es ermöglichen. Wenn wir aber wissen möchten, wie die zehntausend Dinge in ihrem natürlichen Zustand sind, sollten wir bedenken, dass die Merkmale der Ozeane und der Berge zahllos und grenzenlos sind, unabhängig von ihrer runden oder eckigen Erscheinung. Außerdem gibt es Welten in den vier Himmelsrichtungen. Denkt daran, dass nicht nur das, was uns umgibt, so [vielfältig] ist, sondern auch der jetzige Augenblick und auch ein einziger Wassertropfen.

Wenn die Fische im Wasser schwimmen, hat das Wasser für sie keine Grenzen, wie weit sie auch schwimmen. Wenn die Vögel im Himmel fliegen, hat der Himmel für sie keine Grenzen, wie weit sie auch fliegen. Deshalb haben die Fische das Wasser und die Vögel den Himmel niemals verlassen. Nur, wenn ihre Aktivität groß ist, benutzen sie [Wasser und Himmel] in großem Umfang, und wenn die Notwendigkeit klein ist, benutzen sie sie in kleinem Umfang. Auf diese Weise verwirklicht sich jeder Fisch und jeder Vogel innerhalb seiner Grenzen und bewegt sich an jedem Ort völlig frei. Wenn aber ein Vogel den Himmel verlässt, stirbt er augenblicklich, und wenn ein Fisch das Wasser verlässt, geht er augenblicklich zu Grunde. Das können wir so verstehen: Das Wasser ist das Leben und der Himmel ist das Leben. Vögel sind das Leben und Fische sind das Leben. Und es mag sein, dass das Leben die Vögel und die Fische selbst ist. Und jenseits dessen mag es immer noch Weiterentwicklung geben. Genauso ist es mit [ihrer] Praxis und Erfahrung, mit ihrer Lebenszeit und mit ihrem Leben schlechthin.

Hätte sich aber ein Fisch vorgenommen, zuerst über die Grenzen des Wassers hinauszugelangen und dann ins Wasser zu gehen, und ein Vogel erst dann in den Himmel zu fliegen, wenn er über die Grenzen des Himmels hinausgelangt wäre, dann könnten der Fisch und der Vogel niemals ihren Weg und ihren Ort im Wasser oder im Himmel finden. Wenn wir diesen Ort finden, verwirklicht diese Handlung in natürlicher Folge das ganze Universum, und wenn wir diesen Weg finden, ist diese Handlung folgerichtig die Verwirklichung des ganzen Universums. Dieser Weg und dieser Ort sind weder groß noch klein, weder wir selbst noch die Welt um uns. Der Weg und der Ort sind so gegenwärtig, wie sie sind, weil sie weder vorher da waren noch jetzt erscheinen.

Dasselbe gilt, wenn ein Mensch die Buddha-Wahrheit wirklich praktiziert und erfährt. Wenn er einen Dharma erlangt, versteht er ihn [im selben Augenblick], und wenn er einer Handlung begegnet, führt er sie [im selben Augenblick] aus. Weil der Ort in diesem Zustand wirklich existiert und der Weg das ganze Universum durch dringt, ist das, was er in diesem Augenblick weiß, für ihn selbst nicht klar erkenn bar. Dies kommt daher, dass dieses Wissen und die vollkommene Verwirklichung des Buddha-Dharmas [dasselbe sind]: sie erscheinen zusammen und werden zusam men erfahren. Denkt nicht, dass ihr euch des Erlangten unbedingt bewusst seid oder dass ihr es mit dem Verstand benennen könnt. Die Erfahrung des Höchsten ver wirklicht sich im Bruchteil eines Augenblicks, aber gleichzeitig ist sein verborgenes Sein nicht unbedingt sichtbare Verwirklichung. Die Verwirklichung selbst ist un bestimmbar. (Bd. 1, S. 58-60)

[3] Ryōsuke Ōhashi & Rolf Elberfeld 訳

 

Brennholz wird zu Asche und kann nicht umgekehrt wieder zu Brennholz werden. Obwohl es so ist, darf man es nicht so betrachten, als sei die Asche das Spätere und das Brennholz das Frühere. Man soll wissen, daß das Brennholz im dharma-Rang (hō'i) des Brennholzes bleibt und ein Vorher und Nachher besitzt. Obwohl es ein Vorher und Nachher besitzt, sind die Bereiche des Vorher und Nachher abgeschnitten (zengosaidan). Die Asche ist im dharma-Rang der Asche und besitzt ihr Vorher und Nachher. Wie das Brennholz, nachdem es zu Asche geworden ist, nicht mehr zu Brennholz wird, so wird der Mensch, nachdem er gestorben ist, nicht wieder lebendig. Da es so ist, sagt man nicht, Leben wird zu Tod; dies ist festes Gesetz des Buddha-dharma und daher heißt es: Nichtentstehen (fushō).

Daß der Tod nicht zu Leben wird, ist Buddhas festes Drehen des dharma-Rades (hōrin) und daher heißt es: Nichtvergehen (fumetsu). Leben ist ein Status zu einer Zeit, Tod ist auch ein Status zu einer Zeit. Wie zum Beispiel Winter und Frühling. Man denkt nicht, Winter wird zu Frühling; man sagt nicht, Frühling wird zu Sommer.

Der Mensch erlangt Erwachen (satori), so wie sich der Mond im Wasser aufhält. Der Mond wird nicht naß, das Wasser nicht gebrochen. Zwar ist sein Strahlen weit und groß, aber [selbst] in seichtem Wasser hält es sich auf. Der ganze Mond und auch der volle Himmel halten sich auf im Tau am Gras und auch in einem Tropfen Wasser. Das Erwachen bricht den Menschen nicht, sowenig wie der Mond ein Loch ins Wasser bohrt. Der Mensch behindert das Erwachen nicht, sowenig wie Tropfen und Tau Himmel und Mond behindern. Die Tiefe [des einen] soll dem Maß der Höhe [des anderen] entsprechen. Für Länge und Kürze [jeder] Zeit (jisetsu) soll man großes Wasser und kleines Wasser untersuchen, Weite und Enge von Himmel und Mond erfassen.

Wessen Leib und Herz (shinjin) noch nicht vollständig vom dharma gesättigt ist, der meint, das dharma reiche schon aus. Wenn Leib und Herz gänzlich vom dharma erfüllt sind, meint man, etwas fehle noch. Fährt man zum Beispiel in einem Boot mitten aufs Meer hinaus, bis keine Berge [mehr sichtbar sind], und blickt in die vier Richtungen, so sieht [das Meer] nur rund aus und außerdem ist keine andere Gestalt zu sehen. Obwohl es so ist, ist dieses große Meer weder rund noch eckig und die übrigen Qualitäten (toku) des Meeres sind auf diese Weise nicht zu erschöpfen. Es ist wie ein Palast für die Fische] und wie eine Perlenkette [für die Himmelswesen].

Nur soweit meine Augen reichen, sieht es zeitweise rund aus. Entsprechendes gilt auch für die zehntausend dharma. Zwar bieten das Inmitten der staubigen Alltagswelt und das Außerhalb der weltlichen Verstrickungen vielerlei Erscheinungsweisen, aber man sieht und begreift nur soweit, wie das im inständigen Lernen gewonnene Auge reicht. Um die Weisen der zehntausend dharma zu hören, soll man wissen, daß die zehntausend dharma nicht nur eckig oder rund aussehen, sondern daß die übrigen Qualitäten (toku) des Meeres und der Berge zahlreich und unerschöpflich sind, und es auch Welten (sekai) in allen vier Richtungen gibt. Man soll wissen, daß es nicht nur in der Umgebung, sondern sowohl gerade hier [wo ich bin] als auch in jedem einzelnen Tropfen so ist.

Schwimmen Fische im Wasser, so gibt es, wie weit sie auch schwimmen, kein Ende des Wassers, fliegen Vögel am Himmel, so gibt es, wie weit sie auch fliegen, kein Ende des Himmels. Wenn dies zutrifft, so haben Fische und Vögel von alters her das Wasser und den Himmel noch nie verlassen. Ist die Wirksamkeit groß, so ist der Gebrauch groß. Ist der Bedarf klein, so ist auch der Gebrauch klein. Auf diese Weise [kann man sagen]: obwohl [Fische und Vögel] jedes Mal nie die Grenze der Umgebung unerschöpft lassen und nie nicht allerorten umherschweifen, sterben die Vögel, sobald sie den Himmel verlassen, und sterben die Fische, sobald sie das Wasser verlassen. Man soll wissen: durch Wasser bildet sich Leben, und man soll wissen: durch Himmel bildet sich Leben. Einmal bildet sich durch Vögel Leben, einmal bildet sich durch Fische Leben. Es sollen sich durch Leben Vögel bilden, und es sollen sich durch Leben Fische bilden. Darüber hinaus soll es noch Fortschritt geben. Es gibt den übenden Erweis (shūshō) und demgemäß das lang Lebende und Lebendige.

Wenn es Vögel oder Fische gäbe, die sich im Wasser oder im Himmel erst bewegen wollten, nachdem sie das Wasser [ganz] durchmessen haben und den Himmel [ganz] durchmessen haben, könnten diese daher weder im Wasser noch im Himmel den Weg finden oder ihren Ort (tokoro) finden. Diesen Ort finden heißt, daß gemäß den alltäglichen Handlungen sich volles Erscheinen offenbar macht (genjōkōan su). Diesen Weg finden heißt, daß gemäß den alltäglichen Handlungen das Offenbar machen des vollen Erscheinens (genjōkōan) da ist. Weil dieser Weg, dieser Ort weder groß noch klein, weder Eigenes noch Anderes, weder seit jeher noch [erst] jetzt gegenwärtig ist, sind sie eben auf diese Weise. Gleichermaßen gilt: Wenn Menschen den Buddha-Weg übend erweisen, so erreichen sie ein dharma und meistern ein dharma, begegnen einer Übung und üben diese Übung. Weil es hierfür einen Ort gibt und der Weg bis zum Letzten führt, kann die zu wissende Grenze nicht gewußt werden, da dieses Wissen nur mit dem gründlichen Ausschöpfen des Buddha-dharma zusammen entsteht und zusammen wirkt.

Meine nicht, daß der erlangte Ort unbedingt zur eigenen Einsicht kommt und vom verständigen Wissen gewußt wird. Obwohl erweisendes Ergründen sogleich vollauf erscheint, ist das verborgene Sein (mitsu'u) nicht unbedingt volles Erscheinen (genjō). Wieso ist das Hervortreten der Einsicht notwendig? (S. 40-47)

礼拝得髄

又、イマ至愚ノハナハダシキ人オモフコトハ、女流によりう貪婬とんいん所対しよたい境界きやうがいニテアリトオモフコヽロヲアラタメズシテコレヲミル。仏子如㆑是かくのごとくアルベカラズ。婬所対ノ境トナリヌベシトテイムコトアラバ、一切男子なんしモ又イムベキカ。染汚ぜんわノ因縁トナルコトハ、なんモ境トナル、によモ境縁トナル。非男非女モ境縁トナル、夢幻qむげんqr空花くうげモ境縁トナル。アルイハ水影すいやうヲ縁トシテ非梵行ひぼんぎやうアルコトアリキ、アルイハ天日ヲ縁トシテ非梵行アリキ。じんきやうトナル、きやうトナル。ソノ縁カゾヘツクスベカラズ。八万四千ノ境界アリト云フ、コレミナスツベキカ、ミルベカラザルカ。

 律云りつにいはく、「なん二所にしよによ三所さんしよ、オナジクコレ波羅夷はらい不共住ふぐうぢゆう

 シカアレバ、婬所対ノきやうニナリヌベシトテキラハバ、一切ノ男子ト女人ト、タガヒニアヒキラウテ、更ニ得度ノ期アルベカラズ。コノ道理、子細ニ撿点スベシ。

 又、外道げだうモ妻ナキアリ。妻ナシトイヘドモ、仏法ニ入ラザレバ邪見ノ外道ナリ。仏弟子モ、在家ノ二衆ハ夫婦アリ。夫婦アレドモ、仏弟子ナレバ、人中にんぢゆう天上じやうニモ、カタヲヒトシクスル余類ナシ。

 又、唐国たうごくニモ、愚癡僧アリテ、願志ぐわんしりつスルニいはク、「生々しやうじやう世々せぜ、ナガク女人ヲミルコトナカラン」。コノ願、ナニノ法ニカヨル。世法ニヨルカ、仏法ニヨルカ、外道ノ法ニヨルカ、天魔ノ法ニヨルカ。女人によにんナニノトガカアル、男子なんしナニノ徳カアル。悪人ハ男子モ悪人ナルアリ、善人ハ女人モ善人ナルアリ。聞法ヲネガヒ出離ヲモトムルコト、カナラズ男子女人ニヨラズ。モシ断惑だんわくノトキハ、男子女人オナジク未断惑ナリ。断惑だんわく証理しようりノトキハ、男子女人、簡別けんべつラニアラズ。又ナガク女人ヲミジトぐわんセバ、衆生しゆじやう無辺むへん請願度せいぐわんどノトキモ、女人ヲバスツベキカ。捨テバ菩薩ぼさつニアラズ、ぶつ慈悲じひト云ハンヤ。タヾコレ声聞しやうもんノ酒ニヱフコトフカキニヨリテ、酔狂すいきやうノ言語ナリ。人天にんでんコレヲマコトト信ズベカラズ。

 又、ムカシ犯罪ぼんざいアリシトテキラハバ、一切菩薩ヲモキラフベシ。モシノチニ犯罪アリヌベシトテキラハバ、一切発心ノ菩薩ヲモキラフベシ。如㆑此かくのごとくキラハバ、一切ミナステン。ナニニヨリテカ仏法現成セン。如㆑是かくのごときノコトバハ、仏法ヲ知ラザル癡人ちにん狂言ナリ。カナシムベシ、モシナンジガぐわんノ如クニアラバ、釈尊オヨビ在世ノ諸菩薩、ミナ犯罪ぼんざいリケルカ、又ナンヂヨリモ菩提ぼだいしんモアサカリケルカ。シヅカニ観察くわんざつスベシ、附法蔵ふほふざうノ祖師オヨビ仏在世ノ菩薩コノぐわんナクハ、仏法ニナラフベキところヤアルト参学スベキナリ。モシなんヂガ願ノゴトクニアラバ、女人ヲ済度セザルノミニアラズ、得法ノ女人ニイデテ、人天ノタメニ説法セントキモ、きたリテキクベカラザルカ。モシ来リテキカズハ、菩薩ニアラズ、スナハチ外道ナリ。(2, pp. 173-176)

①西嶋和夫訳

 

また現在でも甚だしく愚かな人の考えでは、女性は姪欲の対象となる客体であると考える考え方をあらためずに〈女性を〉見る。しかしながら釈尊の弟子たるものは、このようであってはならない。婬欲の対象たる客体になるであろうと考えて、〈女性を〉嫌うことがあるならば、〈同じような理由から〉すべての男子をも同様に嫌わなければならないのか。けがれの原因となり環境となるという点では、男もけがれの客体となれば、女もけがれの客体となる。男女の性別がない草木や土石もけがれの客体となるのであり、夢幻のようなむなしい現象もけがれの対象となる。ある場合には水面に映った影像を媒体として不浄な行為を行なうことがあり、ある場合には太陽の光を媒体として不浄な行為を行なうことがあった。神も〈不浄行の〉対象となり得るし、霊魂も〈不浄行の〉対象となり得る。このように〈不浄行の〉対象はかぞえつくすことができず、ほとんど無数に存在するという。これらの対象をすべて捨てなければならないのであろうか、見てはならないのであろうか。四分律にいう、「男子については男根及び肛門の二箇所、女子については尿道口、女陰及び肛門の三箇所、これらを犯すことは極重の罪であり、教団生活に留まることを許してはならない。」と。このことから男と女とを婬欲の対象となる客体たり得るとして嫌うならば、すべての男子と女子とは互いに嫌い合って、真理体得の時期到来を期待することができなくなる。この根本理論をこまかく調べなければならない。非仏教徒にも妻のない者がいる。〈しかし〉たとえ妻がない場合でも、仏教的宇宙秩序に没入しなければ、〈依然として〉誤った世界観を奉ずる非仏教徒に過ぎない。〈また〉釈尊の教えを奉ずる者の中でも、在家の男女についてはそれぞれ妻があり夫がある。〈しかし〉妻があり夫があったとしても、釈尊の教えを奉ずる以上、人間、天上の中にあって最高の部類に属する者であることに変わりはない。

また支那の国にも大馬鹿な僧侶があって、願を立てていうことには、「今生から来世に至るまで引き続き女性を見ることはすまい。」と。この願は〈一体〉何の法によるものであろうか、俗世間の秩序によるのか、仏教的宇宙秩序によるのか、非仏教徒の法によるのか、天魔の法によるのか。女性に何のつみとががあろう、男子に何の福徳があろう。悪人についていえば、男子でも悪人はいるのである。善人についていえば、女子でも善人はいるのである。説法を聞こうと願い、俗世からの離脱を希求することは、決して男性、女性の別とは関係がない。もしその人が未だ煩悩を切断していないならば、それは男であろうと女であろうと未断惑である。煩悩を断ち切り真理を体験している場合には、男とか女とかの別は少しも問題にならない。また引続き女性を見まいとの願を立てるならば、数限りない衆生をすべて真理に到達させようと誓願する際、女性を除外しなければならないのであろうか。女性を除外するようでは、捨身で真理を求める人とはいえず、真理体得者の慈悲ともいえない。これはただ教説を通してのみ真理に触れようとする声聞が酒に酔うこと甚だしいために発する酔っぱらいの言葉であって、人間も天使もこれを真理として信じてはならない。またかって過去において罪とがを犯したという理由で人を除外するならば、一切の菩薩も〈かつて何らかの罪を犯しているのであるから〉除外しなければならない。〈また〉今後罪を犯すだろうという理由で人をらば、真理探究の念願を起した一切の菩薩も〈これから何らかの罪を犯すであろうと思われるから〉除外しなければならない。このように除外して来ると、一切を捨ててしまう結果となり、〈我々は〉仏教的宇宙秩序実現の素材を失ってしまう。「女性を見まい」などという言葉は、仏教的な宇宙秩序を知らない馬鹿者のたわ言であり、悲しいことである。もしこの僧侶の願のようであるならば、〈かつて妻帯をされた〉釈尊及び釈尊在世当時の諸菩薩は、みな罪を犯したことになるのか。また〈釈尊及び諸菩薩がかつて妻帯されたということは、釈尊及び諸菩薩の真理探究心が〉この僧侶の真理探究心よりも浅かったということなのか、しずかに観想し推察してみるべきである。宇宙秩序の真髄を伝承した諸先輩や、釈尊の生きておられた時代の真理探究者たちには、この僧侶のような願がなかったのであるから、これらの諸先輩や真理探究者からは、仏教的宇宙秩序につき学ぶべき点がなかったかどうかを参究して見るべきである。もしこの僧侶の願のようであるならば、女性を救い得ないばかりでなく、宇宙秩序を体得した女性が出現して、人間及び天使のために宇宙秩序を説く場合にも、〈その場に〉参集してその説法を聞くことができないのか。もし参集して聞かないならば、捨身の真理探究者とはいえず、非仏教徒以外の何物でもない。(1, pp. 193-198)

③中村宗一訳

 

 又、現今の極端な愚者たちの思っていることは「女性は食欲と婬欲の対象物に過ぎない」というような、歪曲された邪見による考え方を改めないで女性を見ている。かりそめにも仏弟子たる者は、このようであってはならない。女性を避欲の対象物として嫌󠄁うならば、一切の男性についても同様である。相手の執愛の囚となって相手を汚すことでは男性も同様に執愛の対象となる。女性も対象となる。非男非女(ふたなり)も対象物となる。「夢幻空華」と観ずることも対象物となる。或いは、水影が因縁となって汚れた性欲行為が行われることがある。或いは太陽が因縁となって、汚れた行為が行われることもあった。神も執愛の対象となる。鬼執愛の対象物となる。その因縁は数え尽くすことができない程である八万四千の執愛があるといわれているが、これを、すべて捨てるべきであるのか、見てはならないのであるか。律(仏法の戒律)に言ってある。男には二個所、女は三個所の性欲の対象物がある。この個所に於て戒を犯すものは、不共住罪(波羅夷罪、戒律中の重罪の意)に問われて、僧団中に共住を許されないとある。

 このようであるから、人間男女が婬欲の対象物となるからと言って相嫌󠄁い対立するならば、一切の男性と、一切の女性と、互いに嫌󠄁い対立しあっておれば更に法の前では平等であるべき男女に、得度(出家して戒を受ける)の時期はない。この道理を詳しく究明すべきである。

 外道(仏道以外の道を信ずる者)にも、妻のないものもいる。妻がなくとも、仏法に入らなければ、正しくない見解をもつ外道である。仏弟子でも、在家の二衆即ち優婆塞うばそく(在家の仏弟子、居士)、優婆夷うばそく(女の仏弟子、信女)は、夫婦のものもある。夫婦であっても、仏弟子であるから、人間界・天上界に肩を並べるものはない。

 中国に、愚かな僧があって、願を立てていうのには「私は、生れ変り死に変り、長く女性に逢うことはない」と。この願は、どういう法に依るのであろうか。世法によるのか、仏法に依るのか、外道の法に依るのか、天麓の法によるのであろうか。

 女性にどういう罪があるのか、男性にどういう徳があるのか。悪人は、男性の中にもいる。善人は、女性の中にもいる。仏道の参学、出家を求めることは、必ず男性によるとか、女性はいけないということはない。もし迷いを断たないときには、男子も女子も共に同じく迷いを断つことができないのである。

 迷いを断ちきって、悟りを得るときには男子・女子の区別などは更にあるわけはない。

 また、永久に女性には逢わないと願うならば、仏の四つの誓願の一つである「衆生は無辺なれども、誓って願はくば済度せん」の時には、女性をば捨てて顧みないというのであるか。もし女性を捨てるならば、これは菩薩ではない、これが仏の大慈悲であろうか。ただこれは、声聞の徒輩が自己本位で他人を顧みることなく、声聞の酒に深く酔って、酔狂の言語を吐くのに過ぎない。人間も天人も、これを真実の仏法のあり方だと信じてはならない。

 又、過去に戒律を犯した罪があったからと言うことを理由として、女性を嫌󠄁うならば、一切の菩薩も、過去に罪を犯したのであるから嫌󠄁うべきであろう。もし今後に、女性は罪が深いから、罪を犯すであろうということを理由として嫌󠄁うならば、一切の発心した菩薩も、同様であるから、嫌󠄁うべきである。このように忌避するならば、一切のものは、すべて捨てられてしまう。その時は、何人によって、仏法が現成するであろうか。このような言説は、仏法を知らない痴人のたわごとである。悲しむべきである。もしも、汝の願いが成り立つならば、釈尊を始めとして、今、この世にある諸菩薩は、すべて罪を犯したことになる。又、汝よりも、釈尊及び諸菩薩の菩提心が浅いというのであるかどうかを、静かに観察すべきである。仏法正伝の祖師及び仏の在世の時の菩薩は、このように、女性を嫌󠄁い拒否するという誓願がないから、仏法を修証する必要があると参究すべきである。もしも、この愚か者の願いのようになったならば、女性は済度されないばかりか、もし得法の女性がこの世に出現して、人間・天人の為に説法する時も、そこに参じ、聞いてはならないということになる。もし参詣して聴聞しない者は、菩薩ではなく外道である。(2, pp. 43-46)

④増谷文雄訳

 

 また、いまでもいたって愚かな人々の考えるところは、女性は性欲の対象であるとの考え方を脱していない。仏者はそうであってはならない。性欲の対象となるからとてむならば、またすべての男子をも忌むべきであろうか。不浄のもととなるということでは、男もそうであり、女もそうである。男でも女でもないものだってその対象となり、空想の所産すらもその対象となる。あるいは水に映る影を縁として不浄を行したというものもあり、あるいは天日てんじつを縁として不浄を行したものもあった。神もその対象となり、鬼もその対象となる。その縁は数えつくすことをえず、八万四千の対象があるというが、それをすべて捨てねばならぬか、見てはならないのか。

律蔵りつぞう』にいわく、

「男二所、女三所、おなじく波羅夷はらいにして、共に住せず」

 と。だから、性欲の対象になるからとて嫌えば、すべての男子と女人とがたがいに相嫌って、仏門に入る機会もまったくあるまい。その道理をつぶさに点検してみるがよろしい。

 また、外道げどうにも妻をもたぬものがある。妻をもたないからとて、仏法にいたらねば外道である。同じ仏弟子であっても、在家ざいけの信男信女には夫婦が多い。夫婦であっても仏弟子であれば、人間界にも天上界にも並ぶものはないのである。

 また、唐の国にも愚かな僧があって、「生々しようじよう世々せぜ長く女人を見ず」と願を立てたことがある。その願はいったいなんの道理によるのであろうか。世間の道理によるか、仏法の道理によるか、外道の道理によるか、それとも天魔のことわりによるのであろうか。女人になんの咎があるか。男子になんの徳があるか。悪人は男子にもあり、善人は女人にもある。法を聞かんことを願い、迷いの世を出たいと願うのは、けっして男子にかぎらず、女人にかぎらない。もしいまだまどいを断たぬときには、男子も女人も同じく凡夫ぼんぷである。惑いを断ち、ことわりを証するときも、また男女によってなんの差別もないのである。また、もし、女人を見まいと願を立てたならば、「衆生しゆじよう無辺むへん誓願せいがんど」というとき、女人はこれを捨てるのであるか。もし捨てたならば、菩薩ぼさつではあるまい、仏の慈悲とはいえまい。それはただ、小乗しようじようの聖者の酒に酔うた酔狂すいきようのことばにすぎない。世の人はそれを本当と思ってはならぬ。

 またもし、かつていんの罪を犯したことがあるとて嫌うのであるならば、すべての菩薩をも嫌わねばならない。もしまた、今後罪を犯すことがあろうとて嫌うのであるならば、すべて発心ほつしんの修行者も嫌わねばならぬ。そのように嫌うならば、結局はすべてみな捨てねばならない。仏法はいったい、何により誰によって実現するのであるか。そんなことばは、まだ仏法をしらぬ痴人ちにん狂言きようげんである。悲しいことである。

 もしなんじの願のごとくならば、釈尊しやくそんおよびその在世のころの諸菩薩は、みな罪を犯したことになるのか。また、彼らはなんしより考智慧を求める心が浅かったというのか。静かに考えてみるがよい。釈尊が教法の伝持を委ねた祖師ならびに当時の菩薩たちは、その題がなかったならば、仏法を学ぶことができなかったであろうか。そう考えてみるがよいのである。また、もしその願のごとくであったならば、女人を済度さいどすることができぬのみならず、得法とくほうの女人が現れて世の人々のために法を説いても、到って聞くことができないではないか。もし到って聞かなかったならば菩薩ではない。つまり外道である。(1, pp. 164-166)

⑤玉城康四郎訳

 

 また、はなはだしく愚かものが思うことは、女人は淫欲の対象であるという考えを改めないで、女人を見ることである。仏教者はそうであってはならない。淫欲の対象になるからといってむならば、すべての男子もまた忌むべきではないか。けがれの因縁となるということでは、男も対象となり、女も対象となる。男でもない女でもないものも対象となり、夢をぼろしや空中の華も対象となる。あるいは、水にうつる女人の影を見てよからぬ行為をしたものもあり、あるいは天日を縁として不浄をなしたものもいる。神も対象となり、鬼も対象となる。その機縁は数えつくすことはできないし、八万四千の対象があるといわれている。これらをすべて捨てねばならないのか、あるいは見てはならないのか。

 律にいうに、

 「男二所、女三所、おなじくこれ波羅夷はらいにして、共に住せず」と。

 そういう次第であるから、淫欲の対象になるからといって嫌うならば、すべての男性と女性とは、たがいに嫌い合って、まったく出家の機会がないことになろう。この道理をつぶさに点検してみるがよい。

 また、外道にも妻のないものもいる。妻がないといっても、仏法に入らねば邪見の外道である。好仏弟子でも在家の善男ぜんなん善女ぜんによには夫婦の場合が多い。夫婦ではあっても仏弟子であるから、人間界・天上界にも比肩するものはない。

 また、唐の国にも愚かな僧がいて、願を立てていうに、「生々しようじよう世々せせながく女人を見まい」と。このような願は、いったいなんの道理によるのであろうか。世間の法か、仏法か、それとも外道の道理か、あるいは天魔の道理によるのか。いったい女人になんのとががあるというのか、男子にはなんの徳があるのか。悪人といえば、男子にも悪人はいるし、善人といえば、女人にも善人がいる。

 聞法を願い、迷いを解脱したいと求めることは、必ずしも男女の区別にはよらない。もしまだ煩悩を断じていないときは、男女ともにそうであり、煩悩を断じて理をさとるときは、これまた男女の区別はさらにない。また、ながく女人を見まいと願うならば、「衆生しゆじよう無辺むへん誓願せいがんど」のときも、女人は捨てねばならぬのか。捨てては菩薩にはなるまい。まして仏の慈悲とどうしていえようか。ただこれは、声聞しようもん(小乗の聖者)が酒にふかくって吐いた酔狂のことばである。人間界・天上界のものは、これをまことであると信じてはならない。

 また、むかし淫欲の罪があったといって嫌うならば、すべての菩薩をも嫌わねばならない。もし今後そうした罪がおこるであろうとて嫌うならば、これから発心するすべての菩薩をも嫌わねばならない。このようにして嫌うならば、ついにはすべてを捨てることになろう。そうなれば、いったいなにによって仏法は実現することになろうか。右に挙げたような言葉は、仏法を知らない痴人の狂言である。まことに悲しむべきことである。

 もし汝の願のごとくであるならば、釈尊やその在世のころの諸菩薩は、みな罪を犯したことになるのか。あるいはまた、汝よりも菩提心が浅かったというのか。しずかに観察するがよい。

 仏法を伝えてきた祖師たち、および仏在世のおりの菩薩たちは、もしこのような願がなければ仏法に学ぶべきことがどこにあろうか、果たしてどこにもないのかと、よく参学すべきである。もし汝の願のごとくであるならば、女人を救うことができないばかりでなく、得法の女人が現われて、人間界・天上界のもののために説法するときも、男性はその説法を聞くことができないことになるではないか。もしそうならば、それは菩薩ではなくて外道である。(1, pp. 199-202)

⑦水野弥穂子訳

 

 また、現在の愚の至りのはなはだしい人の思うことは、女流は貪婬所対の境界(婬欲の対象となる存在)であると思う気持を改めないで女流を見る。仏子としてはこんなことはあってはならない。婬欲の対象の存在となってしまうにちがいないといっていみきらうことがあるなら、一切の男子もまた、いみきらうべきであろうか。染汚(煩悩)の因縁となる点では、男も(淫欲の)境(対象)となるし、女も(婬欲の)境縁(対象のかかわり)となる。非男非女(男でもない、女でもない存在)も境縁となるし、夢幻空花も(姪欲の)境縁となる。あるいは水にうつったすがたを(境)縁として不浄の行を行なうこともあったし、あるいは天日たいよう(の光)を(境)縁として不浄の行を行なったこともあった。神とか鬼とかいう、人間以上の力をもつ存在も(婬欲の)境(対象)となる。その縁(となるもの)は数えつくすこともできない。(数えあげれば)八万四千の境界があるというが、これらをすべて捨てることができるか、見ないでおくことができるか(できはしない)。

 『律』(一、四波羅夷法)では言っている、「男の二箇所、女の三箇所(を犯すの)は、同じく波羅夷不共住(教団を追放して、住居を同じくしてはならない罪)である」と。

 そういうことであるから、婬欲の対象としての存在になってしまうはずだと言って切り捨てるならば、一切の男子と女人と、互いに切り捨てあって、いっこうに得度のときがあるはずがない。この道理(具体的なすじみち)を、子細こまかに検点しなさい。

 また、外道(仏教以外の思想家)でも妻を持たない者がいる。妻を持たないからといっても、仏法に入らなければ邪見の(正しい見解を持たない)外道である。仏弟子も、在家の二衆(優婆塞、優婆夷)は夫婦がそろっている。夫婦がそろっていても、仏弟子であれば人間界・天上界でも肩をならべるほかなかまはいない。

 また、唐国ちゆうごうでも、愚癡おろかな僧がいて、発願の志を立てるに当たって言った、「生々世々(何回生まれなおしても)、永久に女人に会うことがないように」と。この願は、何の法によっているのか。世間の法によるのか、仏法によるのか、外道の法によるのか、天魔の法によるのか。女人にどんな過失があるのか、男子にどんな徳があるのか。悪人は男子も悪人である人がいる、善人は女人も善人である人がいる。聞法をねがい、出離(迷いの世界から離れること)を求めることは、必ずしも男子か女人かにはよらない。もし未断惑の(まだ煩悩を断じていない)ときは、男子も女人も同じく未断惑である。断惑証理の(煩悩を断じて真実を実証した)ときは、男子も女人も簡別えらびわることは全くない。また、永久に女人に会うまいと願を立てるならば、(四弘誓願で)「衆生無辺誓願度」と唱えるときも、女人は例外として棄てるはずなのか。(衆生の中で女人を)棄てるならば、(一切衆生を済度しようとする)菩薩ではなく、仏の慈悲と言おうか(仏の慈悲とは言えない)。ただこれは(自分だけ解脱を求める)声聞しようもんの酒に酔うことが深いために、酔狂の(酔って常軌を逸した)言語である。人間界・天上界の人はこういうことを真実だと信じてはならない。

 また、以前に罪業を犯したとして切り捨てるならば、一切の菩薩も切り捨てるはずである。もし、今後罪業を犯す恐れがあるとして切り捨てるならば、一切の発心の菩薩も切り捨てるはずである。このように(あれこれ言い立てて)切り捨てるならば、すべてみな捨てることになるであろう。何によって仏法が現成することがあろうか(ありはしない)。このような言葉は、仏法を知らない癡人おろかもの狂言(常軌を逸した言葉)である。悲しむべきことである、もしおまえ(澄観)の願のとおりであるならば、釈尊も仏在世の諸菩薩もみな(女人を直接済度しているのであるから、女人に会うという)罪業を犯していたというのか。また、おまえよりも菩提心も浅かったのであるか。心を静めて観察しなさい、附法蔵の(正法眼蔵無上の大法を師からうけついだ)祖師や仏在世の菩薩に(女人に会わないという)この願がないならば、仏法に習わなければならないところはどこにあるのかと参学しなければならないのである。もしおまえの願のようなことならば、女人を済度しないだけではなく、得法の女人がこの世に出現して人間界・天上界の人のために説法するときも、そこに来て(説法を)聞いてはいけないのか。もしそこに来て(説法を)聞かないならば、菩薩ではなく、そのまま外道(仏教以外の思想家)である。(3, pp. 213-217)

⑧窪田慈雲訳

 

 またはなはだしく愚かな者が思うことは、婦人は性欲の対象であるという考えを改めないで見ることである。仏弟子はそうあってはならない。婬欲の対象であるからといって、これをいとうならば、すべての男子もいとうべきである。けがれの因縁となることでは男もその対象であり女もその縁となる。男でも女でもない者もその対象となる。夢の中で幻覚で性行為をした例もある。或いは水に映る女人と性行為をした例もある。また天口を縁として性行為をした者もある。さらには神も対象となり鬼も対象となる。性欲の対象となる縁は数えつくすことはできない。八万四千もあるといわれる。これらを皆捨てねばならないのか見てはならないのか。戒律では男は大便道、小便道、女はそれに口を加えて、それを犯すと波羅夷はらいざいとして教団の儀式行法の仲間からはずされる。

 以上のわけで性欲の対象となるからといって嫌うならば、すべての男子・女子は互いに嫌い合って全く出家得度の機会がなくなってしまう。この道理を詳細に点検すべきである。外道でも妻のない者もいる。妻がいなくても仏法に入らなければ邪見の外道である。優婆塞うばそく優婆夷うばいは夫婦のことが多い。夫婦であっても仏弟子となれば人間界天上界にあっても、比肩することなき存在である。

 また唐の国にも愚かな僧がいて、願を立てていうには「生々世々長く女人を見ることのないように」と。このような願はどんな道理によるのであろうか。世間一般の法が、仏法か、外道の法か、それとも天魔の法によるのか。婦人に何のとががあろう、男子に何の徳があろう。悪人というなら男子も悪人であり、善人というなら婦人にも善人がいる。法を聞いて迷いから出離したいと求めるのは、必ずしも男子女子の別にはよらない。未だ迷いを断じていない時は、男子も女子も同じである。迷いを断じて真理を悟る時は、男子も女子も全く区別はない。また「長く女人を見ることがないように」と願うならば、衆生無辺誓願度の時も女人を捨てねばならないのか。捨てては菩薩󠄀ではない。仏の慈悲とは言えない。ただこれは声聞の行者が酒に酔って吐いた酔狂の言葉である。人間界天上界の人はこれを信じてはならない。また昔婬欲の罪ありといって嫌うならば、一切発心の菩薩󠄀をも嫌うこととなる。今後そのような罪を起こすであろうといって嫌うならば、今後発心するすべての菩薩󠄀をも嫌うこととなる。このように嫌うならばすべてを捨てることになろう。どうして仏法を実現できるであろうか。このような言葉は仏法を知らない痴人の狂言である。大変悲しいことである。もしお前さんの願が正しいならば、釈尊および在世の諸菩薩󠄀は皆罪を犯したことになるのか。またお前さんよりも菩提心が浅かったというのか。静かに観察すべきである。仏法を伝えてきた三国伝燈の歴代の祖師および釈尊在世の菩薩方が「女人を見じ」の願がなければ、仏法を習うべきところがないのか、それともあるのかと参学すべきである。もしお前さんの願のごとくであるならば、婦人を済度できないばかりか、得法の女人が世に現われて人間天上の人々のために説法するときも、来てその説法を聞くことができないというのか。もし説法を聞かないというのであれば、それは菩薩󠄀ではなく外道である。(pp. 14-16)

[2] Ritsunen Gabriele Linnebach & Gudō Wafu Nishijima-Rōshi 訳

 

Ferner gibt es heute ausgesprochen dumme Menschen, die ihr Vorurteil, dass Frauen Objekte sexueller Begierde sind, nicht ändern können. Buddhas Schüler sollten nicht so sein. Wenn alles gehasst werden sollte, das zum Objekt sexueller Begierde werden kann, sollten dann nicht auch die Männer gehasst werden? In Bezug auf die Ursachen und Umstände solcher Unreinheiten kann ein Mann zum Objekt werden, eine Frau kann es werden, und etwas, das weder Mann noch Frau ist, kann es werden. Träume, Trugbilder und Blüten im Himmel können zum Objekt [solcher Unreinheit] werden. Es hat unreine Handlungen gegeben, deren Objekt eine Spie gelung auf dem Wasser war, und es hat unreine Handlungen gegeben, deren Objekt die Sonne im Himmel war. Ein Gott kann zum Objekt [der Begierde] werden, so wie es auch ein Dämon werden kann. Es is unmöglich, alle diese Objekte der Begier den aufzuzählen: man sagt, dass es vierundachtzigtausend davon gibt. Sollten wir sie alle von uns weisen und sie nicht sehen? Die Gebote besagen: »Wer sich an den zwei männlichen oder an den drei weiblichen Organen vergeht, verletzt das Gebot in solch einer Weise, dass [der Täter] nicht in der Gemeinschaft verbleiben kann.« Wenn wir alles hassen würden, was zum Objekt sexueller Begierde werden kann, müssten alle Männer und Frauen einander hassen, und es wäre unmöglich, die Wahrheit zu erlangen. Dieses Prinzip sollt ihr gewissenhaft prüfen. Es gibt Nicht-Buddhisten, die ohne Frau leben: obgleich sie ohne Frau leben, sind sie nicht im Bereich des Buddha-Dharmas, und so sind sie Menschen außerhalb des Weges mit falschen Sichtweisen. Es gibt Buddha-Schüler, die wie die männlichen und weiblichen Laien Ehefrau oder Ehemann haben. Trotzdem sind sie die Schüler Buddhas, und es gibt keine anderen Wesen in der Menschenwelt oder im Himmel, die ihnen gleichen.

Sogar in China gab es einst einen dummen Mönch, der folgendes Gelübde ablegte: »In jedem Leben und in jedem Alter werde ich niemals eine Frau anblicken.« Auf welches Gesetz stützt sich dieses Gelübde? Stützt es sich auf das weltliche Gesetz oder auf das des Buddha-Dharmas? Stützt es sich auf das Gesetz von Nicht Buddhisten oder auf das der himmlischen Dämonen? Welches Verbrechen ist in einer Frau? Welches Verdienst liegt in einem Mann? Unter den schlechten Menschen gibt es Männer, die schlechte Menschen sind, und unter den guten Menschen gibt es Frauen, die gute Menschen sind. Das Verlangen den Dharma zu hören und der Wunsch nach Befreiung hängen nicht davon ab, ob man ein Mann oder eine Frau ist. Wenn man die Illusionen noch durchschneiden muss, müssen Mann und Frau sie noch durchschneiden. Wenn beide die Illusionen durchschnitten und die Wahrheit erfahren haben, gibt es keinen Unterschied mehr zwischen Mann und Frau. Ferner, muss [ein Mann], der sich vornimmt, niemals eine Frau anzusehen, alle Frauen zurückweisen, obwohl er doch [als Bodhisattva] gelobt hat, die zahllosen Lebewesen zu retten? Wenn er [die Frauen] zurückweist, ist er kein Bodhisattva. Wie viel weniger könnte er das Mitfühlen eines Buddhas haben? Dieses [Gelübde] ist nur der trunkene Ausdruck von jemandem, der sich mit dem Wein eines Śrāvakas berauscht hat. Weder Menschen noch Götter sollten dieses Gelübde als wahr ansehen. Zudem, wenn wir [andere] wegen ihres vergangenen Unrechts hassen, müssten wir sogar alle Bodhisattvas hassen. In einem solchen Hass müssten wir alles zurückweisen, wie könnten wir so den Buddha-Dharma verwirklichen? Worte wie diese sind die törichten Reden eines beschränkten Mannes, der den Buddha-Dharma nicht kennt. Wir sollten ihn bedauern. Wenn das Gelübde jenes Mönchs wahr ist, haben dann nicht Śākyamuni und die Bodhisattvas seiner Zeit ein Unrecht begangen [wenn sie Frauen anschauten]? War ihr Bodhi-Geist weniger tief als der Geist dieses Mönchs? Denkt in Ruhe darüber nach. Ihr müsst erfahren und erforschen, ob die Patriarchen, die die Schatzkammer des Dharmas weitergegeben haben, und ob die Bodhisattvas zu Lebzeiten Buddhas auch ohne dieses Gelübde etwas im Buddha-Dharma zu lernen hatten. Wenn das Gelübde dieses Mönchs wahr wäre, wäre es unmöglich, eine Frau zu retten. Nicht nur das, wir dürften auch keiner Frau zuhören, die den Dharma erlangt hat und in dieser Welt erscheint, um die Menschen und Götter zu lehren, oder ist es nicht so? Würden wir ihr nicht zuhören, wären wir keine Bodhisattvas, sondern eben nur Andersgläubige. (Bd. 1, S. 98-99)