ひよこのるるの自由研究

日本語で読める世界の文学作品と、外国語に翻訳されている日本語の文学作品を、対訳で引用しています。日本語訳が複数あるものは、読みやすさ重視で比較しておすすめを紹介しています。世界中の言語で書かれたもの・訳されたもののコレクションを目指しています。

世界文学全集のためのメモ 34 『若きウェルテルの悩み』 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

ドイツ語編 7

Johann Wolfgang von Goethe
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
1749-1832

Die Leiden des jungen Werthers
『若きウェルテルの悩み』
1774/1787

日本語訳
①澤西健訳『若きウェルテルの悩み』1943年(上妻純一郎改訳編集、古典教養文庫、2015年 📗
高橋義孝訳『若きウェルテルの悩み』1951年(新潮文庫、2010年 📗
竹山道雄訳『若きウェルテルの悩み』1951年(岩波文庫、2010年 📗
手塚富雄訳『若いウェルテルの悩み』1959年(『世界文学全集 第3巻』河出書房新社、1989年 📗
⑤国松孝二訳『若きヴェルテルの悩み』1960年(『世界文学全集13 ゲーテ集』筑摩書房、1975年 📗
⑥前田敬作訳『若きウェルテルの悩み』1960年(『ゲーテ全集 第7巻』人文書院 📗
⑦内垣啓一訳『若きウェルテルの悩み』1964年(『世界の文学 5 ゲーテ中央公論社 📗
⑧井上正蔵訳『若きウェルテルの悩み』1965年(グーテンベルク21、2012年 📗
斎藤栄治訳『若きウェルテルの悩み』1968年(『豪華版 世界文学全集 2 ゲーテ講談社、1976年 📗
⑩神品芳夫訳『若きヴェルターの悩み』1979年(『ゲーテ全集 6』潮出版社、2003年 📗
柴田翔訳『若きヴェルテルの悩み』1979/2002年(ちくま文庫📗
大宮勘一郎訳『若きヴェルターの悩み』2015年(『ポケットマスターピース02 ゲーテ集英社 📗

手塚富雄訳が一番すぐれている。配慮の行き渡った日本語で、すらすらと読み通せる。二番手が⑧井上正蔵訳、三番手が⑥前田敬作訳。岩波文庫の③竹山道雄訳は格調高く美しいが、読み進めるにはつらい箇所がある。新潮文庫の②高橋義孝訳は、すでに賞味期限が切れているように感じられる。個人的には、入手しやすさを優先するなら、文庫本で読むより⑧井上正蔵訳をKindleで読むのをおすすめしたい。最新の⑫大宮勘一郎訳は、「俺」を使った大胆な訳で、試みとしては面白いが、いきいきした文章だとは思えなかった。

Erstes Buch

 

Am 21. Junius

Ich lebe so glückliche Tage, wie sie Gott seinen Heiligen ausspart; und mit mir mag werden was will, so darf ich nicht sagen, daß ich die Freuden, die reinsten Freuden des Lebens nicht genossen habe.—du kennst mein Wahlheim; dort bin ich völlig etabliert, von da habe ich nur eine halbe Stunde zu Lotten, dort fühl' ich mich selbst und alles Glück, das dem Menschen gegeben ist.

Hätt' ich gedacht, als ich mir Wahlheim zum Zwecke meiner Spaziergänge wählte, daß es so nahe am Himmel läge! Wie oft habe ich das Jagdhaus, das nun alle meine Wünsche einschließt, auf meinen weiten Wanderungen, bald vom Berge, bald von der Ebne über den Fluß gesehn!

Lieber Wilhelm, ich habe allerlei nachgedacht, über die Begier im Menschen, sich auszubreiten, neue Entdeckungen zu machen, herumzuschweifen; und dann wieder über den inneren Trieb, sich der Einschränkung willig zu ergeben, in dem Gleise der Gewohnheit so hinzufahren und sich weder um Rechts noch um Links zu bekümmern.

Es ist wunderbar: wie ich hierher kam und vom Hügel in das schöne Tal schaute, wie es mich rings umher anzog.—dort das Wäldchen!—ach könntest du dich in seine Schatten mischen!—dort die Spitze des Berges!—ach könntest du von da die weite Gegend überschauen!—die in einander geketteten Hügel und vertraulichen Täler!—o könnte ich mich in ihnen verlieren!—ich eilte hin, und kehrte zurück, und hatte nicht gefunden, was ich hoffte. O es ist mit der Ferne wie mit der Zukunft! Ein großes dämmerndes Ganze ruht vor unserer Seele, unsere Empfindung verschwimmt darin wie unser Auge, und wir sehnen uns, ach! Unser ganzes Wesen hinzugeben, uns mit aller Wonne eines einzigen, großen, herrlichen Gefühls ausfüllen zu lassen.—und ach! Wenn wir hinzueilen, wenn das Dort nun Hier wird, ist alles vor wie nach, und wir stehen in unserer Armut, in unserer Eingeschränktheit, und unsere Seele lechzt nach entschlüpftem Labsale.

So sehnt sich der unruhigste Vagabund zuletzt wieder nach seinem Vaterlande und findet in seiner Hütte, an der Brust seiner Gattin, in dem Kreise seiner Kinder, in den Geschäften zu ihrer Erhaltung die Wonne, die er in der weiten Welt vergebens suchte.

Wenn ich des Morgens mit Sonnenaufgange hinausgehe nach meinem Wahlheim und dort im Wirtsgarten mir meine Zuckererbsen selbst pflücke, mich hinsetze, sie abfädne und dazwischen in meinem Homer lese; wenn ich in der kleinen Küche mir einen Topf wähle, mir Butter aussteche, Schoten ans Feuer stelle, zudecke und mich dazusetze, sie manchmal umzuschütteln: da fühl' ich so lebhaft, wie die übermütigen Freier der Penelope Ochsen und Schweine schlachten, zerlegen und braten. Es ist nichts, das mich so mit einer stillen, wahren Empfindung ausfüllte als die Züge patriarchalischen Lebens, die ich, Gott sei Dank, ohne Affektation in meine Lebensart verweben kann.

Wie wohl ist mir's, daß mein Herz die simple, harmlose Wonne des Menschen fühlen kann, der ein Krauthaupt auf seinen Tisch bringt, das er selbst gezogen, und nun nicht den Kohl allein, sondern all die guten Tage, den schönen Morgen, da er ihn pflanzte, die lieblichen Abende, da er ihn begoß, und da er an dem fortschreitenden Wachstum seine Freude hatte, alle in einem Augenblicke wieder mitgenießt. *1

①澤西健訳

 

 六月二十一日

 

 僕は神様が聖者たちのためにとっておいたような幸福な日々を送っている。未来はどうなろうと、僕は、人生の悦びを、最も純粋な悦びを味わったことを否むことは許されない。——君は僕のヴァールハイムを知っているね。あそこに僕はすっかり居ついている。あそこからロッテのところまでわずか半時間だ。あそこでこそ、僕は自分自身を感じ、人に与えられるすべての幸福を感じる。

 僕がヴァールハイムを散歩の目的地に選んだとき、そこがこんなに天国に近いと考えたろうか! 僕はほんとに、今は僕の望みのすべてを包みこめているあの別邸を、遠い散策の道すがら、ある時は山から、ある時は平野から、河を隔てて幾度見たことだろう。

 愛するヴィルヘルム、僕はいろんなことを考えた。自己を拡大し、新発見をし、放浪をしたいという人間の欲望について。それから、再び、好んで束縛に従い、習慣の軌道を進んで、右も左も気にかけまいとする内部の衝動について。

 不思議だ。どうして僕がここへ来て、丘から美しい谷を眺めたか、周りの風景がどんな風にして僕を引き寄せたか。——あそこには森! ——ああ、あの蔭にまぎれ入ることかできたら! ——あそこには山の嶺! ——ああ、あそこから遠い世界を見渡すことができたら! ——たがいに入り組んだ丘と仲のよさそうな谷々! おお、あのなかに迷い込むことができたら! 僕は急いで行った。帰って来た。そして、期待したものは見つからなかった。おお、遠方は未来のようなものだ。大きな、薄ぼんやりしてくる全体が僕らの魂の前にやすらっている。僕らの感覚は僕らの眼と同じく、そこへ漂い消えて行く。そして、僕らは、ああ、わが全身を捧げつくして、ただ一つの大いなる素晴らしい感情の溢れる歓喜で充たされたいとあこがれる——そして、ああ! 僕らが急ぎ行き、そこがここになってみると、一切は前と変わらない。僕らはもとのままの貧しさと狭隘きようあいさのなかに立ち、僕らの魂はすりぬけて行った香油をもとめてあえぐ。

 こうして、どんなに定めない放浪者もついには再び故国をあこがれ、自分の小さな家に、妻の胸に、子供たちの団欒まどいの中に、彼らを養う生業に、遠い世界に空しく探し求めた歓びを見出すのだ。

 僕が朝、日の出とともに戻り、ヴァールハイムに出掛けて行き、そこの飲食店の菜園で自分で豌豆えんどうを摘み、腰を下ろして筋をとり、その合間にホーマーを読むとき、それから小さな料理場で鍋を選んで、バターを切り分け、豌豆を火にかけて蓋をし、かたわらに腰掛けて幾度も揺り混ぜるとき、そんな時僕は実に生き生きと、ペネロペ(ホーマーの「オデッセウス」の登場人物。オデッセウスの妻。)の驕慢きようまんな求婚者たちが、牡牛おうしや豚を屠殺して、肉を切って焙った有り様を感じる。僕をこんなに静かな真実の感情でみたすのは、ありがたいことに僕が少しの不自然さもなく自分の生活術に織り込むことのできる族長制時代の生活の面影にほかならない。

 僕の心が、自分で作ったキャベツを食膳にのぼし、そのキャベツだけでなく、あらゆるよい日々、それを植えた美しい朝、水を注ぎ、日ごとの成長を楽しんだ懐かしい夕べを、再びみんな一緒に、同時に味わう人の歓びを感じることができるとは、何と愉快なことだろう。

高橋義孝

 

六月二十一日

 ぼくはまるで神が聖者たちのためにとっておいたような幸福な日々を送っている。このさきざきがどうだろうと、ぼくは人生のよろこびを、最も清らかなよろこびを味わったんだ。――ねえ、あのワールハイムってのを知っているだろう。ぼくはあすこがすっかりなじみになってしまって、あすこならロッテのところまで半時間で行けるし、あすこにいるとぼくはぼく自身を、人間に与えられているいっさいの幸福を感ずるのだ。

 ワールハイムをぼくの散歩の目標に選んだとき、よもやここがこうまで天国に近いとは思ってもみなかった。ぼくのすべての願いはあの猟舎に秘められているんだが、長い散歩の途中、ある時は山の上から、ある時は川越しに平地から、まあいくたびながめやったことだろう。

 ねえウィルヘルム、ぼくはいろんなことを考えてみたんだ、自分をひろげ、新しい発見をし、遠くをさまよう人間の欲求だとか、それからまた、進んで自分を制限し、右顧うこ左眄さべんせずに昔からの人の通いなれたみちを進んで行こうとする内心の衝動だとかを。

 不思議だ、ぼくがここへやってきて、丘から美しい谷をながめ、ぼくをめぐるあたりの景色をめでて――あすこには小さな森がある――あの森の木陰に入りこめたらなあと思い――あすこには山の頂がある――あすこに立って広々とした地方を見渡せたらなあと考え打ちつらなる丘とやさしい谷間――ああ、あの中に自分をまぎれこませたなら。ぼくは急いで行ってみる。そうして帰ってくる。望んだものは見つかりはしなかったんだ。未来というものも、遠方と何の変りがあるだろう。大きな漂うような全体的なものがぼくらの魂の前に横たわっていて、ぼくらの感情はぼくらの眼と同じようにその中にのみこまれてしまう。本当にぼくたちはぼくたちの全存在をささげて、たった一つの大きな壮麗な情感のいっさいの歓喜をもってぼくら自身を満たそうとあこがれるんだ。――ところが、ところが、急いで行ってみれば彼岸が此岸しがんになってしまえば、すべてはもとどおりなんだ。ぼくらは相変らず貧相で狭く、逃げ去ったさちを求めて魂はむなしく息を切らしているのだ。

 そんなわけだから、どんなにしりの落ち着かぬ放浪者だってついには自分の生れた国に舞いもどり、自分の小さな家に、妻のかたわらに、子供たちのまどいの中に、彼らを養う仕事の中に、広い世界で求めてえられなかったよろこびを見いだすのだ。

 日の出とともにワールハイムに出かけて、料亭の庭先で砂糖豆を手ずから摘んで、腰をおろしてさやの筋をとったり、その合間にホメロスを読んだり、それから料理場からつぼを一つ持ってきてバターをすくいとり、豆を火にかけて蓋をし、そのそばにすわりこんで時々ゆりまぜたりするとき、ペネーロペ(訳注 オデュッセウスの妻。夫の留守中いいよる男たちを拒み続けた)の気のいい求愛者たちが、牛や豚をほふって切りこまざいて火にあぶる情景が眼前に彷彿ほうふつとする。族長時代の生活のいろいろな特徴ほどぼくの心を静かで真実な気分にしてくれるものはないんだ。ありがたいことにぼくは現在何の気どりもなくそういう時代の生活の面影おもかげを自分の暮しぶりの中へ織り込んでいるのだ。

 いい心持だ、自分で育てたキャベツを自分の食卓の上におく、そしてキャベツばかりか、それを植えた美しい朝、水をやったたのしい夕べ、その育っていくのをうれしく見守った日々、そういった日々すべてを一瞬間のうちに再び味わっている人間の単純で罪のない歓喜をしっかりと感じるんだからね。(pp. 42-44)

竹山道雄

 

六月二十一日

 神様がただ聖者たちのためにとっておいたような幸福な日々を、私はおくっている。このさき私がどうなろうとも、自分がよろこびを味わわなかったとは、生の至純のよろこびを味わわなかったとは、いうことができない。――君はもうわがヴァールハイムを知っているね。私はここに完全に住みついた。ここからロッテのところまではわずかに半時間だし、ここで私は自分を感じ、人間にあたえられた一切の幸福を感じる。

 私がヴァールハイムを散歩の目的地にえらんだときには、ここがこれほど天国に近いところだとは思いる及ばなかった! 遠くまでさすらいながら、いまは私の願望の一切をれている狩猟館を、ときには山からときには平地から、幾度川をへだてて眺めたことだろう!

 ウィルヘルムよ、私はさまざまに考えた。人間の中には、自己を拡充してさらに新しい発見をし、さらに遠くさまよいでようとする欲望がある。それだのにまた、すすんで制約に服し、習慣の軌道を辿たどって、右にも左にも目を放つまいとする内的な衝動ある。

 あやしむべきかな。かつてここに来て、丘の上からうつくしい谷を見はるかしたとき、私はどれほどあたりのものに心を惹かれていたことだったろう。――あそこの小さな森! ああ、あの影に身をひそめることができたら!――あそこの山の頂き! ああ、あの頂きからこの広い地帯を展望することができたら!――鎖のように結びあった丘と瓦、なつかしい谷と谷! おお、あの中にさまよい入ることができたら!――このようにあくがれながら、私はいそいでその方に行って、むなしくたち帰って、ついに望んでいたものをみいださなかった。おお、遠方おちかたはさも未来に似ている! 漠然たる大きな魂が、われらの魂の行手にうかんでいる。われらの眼とおなじくわれらの感覚はそのうちに溶け入り、われらは、ああ、われらの全存在を投げ出して、ただ一つのかがやかしい感情の大歓喜白て充たされたいとねがう。――それだのに、ああ! われらがいそぎ赴いて、かしこにありしものがここにあるとき、すべてはつねに旧態依然である。われらは変らぬ貧窶ひんると制約の中にあり、魂はついに捉ええなかった香膏においあぶらを求めて、かつえあえぐ。

 されば、いずくに安住することをしらなかったヴァガボンドも、最後にはふたたび父祖の国にあくがれ、おのれの茅舎ぼうしゃに、おのれの妻の胸に、子らのまどいに、それを養うための勤労の中に、彼が広い世界に求めて見いでざりしよろこびをみいだす。

 私は朝の日が昇るととに家を出て、ヴァールハイムに行き、レストランの菜園で豌豆えんどうみ、さて腰をおろして、さやの筋をとりながらホーマーを読む。それから、小さなくりやで壺をえらんでバタをすくって、さや豌豆えんどうを火にかけ、蓋をし、そのかたわらに坐ってときどき揺りまぜる。このときに私は、かのペネローペのけき求婚者たちが牛や豚をほふって、裂いて、あぶったさまを、まざまざと身のほとりに感じる。遠き昔の族長時代の生活のおもかげほど、私の思いをひそやかにせつに充たすものはないが、いまこれを私は――このしあわせよ――虚心のうちにおのれの生活に織りこむことができる。

 このたのしさ。自分が畠につちかったキャベツを食卓にのせる人の、素朴な無邪気なよろこびを味わうことができる。いな、ただキャベツばかりではない。彼が植えたうつくしい朝、彼が水をそそいだいとしい夕、さらに日毎の成長をおのれの喜びとしたゆえに、これらすべてのよき日を一瞬に味わいかえす、かの人のよろこびをわがものとすることができる。(pp. 47-50)

手塚富雄

 

 六月二十一日

 ぼくは、神が聖者たちのためにとっておかれるような幸福な日々を送っている。たとえこれからぼくの身がどうなろうと、ぼくが人生の喜び、最も純粋な喜びを味わわなかったとは、言うことができない。ぼくのワールハイムのことはきみは知っている。そこにぼくはすっかり住みついた。そこからほんの半時間でロッテのところへ行ける。そこに行けば、ぼくはぼく自身を感ずることができるのだ、そして人間に与えられているあらゆる幸福を。

 ワールハイムを散歩の目的地に選んだとき、ぼくは、そこがこれほど天国に近いことを思ったろうか! 何度ぼくは、いまではぼくの願いのいっさいを包みこんでいるあの狩猟邸を、遠くまで散歩に出て、山の上から、または平地から川をへだてて、眺めていたことだろう!

 愛するきみよ。ぼくは人間の内部にひそむ欲望についていろいろと考えてみた。人間は自己を拡張しようとし、新しい発見をしようとし、あちこちをさまよい歩く。そうかと思うと、束縛にすすんで身をまかせ、慣習の軌道をひたむきに進んで、右にも左にも目をむけないという内的衝動もあるのだ。

 不思議なことだ。ぼくがここにやって来て、丘の上から美しい谷間を見おろすと、ぼくのまわりのすべてのものが、ぼくの心をひきつけるのだ。――あの小さい森! ――ああ、あの陰にいこうことができたなら! ――あの山のいただき! ――ああ、あそこから広い地域を見わたすことができたなら! つながり走っている丘々と親しみぶかい谷々を! ――ああ、あのなかにけこむことができたなら! ぼくは足早やにそこに行った。そして帰ってきた。望んだものは見つからなかった。ああ、遠いかなたは未来に似ている! 大きいほのかな全体が、ぼくたちの心の前に静かに横たわっている。ぼくたちの感情もぼくたちの目もそれに溶けこむ。そしてぼくたちはあこがれる、ああ! ぼくたちの全存在を投げだし、ただ一つの偉大なすばらしい感激の歓びに満たされたいと。だが、ああ! 急ぎ足でそこに行きつき、「かなた」が「ここ」になってみると、いっさいは今までと同じだ。ぼくたちはぼくたちの貧しさのなかに、狭さのなかに立っている。そしてぼくたちの魂は、するりと逃げていった慰めを追ってあえぐのだ。

 だから、どんなに落ちつかぬ放浪者でも、最後にはまた自分の故国を慕うようになる。自分の小屋、自分の妻の胸、子らのつどい、妻子を養う仕事のうちに、広い世界をさがしまわって得られなかった喜びを見いだすのだ。

 ぼくは朝日がのぼるとともにワールハイムに出かけて行く。宿の菜園でエンドウを自分で摘み、そこに腰をおろし、さやの筋をとりながら、ホメロスを読む。小さな台所に行って、つぼを一つえらび出して、バターをすくい取り、エンドウを火にかけ、ふたをし、そのそばに腰かけて、ときどきゆすってまぜる。そのようなとき、ぼくは、ペネローペの気負った求婚者たちが、牛や豚をほふり、それを切りきざみ、火にかけてあぶっているさまを、目に見るように感ずる。ぼくをこんなに静かな真実の感情でみたしてくれるものは、族長時代の生活の姿にほかならない。それをぼくは、ありがたいことに、何の気どりもなしにぼくの生活のなかに織りこむことができるのだ。

 幸福な気持ちだ、ぼくの心は素直な単純な人たちの喜びを感じ取ることができるのだ。それらの人は、自分で育てたキャベツを食卓にのせて、それを味わうのだ。いやキャベツだけではない。すべてのよい日々、それを植えつけた晴れた朝、それに水をそそぎ、伸びゆく生長

をたのしんだ心地よい夕べ、それらすべてを食事のひと時にふたたび味わうことができるのだ。(pp. 275-276)

⑤国松孝二訳

 

六月二十一日

 ぼくは神が聖徒たちにお恵みになるような日々を送っている。自分の身の行末はどうなるかわからないが、これまで、ぼくが人生のよろこびを、もっとも純粋なよろこびを味わわなかったなどと言うわけにはいかない。――きみはぼくのヴァールハイムを知っているだろう。ぼくはあそこにすっかりいついてしまった。ロッテのところへはほんの半時間のみちのりだし、あそこにいるとぼくはわが身の生きがいを感じ、人間に与えられたいっさいの幸福を感じる。

 ヴァールハイムを自分の散歩の目的地にえらんだとき、ぼくはこの村がこんなに天国に近いとは考えてもいなかった! いまはぼくのあらゆる希望をひそめているあの猟舎を、ぼくは遠く散策に出た途中、山の上やら平地から、川の向うに何度ながめたことだろう!

 愛するヴィルヘルムよ、ぼくはいろいろ考えてみた。自己を拡大したり、新しい発見をしたり、さまよい歩いたりしたがる人間の内なる欲望について。それからまた逆に、みずから進んでわが身を局限し、右顧うこ左眄さべんせずにそのまま慣習の軌道を歩きつづけて行こうとする内的衝動について。

 不思議なもので、ここへやって来て丘のうえから美しい谷間たにあいをながめたときは、ぼくはあたりの景色にずいぶん心をひかれたものだった。――あすこに林が!――ああ、あの奥にわけ入ることができたら! あすこの山の峰が!――ああ、あの頂上からひろびろとした山野を見はるかすことができたら! つらなりつづいている兵陵と親しみぶかい谷々、おお、あのなかにさまよい入ることができたら! ぼくは急いで行ってみた。そうして帰ってきた。望んでいたものは見いだせなかった。ああ、未来というようなものも、遠いところと同じようなものだろう! おぼろなひとつの大きな全体が、ぼくたちの心の行く手にうかんでいる。ぼくたちの感情はぼくたちの日のようにそのなかに溶けこみ、ぼくたちは、ああ! ぼくたちの全存在を投げだして、ただひとつの大きな壮麗な感情のいっさいの歓喜をもって満たされようと懸命になる――ところが、ああ! 急いで行ってみれば、かしこがここになってみれば、すべては元どおりだ。ぼくたちは相変わらず哀れな拘束された身のままだ。そうして、ぼくたちの魂はとらえそこねてしまった美禄びろくをもとめてかつえる。

 こんなふうにして、どれほど根孤い放浪癖をもった男でも、最後にはまた故国をなつかしみ、ささやかなわが家のうちに、おのれの妻の胸に、子供たちの団欒だんらんのなかに、広い世間においてもとめえられなかった喜びを見いだすのだ。

 ぼくは毎朝日の出とともにヴァールハイムへ出かけ、そこの茶店の菜園で甘えんどうを自分でつみとり、腰をおろしてさやの筋をとりながらホメロスを読みふける、それから、小さな台所でつぼをひとつ選びとって、そのなかからバターをえぐり出し、さやえんどうを火にかけてふたをかぶせ、そばにすわってきとき描りませてやるのだが、このきぼくはペネーロペの求愛者たちがはやりたって牛や豚を殺し、肉をこまかに切って火にあぶったあの光景を、じつにまざまざと感じる。いったい、族長時代の生活状態ほど、しずか真実を気持をもってぼくの心を満たしてくれたのはないのであって、ありがたいことに、ぼくはいま虚心にそうした生活状態を自分の暮しぶりのなかに編み入れることができるのだ。

 ぼくはじつにうれしい。自分でそだてたキャベツを自分の食卓にのせ、こうしていまキャベツを味わうばかりでなく、それと同時に、楽しかったすべての日々、キャベツを植えた美しい朝も、水をかけてやって日ごとの生長をよろこんだなつかしい夕べも、すべてを一瞬のうちにふたたび味わう人の、あの純利な無邪気な喜びを、ぼくは自分の胸に感じることができる。(pp. 24-25)

⑥前田敬作訳

 

六月二十一日

 ぼくは、神が聖者たちのためにとっておかれたような幸福な毎日を生きている。これから先のぼくがたとえどのようになろうとも、ぼくは、喜びを、それこそ人生の至純な喜びを味わわなかったとはいえない。――きみもご存知のぼくのウァールハイム、ぼくはあそこにすっかり入りびたっている。そこからなら、ロッテのところまでほんの半時間ばかりだ。このウァールハイムで、ぼくはぼく自身を感じ、人間にあたえられている一切の幸福をしみじみ味わっているのだ。

 ウァールハイムを散歩の目的地にえらんだとき、ここがこれほどにも天国に近いとは考えもつかなかった。遠くまで散歩の足をのばしながら、いまではぼくのあらゆる願いを秘めているあの猟邸を、あるときは山から、あるときは平地から川ごしに、なんど眺めやったことだろう!

 ウィルヘルムよ、人間のなかには、自分というものを拡大し、新しい発見をし、遠くまで放浪の旅に出ようとする欲望があるかとおもえば、他方では、すすんで制限に服し、習慣の軌道の上に乗り、右にも左にも眼をくれまいとする内的な衝動もある。ぼくは、そうしたことをいろいろと考えてみるのだ。

 ふしぎなことだが、最初ここへやって来て、丘の上から美しい谷をながめたとき、ぼくはまわりの景色にすっかり惹きつけられた。ああ、あそこに小さな森がある。あの影に身をひそめることができたらよいのに! あそこに、山の頂きがある。あの上から広々とした地方を見わたしたいものだ!――たがいに鎖のように入りくんだ丘と丘、やさしい谷たち! あのなかにき迷いこむことができないものだろうか。――そんな思いに駆られて、ぼくはいそいで出かけてみるのだが、望んだものはなにも見つからず、むなしく帰って来なくてはならなかった。おお、はるかな遠方は、未来とおなじようなものだ。大きな、漠とした全体が、ぼくらのたましいのまえに横たわっている。ぼくらの視線も感情も、そのなかにまさぐり沈む。そして、ぼくらは、ぼくらの存在のすべてをささげつくし、無上の壮麗な合体感から来るあらゆる歓喜をもってみずからを満たしたいという憧れに捉えられる。――ところが、ぼくらがいそいで出かけていって、かしこがここになると、すべてはもとのままなのだ。ぼらは、相変らずぼくらの貧しさ、ぼくらの制約のなかに立っている。そして、ぼくらのたましいは、とりにがした幸福をもとめて、むなしく悶える。

 このようにして、どんなにさだめなき放浪児も、最後にはふたたびうまれ故郷にあこがれ、自分の小さな家に、妻の胸に、子供たちの団欒だんらんのなかに、赤子をやしなう仕事のなかに、広い世界で求めて得られなかった喜びを見出すのである。

 朝まだき、ぼくは日の出とともにウァールハイムに出かける。料亭の庭で豌豆えんどうをつみとり、腰おろして、さやのすじをとりながらホメロスを読んだりする。それから、小さな台所で鍋をえらび、バターをすくい取り、豌豆を火にかけ、そのそばにすわりこんで、ときどきゆりまぜる。そういうとき、あのペネローペの思いあがった求婚者たちが牡牛や豚を殺して、切りきざみ、火あぶりにしたような情景が、まざまざというかんでくる。とおい族長時代のいろいろな生活の面影はど、ぼくのこころを静かな真実な感情でみたしてくれるものはない。しかも、ありがたいことに、ぼくという男は、そうした昔の生活の面影を、なんの気どりもなしに自分の生活のなかへ織りこむことができるのだ。

 自分が作ったキャベツを自分の食卓にのせる人間の素朴で無垢な喜びを、ぼくのこころが味わうことができるとは、ほんとうに仕合せだとおもう。いや、キャベツだけじゃない。それを植えた美しい朝、それに水をやり、日ごとに大きくなっていくのを喜びながめた静かな夕べ、そうした楽しい日々のすべてをも一瞬間のうちにもう一度味わうのだ。(pp. 24-26)

⑦内垣啓一訳

 

六月二十一日

 ぼくがいま生きている幸福な毎日は、神が聖者たちにとりのけておく日々に似ている。だからたとえこの身がどうなろうとも、ぼくは喜びを、人生の至純な喜びを、味わわなかったなどと言ってはなるまい。――君はわがワールハイムを知っているね。あそこにぼくは完全に根をすえた。あそこからわずか半時間でロッテのところだ。あそこでぼくは自分自身と、人間に与えられたすべての幸福とを感じる。

 考えもしなかったことだ――ぼくがワールハイムを散歩の目的地に選んだとき、そのすぐ近くに天国があろうとは! なんどぼくは、いまではぼくのあらゆる願いを包んでいるあの狩猟館を、遠くさすらいながら、あるときは山からあるときは野から、河をへだてて眺めていたことだろう!

 愛するウィルヘルム、ぼくはいろいろなことを熟考してみた――人間のなかにある、自分を拡大し、新しい発見をし、さまよいまわろうとする欲求について、それからまた制約にすすんで屈服し、習慣の軌道をはしり、右も左も気にかけまいとする内的な衝動について。

 思えば驚くほかはない――かつてぼくがこのワールハイムへやって来て、丘から美しい谷間を眺め、周辺の景色に惹きつけられたときのことだ。――あそこには小さな森!――ああ、お前があの木陰にとけこめたら!――あそこには山の頂き!――ああ、お前があの上から広い土地を見わたせたら!――あのくさりのようにつながりあった丘と、親しみのある谷間!――ああ、あのなかで消えうせられたら!――ぼくはそちらへ急いでゆき、やがてもどってきたが、望んだものはついに見つからなかった。そうだ、遠方は未来に似ている! しだいにうす暗くなる一個の大きな全体が、われわれの魂のまえに安らって、われわれの感覚は眼とおなじくそのなかを漂い、そしてわれわれはあこがれのうちに――こともあろうに!――自分の全存在を捧げて、壮大な合一の感情からくるすべての歓喜で満たされたいと願う。――ところが、ああ! われわれがそちらへ急いでゆき、あそこがここになったとしても、いっさいはもとのままであり、われわれはあいかわらず貧窮と制約のうちにあり、われわれの魂はとり逃がした慰安を求めあえぐのだ。

 そこで、どれほど安らぎのない放浪児でも、最後にはふたたび父祖の国を憧れ、自分の小屋のなかに、自分の妻の胸もとに、自分の子供たちのまどいに、彼らを扶養するための仕事のうちに、広い世界でむなしく求めたよろこびを見いだすことになる。

 ぼくは朝、日の出とともにうちを出てわがワールハイムへ行き、例の酒場の菜園で豌豆えんどうを自分で摘み、腰をおろして、さやのすじをとりながらわがホメロスを読む。それから小さな台所でなべをえらび、バターをつぼからすくい、豌豆えんどうを火にかけ、ふたをしめ、そばに腰かけて、ときどき揺りませる――そんなとき、ぼくはまぎまさと、ペネーロペの傲慢ごうまんな求婚者たちが牛や豚をほふり、裂き、焼いたさまを実感する。なににもまして、ぼくを静寂で真実な情感でみたしてくれるのは、族長時代の生活のさまざまな特徴なのだが、それをぼくは――ありがたいことに――虚飾なしに、自分の生活様式に織りこむことができる。

 なんとここちよいこだろう――ぼくの心が、みずから育てたキャベツを自分の食卓にのぼせる人の、単純で無邪気な歓びを実感することができるとは。その人はキャベツだけではなく、あらゆる楽しい日々――それを植えた美しい朝、水をやったり、ずんずん成長するのを喜んで眺めたりした気持のよい夕――これらすべてを一瞬のうちに味わいかえすのだ。(pp. 28-30)

⑧井上正蔵

 六月二十一日

 幸福な日々を過ごしている。まるで、神さまが聖者のためにとっておかれたような毎日だ。今後はどうなろうとも、ぼくが喜びを、人生のもっとも純粋な喜びを、経験したことがない、などとは絶対にいえない。――きみもよく知っている、わがワールハイム。ぼくはあそこに入りびたりだ。そこからロッテのところまではわずかに半時間。あの村でぼくは、ほんとうの自分を、人間にあたえられる幸福のすべてをしみじみと感じるのだ。

 考えてもみなかったよ。散歩の目的地にワールハイムをえらんだとき、よもやそのすぐそばに天国があろうなどとは。いま、ぼくのあらゆる願いがこもっているあの狩猟館、あのやかたを、散歩の足をのばしながら、ときには山から、ときには平地から川をへだてて眺めたことも、幾度となくあった。

 ウィルヘルム、ぼくはいろいろ考えてみた。人間には、自分というものを拡大し、あたらしい発見をし、さらに遠くへさまよい出ようとする欲望がある。そうかと思えば、自分がすすんで制約に従い、慣習の軌道をたどり、右にも左にも気をとられまいとする内的な衝動もある。

 じつに不思議ではないか。はじめてここへやってきて、丘から美しい谷を眺めて、あたりの景色けしきに心ひかれたときのことだ――あそこに森が見える!――ああ、あの森の木かげにみをひそめることができたらなあ!――あそこに山の峰が見える!――ああ、あの頂きからひろい一帯を見わたすことができたらなあ!――つらなる丘、なつかしい谷!――おお、あの中にさまよい入ることができたら!――そう思って、ぼくは急いで行ったものだ。そして、むなしく帰ってきた。望んだものは見つからなかったのだ。ああ、遠いかなたは未来に似ている! ひとつの大きな、おぼろげな全体が、われわれの魂の行く手に浮かんでいる。われわれの感覚は、ちょうどわれわれの目と同じように、その全体に吸いこまれてしまう。ああ、われわれの存在のすべてをささげて、ただひとつの大きなすばらしい感情の歓びという歓びで心を満たそうとあこがれる。――ところが、ああ、われわれがそこへ急いで行って「あそこ」が「ここ」になってみると、すべては前と変わりないのだ。われわれは相変わらず貧しく、制約を受けている。そして、われわれの魂は、するりと逃げて行った幸福を求めてあえぐだけだ。

 だから、どんなに落ちつかぬ放浪児バガボンドでも、最後にはまた父祖の地をなつかしみ、自分のささやかな家に、妻の胸に、子どもたちのまどいに、妻子を養う仕事に、広い世界でむなしく求めた喜びを見いだすのだ。

 毎朝、日の出とともに家を出て、ぼくはわがワールハイムへ出かける。例のレストランの菜園で豌豆えんどうを摘み、腰をおろして莢のすじを取りながらホメロスを読む。それから小さな台所で鍋を取り出し、バターをすくってさや豌豆えんどうを火にかけ、ふたをしてそばにすわり、ときどきかきまぜる。そのときぼくは、あのペネローペ(ホメロスの「オデュッセイアの主人公オデュッセウスの妻。夫の留守中、言い寄る男たちをこばみつづけた貞淑な女性)の思いあがった求婚者たちが、牛や豚を殺して肉を裂き火にあぶったさまを、まざまざと思い浮かべる。こんな族長時代の生活の姿ほど、ぼくの心をしずかな真実の感情で満たしてくれるものはない。ありがたいことに、ぼくは、そういう昔の生活の面影をありのままに自分の生活の中に織りこんでいける。

 なんと楽しいことだろう。自分のつくったキャベツを自分の食卓にのせる人間の素朴な無邪気な喜びを、ぼくが味わえるということは、いや、キャベツばかりではない。それを植えた美しい朝、それに水をやって、一日一日育っていくのをよろこんで眺めた楽しい夕べ。それらすべてを一瞬のうちにふたたび味わえるのだ。

斎藤栄治訳

 

六月二十一日

 神さまが聖者たちのためにとっておいてくれたような、幸福な毎日を、僕はおくっている。これからさき自分がどうなろうと、僕は、よろこびを、人生のもっとも純粋なよろこびを、味わわなかったとは言うことができない。君は僕のワールハイムを知っているね。そこに僕はすっかり根をおろした。そこから、ロッテのところまでたったの半時間だ。そこにいると、僕は自分自身を感じる。人間に与えられたいっさいの幸福を感じる。

 ワールハイムを散歩の目的地に選んだとき、そこがこれほど天国に近いとは、考えもしなかったことだ! 今では僕のすべての願いのすみかであるあの狩猟館を、遠い散歩の道すがら、あるいは山から、あるいは平地から、川を越えていくたび眺めやったととだろう!

 ウィルヘルムよ、僕はいろんなことを考えた。自己を拡大し、新しい発見をなし、また遠くさまよいあるとうとする人間の心のなかの欲求について考えた。さらに一方では、制約に唯々として服従し、習慣の軌道をつっぱしって、右も左もわき目はふるまいという内的な衝動についても考えてみた。

 ふしぎなことだ。ここに来て、丘の上から美しい谷を眺めわたしたとき、あたりのものすべてが僕の心をひきつけたのだ。――あそこの小さな森! ――ああ、あの森のこかげに身をひそめることができたら! ――あそこの山の頂! ――ああ、そこから遠くこのあたり一帯を見はるかすことができたら! ――鎖のようにつながった丘々、なつかしい谷々! ――おお、そのなかに身を没することができたら! ―― ――僕はいそいで出かけていったが、また帰ってきた。望んだものが見つからなかったのだ。ああ、遠いかなたは未来のようなものだ! なにか大きな、おぼろげな全体が、僕の魂のまえに横たわっている。われわれの感覚も、われわれのまなざしも、そのなかにとけて消え去る。そしてわれわれは、ああ、わが全存在を放擲して、唯一の、偉大な、壮麗なる感情の大歓喜をもって満たされんことをこいねがう。――されど、ああ、道をいそいで、ついにかなたがここになるとき、いっさいは元のままなのだ。われわれはあいも変わらず貧しく、狭くるしい世界に生きている。われわれの魂は、こぼれ落ちた清涼の泉をもとめてあえぐ。

 されば、しずごころなき放浪者も、ついにはふたたび母国をあこがれ、おのれのしずに、おのれの妻の胸に、わが子らのまどいに、彼らを養うための繁忙のなかに、むなしく遠い世界に求めたよろこびを見いだすのだ。

 朝まだき日の出とともに家を出て、ワールハイムに行き、そこのレストランの菜園で豌豆を摘み、それから腰をおろして、さやの筋をとりながら、わがホメロスを読む。小さな調理場で深鍋をえらんで、バターを壷からすくいとり、莢豌豆を火にかけ、ふたをし、そこに腰をおろして、ときおり豆をゆりまぜる。そのとき僕は、かのペネロペー(オデュセイアの妻、夫の不在中多くの求婚者をしりぞけて貞節をまもる)のおごれる求婚者たちが、牛や豚をほふり、切り裂き、そして焼いたありさまを切実に感得する。はるかなる族長時代の生活のおもかげはど、ひそやかな真の感情をもって僕の心を満たしてくれるものはない。それをいま僕は、ありがたいことに、なんの気どりもなく、自分の生活のなかに織りこむことができる。

 自分でそだてたキャベツを、自分の食卓にのせる人の、単純で無邪気なよろこびを味わうことのできるこのしあわせ。いや、キャベツばかりではない、彼が植えた美しい朝、彼が水をやった愛らしい夕べ、また、日ごとに進む成長をよろこんだがゆえに、それらよき日のすべてを、一瞬のうちに、ふたたび共に味わう人のよろこびだ。(pp. 23-34)

⑩神品芳夫訳

 

六月二十一日

 幸福な日々を送っている。神が聖者のために特別にとっておいたような日々だ。この先自分の身がどうなろうと、ぼくは人生のよろこびを、最も純粋なよろこびを味わい得た人間だといわなくてはならない。ぼくの愛する土地ヴァールハイムのことは前に書いたね。そこにぼくはすっかり根をおろした。そこからはわずか半時間でロッテのところへ行ける。そして自分に立ち帰り、およそ人間にあたえられる幸福感をありったけ味わう。

 ヴァールハイムを散歩の目的に選んだとき、この村がにこんなに楽園に近いところにあるとは考えもしなかった。ぼくのかずかずの願望のすべてを包み込んだあの狩猟用の別邸を、長い散歩の途中、あるときは山の上から、またあるときは平地に立って川越しに、いくたび眺めわたしただろう。

 愛するヴィルヘルムよ、ぼくはいろいろに考えるのだ。人間のなかには、自分をおしひろげ、新しい発見をなし、何にでも手を出そうという願望がある。そうかと思うとまた、よろこんで自分の行動をある限界に抑制し、定まった軌道の上を走り、右顧うこ左眄さべんするまいという希求もぼくらの心のなかにはひそんでいる。

 この場所にやってきて、丘の上から眼下にひろがる美しい平野を眺めて、このあたりの景色にひきつけられるのはすばらしいことだ。あそこに、あんな森がある。ああ、あの森の木蔭に入り込んでみたい。あそこに山の頂きがある。あそこから広大な眺めをたのしんでみたい。連らなり合った山なみと、親しみ深い人里。ああ、ぼくはその土地のなかに迷い込んでしまいたい。――ところがぼくはいそいそと出かけて行っては、また戻ってくる。望んでいたものを見つけることができないのだ。そうだ、遠方とは未来と同じようなものだ。大きな茫洋とした世界がぼくらの心の前にただよっている。ぼくらの感情も、ぼくらの目も、そのなかにさまよい込む。そしてぼくらはひたすら願うのだ、自分の存在全体をそこへ投げ出し、一つの大きな輝かしい歓喜の感情に自分をひたらせることを。――おお、ところが、いそいそと出かけて行って、「あそこ」が「ここ」になって目の前に現われると、結局なんの変哲もないことがわかってしまう。ぼくらはいぜんとして貧しいままであり、限界はどうしようもなく、逃げ去った幸福をはむなしく追い求めているだけだ。

 だから結局、あてどなくさすらいの旅をしている放浪者でも、ついには自分の故郷に帰りたいと願うのだ。そしてわが家に戻り、妻と睦み合い、子供たちに囲まれ、家業の維持に努めながら、広い荒涼の世界で探し求めてついに得られなかった歓喜をそこで見いだす。

 ぼくは毎朝日の出とともに家を出て、わがヴァールハイムに向かう。例の店の庭で甘味エンドウを摘み、坐ってスジを取り、かたわらホメーロスを読む。それから小さな台所へ入って鍋を一つ選び、バターを敷き、スジを抜いたエンドウを火にかける。ふたをして、そばに座り、ときどきよく振って混ぜる。そんなときぼくには、ペネロペーの返事を待つ誇り高い求婚者たちは牛や豚を屠殺し、切り裂き、焼いたというが、そのときの気持がひしひしと感じられる。つまり、そのときぼくの心を静かな真実の感情で満たすのは、たしかにむかしの家父長時代の生活の場面なのだ。しかもありがたいことに、今のぼくの生活の仕方なら、そういう場面をわざとではなく織り込むことができる。

 自分で育てたキャベツを食卓に山すのは素朴な純情のよろこびだが、その喜びをぼくが心に感ずることができるのは、なんとうれしいことだろう。いや、キャベツそのものだけではなく、それを育ててきた日々、つまり、それを植えた朝のことも、水をやりながらその成長をよろこんで見守った夕暮のさまざまな思い出も、すべてそこでもう一度まとめて味わうことができるのだ。(pp. 24-25)

柴田翔

 

六月二十一日

 ぼくは至福の日々を生きている。神が聖者たちのためにこそ与えるだろうような至福の日々を。たとえぼくがこの先どうなろうとも、ぼくが喜びを、人生のもっとも純粋なる喜びを、けることなく終ったとは、もう断じて言うまい。――君はわがヴァールハイムを知っているね。ぼくはもうすっかりあそこに居ついている。そこからロッテのところまではわずか半時間だ。あそこでこそぼくは自分自身を知り、およそ人に与えられる限りの幸福のすべてを、深く感じるのだ。

 ヴァールハイムを散歩の目的地に選んだ時、そこがこれほど天国に近く位置しているとは思いもしなかった。果てることのない散策の道すがら、幾度となく、幾度となく、あるいは山の上から、あるいは平野の川越しに、ぼくは今やわが願いのすべてが向けられているあの猟館へ視線を送る。

 愛するヴィルヘルムよ。あらゆる思いがぼくの心を横切り、ぼくを考え込ませるのだ。自己を拡大し、新しき発見をなし、彷徨ほうこうに身をまかせたいと願う人間のうちの熱い欲求。そしてまた、自己を喜んでくびきにゆだね、習慣の軌道をそのままに辿って、右にも左にも気をわずらわすまいとする内心の衝動。

 まったく不思議なことだ。ここに登ってきて、丘から美しい谷間を見はるかすと、まわりに拡がるすべてがぼくの心を魅した。あそこに森がある!――ああ、あの森蔭に身をひそめることができたなら!――あそこに山の頂上が!――ああ、あそこに立って、果てしない世界を眺めることができたなら!――あの重畳する丘々となじみ深い谷間の数々!――おお、あの蔭をさまよい歩くことができたなら! ぼくはそこへ急ぎ、そして戻ってきた。ぼくは自分が夢みたものを見出さなかったのだ。

 おお、遠い彼方かなたは未来と同じだ! ぼくらの魂の行手に大きな茫漠ぼうばくとしたものが漂っている。ぼくらの眼、ぼくらの情念はその中へ吸い込まれて行き、ぼくらはあくがでて、自分の存在のすべてをそれに捧げつくし、ただひとつの偉大にして壮麗なる感情が生む歓びによって身も心も充たし尽そうとする。――そして、ああ!ぼくらがそこへと急ぎ、彼方だったものが今や此処こことなれば、すべては以前と変らない。そしてぼくらは相変らずの惨めさ、相変らずのくびきのうちにあり、ぼくらの魂は逃げ去った蘇生の秘薬を求めてあえぐのだ。

 こうして、誰よりも心定まらぬ放浪者でさえも最後には故郷に憧れ、その陋屋ろうおく、その妻の胸、その子供らの円居まどい、その家族を養うための日々の仕事のうちに、広い世界のうちに求めて得られなかった歓びを見出すのだよ。

 朝になるとぼくは日の出とともに家を出てヴァールハイムへ向かい、そこの畑で自分のためのえんどう豆をわが手で摘み、坐ってさやの筋を取りながら、その合間合間にホメロスを読む。そして小さな台所に入り込んでなべを選び、つぼからバタをすくい取り、莢えんどうを火にかけ、ふたをし、そばに坐り込み、万遍なく火がまわるよう時どき鍋をゆさぶってやる。そうしているとぼくは、ペネロペの傲慢ごうまんな求婚者たちが牛と豚をほふり、その肉を裂き、火にあぶっている、あのホメロスの情景を本当に生きいきと感じることができる。ぼくを静かで真実な感情で充たしてくれるのは、そうした古い族長時代の生活の姿だけなのだ。そしてぼくは神に感謝する、自分が日々の暮しのなかへまったく自然な気持でそうした時間を織り込むことができることを。

 自らの手で育てたキャベツを自らの食卓に運ぶ人間の単純にして素朴な歓びを、わが胸に感ずることができるのは、何と心休まることだろう。そのとき彼の味わうのはキャベツだけではない。その芽を植えた美しい朝、それに水を与えた愛すべき夕べの数々、そしてその次第に育ち行く姿を眺めて喜んだ良き日々のすべて――彼はそれらの朝と夕べと日々のすべてを、ひとつの瞬間のうちに再びみな味わい返すのだ。(pp. 46-49)

大宮勘一郎

 

六月二十一日

 俺はあんまり幸福で、まるで神さまが聖者にお恵みくださったような日々を送ってる。たとえそれでどんな目に遭うことになろうが、俺は喜びを味わった、生きることのまじりけのない喜びを味わったんだ、って言うしかない。我がヴァールハイムはご存知だな。俺はすっ

かりそこにいついちまった。ロッテのところまでたった半時間で行けるし、そこにいると俺は自分自身を感じるし、人として恵まれる幸せを丸ごと感じられる。

 俺がヴァールハイムを散歩先に選んだ時分、ここがこんなに天国に近い所だってことに何で気づかなかったんだろう! 今じゃ俺の望みが全部詰まってるあの狩猟館を、長い散歩の途中で山から眺めたり平地の川越しに見たりしたことが以前に何回もあったのにな!

 ねえ、ヴィルヘルム、自分を押し広げたがったり、新しいものを発見したがったり、あちこちを放浪してみたがったりする人間の内なる欲望について、俺はとことん考えたよ。それからまた、制約に唯々諾々と従おうとしたり、右も左もお構いなしで習慣の敷いた線路どおりに走ろうとしたりする内なる欲動についても考えた。

 摩訶不思議さ。ここに来て、丘の上からいかした谷を眺めたり、辺りの様子に惹き込まれたりするのは。――あそこにはちょっとした森!――ああ、あの暗がりに紛れ込みたい!――それにあの山頂!――ああ、あそこから辺りを広々と見渡したい――互い違いに連なっていく丘に、谷また谷の親密そうなこと!――ああ、あの中に迷い込んじまいたい!――急いで出かけては、帰って来る。望んだものなんか見つからないままにさ。まったく、遠いってことは未来と似てる。何やらでかくてぼんやりしたものが、丸ごと俺たちの魂の前にあって、俺たちの感覚は、俺たちの眼もろともに輪郭なんか失くしてその中に溶けちまうんだ。すると俺たちはこんなふうに憧れる。ああ! 身も心も全部捧げたい、たった一つの大きな何かを感じ、とびきりの喜びで満たされたい、って。それなのに、ああ畜生! 急いで向かった彼方に到着してみれば、全ては元通りさ。俺たちは相変わらず貧しくてがんじがらめで、魂は手に入れ損なった清涼剤欲しさで喉をカラカラにしてる。

 それだから、腰の定まらない宿無し野郎も、結局は故郷に戻りたいって気持ちになり、棲みついた小屋で、奥さんの胸元で、子供たちに囲まれて、そいつらを養う仕事の中に、広い世の中で無駄に探し回ってた喜びを見出すことになる。

 日の出とともに我がヴァールハイムに出かけ、宿屋の庭で俺の分のエンドウ豆を摘み取り、座ってスジを取りながら、合間に我がホメロスを読む。小さなくりやで鍋を選び、バターを一切れ、豆を鞘ごと火にかけ、蓋をして、傍に座って時々かき混ぜる。そんなとき俺は、ペーネロペーの傲岸なる求婚者どもが牛や豚をほふり、切りさばいて炙ったその有様を、まざまざと感じる。こんなに静かな、本当の感覚で俺を満たしてくれるものは、族長たちの暮らしの面影の他にはない。有難いことさ、俺は何の粉飾もなしにそれを俺の生き方に織り込むことができる。

 何ていい気持ちだろう。自分で育てたキャベツの一玉を食卓に上げる人間の単純で無害な歓喜を、俺の心も一緒に感じられるとはな。しかもキャベツだけじゃなく、それを植え付けた美しい朝とか、水を遣りだんだん大きく育つのを喜んだ素敵な晩とか、全てのよき日々を、その時にはまるごと一緒に味わうことになるのさ。(pp. 42-44)

*1:引用は Gutenberg による。