堀辰雄『風立ちぬ』のフランス語版を日本語に訳してみる 7

[フランス語版]Aujourd'hui encore je puis faire revivre dans toute son intensité ce sentiment de bonheur si proche de la tristesse qui m'étreignait le cœur jour après jour quand vous fûtes partis.

[フランス語版の日本語訳]今でもなお私は、お前が旅立った後に日々を締めつけたあの悲しみにも似た幸福の感覚を、あの頃のままにありありと甦らせることができる。

[原文]お前達が発つて行つたのち、日ごと日ごとずつと私のをしめつけてゐた、あの悲しみに似たやうな幸福の雰囲気を、私はいまだにはつきりと蘇らせることが出来る。

vous fûtes partis を「お前が旅立った」としたのは単純にミス。partis が複数形だし、第一ずっと tu で呼んできた「お前」がいきなり vous になるのもおかしい。

cœur は「心」ではなく「胸」と訳した方がいいことも多い。

悲しみで胸が一杯になる
avoir le cœur rempli de chagrin
胸が張り裂ける思いだ
Je sens mon cœur se déchirer [se briser; se serrer].*1

[フランス語版]Toute la journée je restais enfermé à l'hôtel.

[フランス語版の日本語訳]私は一日中ホテルに閉じこもっていた。

[原文]私は終日、ホテルに閉ぢ籠つてゐた。

[フランス語版]Je me remis à mon travail que j'avais longtemps délaissé pour me consacrer à toi.

[フランス語版の日本語訳]お前の面倒を見るために長い間放っていた仕事に、私は再び手をつけた。

[原文]さうして長い間お前のために打棄うつちやつて置いた自分の仕事に取りかかり出した。

[フランス語版]Contrairement à mon attente je parvins à m'y absorber paisiblement.

[フランス語版の日本語訳]意外にも私は心穏やかにその仕事に没頭することができた。

[原文]私は自分にも思ひがけない位、静かにその仕事に没頭することが出来た。

静か
③気持ちや態度が落ち着いているさま。おだやかだ。ものしずかだ。「―に余生を送る」*2

その湖畔の宿では都会では味わえない静かな気分を味わった。
At the lakeside inn we enjoyed a peaceful atmosphere we can never find in the city.*3

[フランス語版]Entretemps la saison subit un changement complet.

[フランス語版の日本語訳]その間に季節は完全に変わってしまった。

[原文]そのうちにすべてが他の季節に移つて行つた。

この原文はなかなか不思議な日本語だ。

[フランス語版]Je me décidai enfin à partir à mon tour et la veille du jour fixé, pour la première fois depuis longtemps, je sortis de l'hôtel pour me promener.

[フランス語版の日本語訳]とうとう私も旅立つことにして、出発の前日、久しぶりにホテルを出て散歩に出かけた。

[原文]そしていよいよ私も出発しようとする前日、私はひさしぶりでホテルから散歩に出かけて行つた。

「いよいよ私も出発しようとする前日」、こういう連体修飾の仕方は真似していきたい。

[フランス語版]Le bouleversement apporté par l'automne rendait les bois méconnaissables.

[フランス語版の日本語訳1]秋になって、森は見違えるほどにすっかり姿を変えていた。
[フランス語版の日本語訳2]秋がもたらした変化は、森を見違えるようにしていた。

[原文]秋は林の中を見ちがへるばかりに乱雑にしてゐた。

bouleversement というのはよく分からないなと思ったが、原文の「乱雑」もどきっとするような言葉の選択だ。

[フランス語版]Les arbres dépouillés d'une grande partie de leurs feuilles laissaient voir, beaucoup plus proches qu'auparavant, entre leurs troncs, les terrasses des villas désertées.

[フランス語版の日本語訳]葉をほとんど落としてしまった木々の幹の間から、人けのない邸宅のテラスが以前よりずっと近くに見えた

[原文]葉のだいぶ少くなつた木々は、その間から、人けの絶えた別荘のテラスをずつと前方にのり出させてゐた

この文も癖が強い。「人けの絶えた別荘」は単数だろうか複数だろうか。英語版は a deserted villa としている。

[フランス語版]L'odeur humide des champignons se mêlait à celle des feuilles mortes.

[フランス語版の日本語訳]湿ったきのこの匂いが落ち葉の匂いと混ざり合っていた

[原文]菌類の湿つぽい匂ひが落葉の匂ひに入りまじつてゐた

l'odeur humide 「湿つぽい匂ひ」。こういうのはむやみに改変しない方がいい。

代名動詞を見ると反射的に「~合う」と書いてしまうが、日本語には他にもいい言葉がある。

いろんな思い出が頭の中で入り交じる
Les souvenirs se mêlent dans mon esprit.
群衆に入り交じる
se mêler [se confondre avec] la foule*4

[フランス語版]J'éprouvais un sentiment étrange à la vue de ce changement presque inopiné de saison : tant de temps s'était donc écoulé à mon insu depuis que je t'avais quittée.

[フランス語版の日本語訳]ほとんど予期していなかったこの季節の移ろいを見て、私は不思議な感覚を抱いた。私がお前と離れてから、知らないうちにこれだけの時間が過ぎたのだ。

[原文]さういふ思ひがけない位の季節の推移が、――お前と別れてから私の知らぬ間にこんなにも立つてしまつた時間といふものが、私には異様に感じられた。

[フランス語版]Quelque part au fond de mon cœur j'avais la certitude que notre séparation devait être provisoire et l'écoulement même du temps avait pris pour moi une signification toute nouvelle... Tel était le sentiment que j'éprouvais d'abord confusément, avant d'en prendre une conscience claire quelques instants après.

[フランス語版の日本語訳]私の心の奥底のどこかに、私たちの別れは仮のものに違いないという確信があった。時間の流れさえもが、私にとって全く新しい意味を帯びだしていた……。始めはぼんやりと抱いていたそのような感覚を、しばらく後にはっきりと意識するに至った。

[原文]私の心の裡の何処かしらに、お前から引き離されてゐるのはただ一時的だと云つた確信のやうなものがあつて、そのためかうした時間の推移までが、私には今までとは全然異つた意味を持つやうになり出したのであらうか? ……そんなやうなことを、私はすぐあとではつきりと確かめるまで、何やらぼんやりと感じ出してゐた。

「~と云つた確信のやうなものがあつて」は疑問文の一部だし、あくまで「のやうなもの」なので、j'avais la certitude と言うと強すぎる気がする。次の文で「はつきりと確かめる」と言っているのでこれでいいのかもしれないが、受ける印象は大分違ってくる。
後の文も、「はつきりと確かめる」よりも「何やらぼんやりと感じ出してゐた」の方に重点があるかのような書き方をしている。

今回の箇所の原文は、これまで以上になめらかでない表現が多く、内容とうまく一致していると言うべきなのかもしれないが、こういうのは普通の人がやったらただの悪文としか思われなさそうで、自分の文章に取り入れるのはなかなか難しいかもしれない。

*1:『コンコルド和仏辞典』(白水社)。

*2:『明鏡国語辞典』(大修館書店)。

*3:『新和英大辞典』第5版(研究社)。

*4:『コンコルド和仏辞典』(白水社)。