世界文学全集のためのメモ 39 『イワン・デニーソヴィチの一日』 アレクサンドル・ソルジェニーツィン
ロシア語編 2
Александр Солженицын
アレクサンドル・ソルジェニーツィン
1918-2008
Один день Ивана Денисовича
『イワン・デニーソヴィチの一日』
1962
日本語訳
①木村浩訳『イワン・デニーソヴィチの一日』1963年(新潮文庫)📗
②江川卓訳『イワン・デニーソヴィチの一日』1963年(集英社『集英社ギャラリー [世界の文学]15 ロシアⅢ』1990年 📗)
③小笠原豊樹訳『イワン・デニソビッチ』1963年(グーテンベルク21、2012年)📗
④染谷茂訳『イワン・デニーソヴィチの一日』1971年(岩波文庫)📗
Шухов бросился мимо БУРа, меж бараков — и в посылочную. А Цезарь пошёл, себя не роняя, размеренно, в другую сторону, где вокруг столба уже кишмя кишело, а на столбе была прибита фанерная дощечка и на ней карандашом химическим написаны все, кому сегодня посылка.
На бумаге в лагере меньше пишут, а больше — на фанере. Оно как-то твёрже, вернее — на доске. На ней и вертухаи и нарядчики счёт головам ведут. А назавтра соскоблил — и снова пиши. Экономия.
Кто в зоне остаётся, ещё так шестерят: прочтут на дощечке, кому посылка, встречают его тут, на линейке, сразу и номер сообщают. Много не много, а сигаретку и такому дадут.
Добежал Шухов до посылочной — при бараке пристройка, а к той пристройке ещё прилепили тамбур. Тамбур снаружи без двери, свободно холод ходит, — а в нём всё ж будто обжитей, ведь под крышею.
В тамбуре очередь вдоль стенки загнулась. Занял Шухов. Человек пятнадцать впереди, это больше часу, как раз до отбоя. А уж кто из тэцовской колонны пошёл список смотреть, те позади Шухова будут. И мехзаводские все. Им за посылкой как бы не второй раз приходить, завтра с утра.
Стоят в очереди с торбочками, с мешочками. Там, за дверью (сам Шухов в этом лагере ещё ни разу не получал, но по разговорам), вскрывают ящик посылочный топориком, надзиратель всё своими руками вынимает, просматривает. Что разрежет, что переломит, что прощупает, пересыплет. Если жидкость какая, в банках стеклянных или жестяных, откупорят и выливают тебе, хоть руки подставляй, хоть полотенце кулёчком. А банок не отдают, боятся чего-то. Если из пирогов, сладостей подиковинней что или колбаса, рыбка, так надзиратель и откусит. (А качни права попробуй — сейчас придерётся, что́ запрещено, а что не положено — и не выдаст. С надзирателя начиная, кто посылку получает, должен давать, давать и давать.) А когда посылку кончат шмонать, опять же и ящика посылочного не дают, а сметай себе всё в торбочку, хоть в полу бушлатную — и отваливай, следующий. Так заторопят иного, что он и забудет чего на стойке. За этим не возвращайся. Нету.
Ещё когда-то в Усть-Ижме Шухов получил посылку пару раз. Но и сам жене написал: впустую, мол, проходят, не шли, не отрывай от ребятишек.
Хотя на воле Шухову легче было кормить семью целую, чем здесь одного себя, но знал он, чего те передачи стоят, и знал, что десять лет с семьи их не потянешь. Так лучше без них.
Но хоть так он решил, а всякий раз, когда в бригаде кто-нибудь или в бараке близко получал посылку (то есть почти каждый день), щемило его, что не ему посылка. И хоть он накрепко запретил жене даже к Пасхе присылать и никогда не ходил к столбу со спи- ском, разве что для богатого бригадника, — он почему-то ждал иногда, что прибегут и скажут:
— Шухов! Да что ж ты не идёшь? Тебе посылка!
Но никто не прибегал…
И вспомнить деревню Темгенёво и избу родную ещё меньше и меньше было ему поводов… Здешняя жизнь трепала его от подъёма и до отбоя, не оставляя праздных воспоминаний.*1
①木村浩訳
シューホフは監獄の脇をぬけ、バラックの間をぬって、一目散に、小包受領所へ走った。いっぽう、ツェーザリは自己の品位をおとさず、ゆっくりと、反対のほうへ歩いていった。行く手の柱のまわりには、もうたくさんの人が群っている。柱の上には一枚のベニヤ板がうちつけられ、その表面にボール・ペンできょうの小包受領者の名m前が書きだされてあった。
ラーゲルでは紙の上にものを書くことは少く、大抵はベニヤ板を使う。まあ、板の上に書くほうが確かで、信頼できるというわけだ。望楼の哨󠄁兵も、作業割当係も、人員を計算するとき、この板を使う。翌日も削って、また使えるわけだ。とにかく、経済的だ。
ラーゲル構内に残っている連中には、こんな内職稼ぎもある。小包を受けとった者の名前をベニヤ板で見ておき、整列場所で本人を待ちぶせ、すぐにその番号を教えてやるのだ。大した稼ぎにはならなくても、巻タバコの一本ぐらいは貰えるというものだ。
シューホフは小包受領所まですっとんでいった。バラックに別棟が建てましされており、その別棟にまた小さな張り出しがついている。そこが小包受領所になっていた。外の扉がついておらず、寒風が吹きぬけていくが、とにかく屋根の下なので、いくらか居心地がよい。
受領所の壁に沿ってもう行列ができていた。シューホフも並んだ。彼の前には十五人ばかり並んでいたから、あと一時間以上はかかるだろう。ちょうど就寝時間すれすれだ。しかし、暖発電作業隊の連中で掲示板を見にいったものがあっても、シューホフよりはおそくなる勘定だ。機械工場の連中もみんなそのまたあとだ。連中は小包を受取るために、明朝、もう一度並ばなければならないだろう。
行列に並んでいる連中は小さな袋やザックを持っている。扉のむこう側では(シューホフ自身はこのラーゲルへきて、まだ一度も小包を受取ったことはないが、いろいろ話にはきいている)看守たちが小包の箱を手斧でこじあけて、どんなものでもひっぱりだして、いちいち点検しているという。ものによっては切ったり、折ったり、さわったり、まいたりする。びん詰や罐詰になっている液体類のときには、さっさと蓋をあけて、相手の素手であろうと、タオル袋であろうと、お構いなしに、中身だけ注いでくれる。つまり、びんとか罐とかは渡してくれないのだ。なにか怖れているらしい。まんじゅうとか、珍しい菓子とか、あるいはまた、ソーセージや魚のくん製の場合は、先ず看守がお毒味をする。(それに文句でもいおうものなら――たちまち、これは禁制品だから、規則にてらして渡すことはできん、と高飛車にでる。小包を受けとった者は、この看守をはじめとして、あちらにもこちらにも、次々に何かやらなければならない。)いや、中身の検査が終っても、小包の箱はやっぱり渡してはくれない。中身はそれがなんであろうと、とにかく持参の袋へ、時にはジャケツの裾の中へでも移しかえなければならない。それがすめば、もう追っぱらわれて、お次の番となる。あまりせきたてられて、台の上に忘れ物をすることもある。しかし、取りに戻るのはくたびれもうけ。あったためしがない。
いつごろだったか、まだウスチ゠イジマにいたとき、シューホフは二度ばかり小包を受取ったことがある。しかし、彼は自分で女房に書いてやった。無駄になるから、送らんでくれ。その分、子どもにやってくれ。
たしかにシューホフはこのラーゲルで自分ひとりの身を養うよりも、自由の身で家族全員を養っていたときのほうが楽だった。しかし、そうした小包がいくらぐらいのものかも承知していたし、十年間も家から送ってもらうわけにいかないことも分っていた。それなら、いっそ全然貰わないほうが気が軽かった。
しかし、いったんそう決心したものの、班のだれかが、あるいはバラックの隣人たちが小包を受取るたびに(つまり、それはほとんど毎日のことだった)シューホフは自分にはもうこないのだと、胸をしめつけられる想いにかられた。そして、たとえ復活節でも送ってよこすなと、女房にきつく書きおくり、金持ちの班員のためでもなければ、掲示板のある柱にも決して近づいたことはなかったのに、それでも時どき彼は、なぜかこんな空想にかられるのだった。だれかが自分のところへ駈けつけてきて、こう教えてくれるのだ。
シューホフ! おい、なにをぐずぐずしてるんだ? 貴様に小包がきているぞ!
しかし、だれも駈けつけてきてはくれなかった……
もう今ではテムゲニョヴォ村や、わが家のことを想いだすよすがとなるものも益々少くなるばかりだった……起床から就寝までラーゲル暮しに追いまわされて、楽しい想い出に耽る暇もない。(pp. 191-195)
②江川卓訳
シューホフは、ブールの横を抜け、バラックの間を縫って、一路、小包引渡し所へ飛んだ。一方、ツェーザリは、品位を保って、ゆっくりと反対の方角へ向かう。そちらの柱のまわりは、すでに黒山の人だかり、柱の上にはベニヤ板が一枚打ちつけられ、その上にコピー鉛筆で、きょうの小包受領者の名前が書きだされている。
ラーゲルでは、ものを書くのに紙を使うことはあまりなく、たいていは、ベニヤ板に書く。板の上だと、なにか確実で、信用できそうな感じがするのだ。看守や作業割当て係も、頭割りの計算をするとき、この板を使う。あすのためには、またそれを消して使うこともできる。経済第一だ。
一日、構内に残っていた連中は、こんな内職かせぎもできる。小包がだれにきているかをベニヤ板で見ておき、中央通路のところで本人を迎えて、その場で番号を教えてやるのだ。たいした報酬は望めないが、巻きたばこの一本ぐらいにはありつける。
シューホフは小包引渡し所まで走っていった。バラックに小さな付属建物がついており、その建物にさらにポーチが張りだしている。そこが引渡し所だ。ポーチには外扉がはまっておらず、寒気が吹き抜けだった。それでも、屋根の下だけあって、外よりはいくらかましだ。
ポーチの壁に沿って、ずらりと行列ができていた。シューホフも列に並ぶ。前にいるのは十五人くらいだろうか、つま的り、一時間と少し、就寝時間ぎりぎりまでかかる勘定だ。テッツ作業隊で名簿を見に行ったものがあるとしても、シューホフのあとにつくことになる。機械工場組は、またそのあとだ。彼らは小包の受け取りに、あすの朝、二度足を踏まされることになりそうだ。
行列に立っている連中は、みな袋や衣囊をさげている。向こうのドアのかげでは(シューホフはこのラーゲルではだ一度も小包を受け取ったことはないが、話に聞いて知っている)、小包の箱を手斧でこじあけ、看守がひとつひとつ取りだして、点検している。切ったり、折ったり、探りまわしたり、あけてみたりするわけだ。ガラス壜やブリキ缶に入った液体類だと、栓を抜いて、中身だけを注いでよこす。受けるものがじかに掌であろうと、タオルの袋であろうと、おかまいなしだ。壜や缶の類はわたそうとしなかった。なにかを怖れているらしい。饅頭、変わった菓子、カルバサ、魚の燻製などは、看守がみずから毒味をやる(へたに文句でもつけようものなら、たちまち、『これは禁制品だな、規則にふれるものはわたすことあいならん』とくる。小包を受け取たものは、この看守を皮切りにつぎからつぎへと、みなにくれてやらねばならない)。こうして小包の検査が終わっても、小包の箱はやはりわたしてもらえない。一切合財、自分の袋へ、ないしは上っ張りの裾に移しかえなければならない。そこではじめて、『さっさと出ろ、つぎ!』ということになる。ときにはひどくせかされて、台の上になにやかや忘れてくるものもある。だが、取りに帰ってもむだだ。残っていたためしがない。
まだウスチ・イジマにいたころ、シューホフは二度ほど小包を受け取ったことがある。しかし彼は、自分から妻に書いてやった。むだになるだけだから、もう送るな。子供のものを取りあげることはない。
なるほどシューホフには、いまここで一人が食っていくより、娑婆にいた時分、家族全員を養っていたときのほうが、まだしも楽に思えるが、彼は、差し入れの小包がどれほどの値打ちにつくものか、よく承知していたし、どのみち十年間も、家族から差し入れをつづけさせるわけにはいかないと思っていた。それならいっそこないと決まったほうがましだ。
だが、そうは覚悟をきめたものの、班のだれかが、あるいは同じバラックの隣人たちが、小包を受け取るたび(つまり、ほとんど毎日ということだ)、自分にはこないと思って、彼の胸は痛んだ。パスハ(復活祭)にも送るなと、自分から妻に厳禁しているくせに、また、富裕な班員のためにでもないかぎり、名簿を書きだした柱のそばへは寄りつこうともしないくせに、なぜか彼は、時としてそらだのみに胸ふくらませる。だれか彼のもとに駆け寄ってきて、こう告げてくれるものはないだろうか。
「シューホフ! なにをぼやぼやしてるんだ! おまえに小包がきてるじゃないか!」
だが、駆け寄ってくるものは、だれもなかった……。
テムゲニョボ村や、自分の生家のことを思いだす機会も、しだいに少なくなる一方だった……起床から就寝まで、彼はここでの生活に振りまわされ、のんびりと思い出にふける余裕など、もう絶えてない。(pp. 836-838)
③小笠原豊樹訳
シューホフは走って「ブール」の脇を、バラックのそばを通りすぎ、小包受取り所へ行った。シーザーは、あわてず騒がず、悠然と、人だかりのしている柱の方へ歩きだした。その柱にはベニヤ板が打ちつけられ、その板にコピー用の鉛筆で差入れのあった者の名前が書き出されている。
収容所では紙に書くということは、滅多にない。たいていはベニヤ板に書く。ベニヤ板のほうが固くて、しっかりしている。看守や労務進行係が人数を計算するのにも、これを使う。翌日には、表面を削って、また書けるから、経済である。
外へ作業へ行かなかった連中は、ここでちょっとした内職をやる。つまり、ベニヤ板でだれに差入れが来たかを読むと、ここや中央通路でその人間を待ち伏せて、番号を教えてやるのである。これはたいした稼ぎにはならないが、タバコの一本ぐらいにはありつける。
シューホフは、小包受取り所に着いた。それはバラックに建て増しされた差掛け小屋で、その小屋にさらに外室がついている。外室にはドアがないので、寒気は自由に出入りするが、それでも屋根があるだけ、なんとなく屋内に入った感じにはなる。
外室では、壁ぎわに行列ができていた。シューホフも並んだ。前には十五、六人いる。とすると、一時間以上かかる。消燈までの時間がまるつぶれだ。しかし、発電所に行った囚人たちのなかで、差入れの掲示を見に行った者は、シューホフよりもうしろに並ばなければならない。機械製作工場の連中もおなじだ。その連中は、たぶん、あしたの朝、出直さなければなるまい。
行列に立っている者は、みんな袋や雑襄をさげていた。奥のドアのむこうでは(シューホフはこの収容所へ来てから一度も差入れを受けとったことがないのだが、人の話によれば)、差入れの小包みはすべて開封され、看守が中身をいちいちとりだして、あらためるのだそうである。だから中身は切られたり、折られたり、さわられたり、ちぎられたりで、無疵のものはあり得ない。もしもガラス壜やブリキ罐に入った液体があれば、栓をぬいて、中身だけ、ごぼごぼとあけてしまう。こちらは掌か袋で受けるよりほか仕方がない。何が心配なのか、容器は渡してくれないのである。饅頭や、菓子や、ソーセージや、燻製があれば、これは必ず看守に上前をはねられる(文句を言おうものなら、これは禁じられている品物だ、許されていない品目だとどやされて、全部とりあげられるのがオチである。要するに差入れを受けとった者は、看守から始まって、最後まで、別けて、別けて、また別けてというように運命づけられているのだ)。小包みの検閲が終わると、またもや小包みの箱はとりあげられっぱなしである。中身はぜんぶ持参の袋に入れるなり、上衣の裾でかかえるなりして、逃げるように帰って行く。すぐ次の囚人が呼ばれる。あまり急がされるので、カウンターに何か忘れてしまうこともあるが、取りに戻っても無駄だ。残っているはずがない。
ウスチ・イジマの収容所にいた頃、シューホフも二度ほど小包みを受けとったことがあった。だがシューホフは細君に手紙を書いた。どうせ無駄になるんだから、もう送らないでくれ、送る分があったら子供らにやってくれ。
もちろん、娑婆で家族を養うほうが、ここで自分一人を養うよりも、ずっと骨が折れなかった。それにしても、小包みがどれほどの経済的な負担になるか、シューホフはよく知っている。十年間も家族にそんな負担をかけつづけるわけにはいかない。だから、差入れは全然ないほうが気が楽なのだ。
だが、そう心に決めても、おなじ班のだれかが、あるいはバラックの近くの者が小包みを受けとるたびに(それはほとんど毎日のことだった)、その小包みが自分あてのものではないことを、シューホフは痛いほど感じないではいられなかった。そして細君には復活祭の差入れをすら固く禁じていたし、金持ちの班員の使いとして以外、差入れ名簿の書きこまれる柱には近寄ったこともないのに、シューホフはなぜか時たま空想にふけるのである。今にもだれかが駆けこんで来て、こうどなるのではないだろうか。
「シューホフ! どうして受けとりに行かないんだ。小包みが来てるぜ!」
しかし現実には、だれも駆けこんで来はしない……。
そして、チェムゲニョーボ村と、なつかしいわが家を思い出す機会は、ますます少なくなっていた。ここの生活は、起床から消燈まで、シューホフをきびしく締めつけて、下らぬ思い出にふけるひまを与えない。
④染谷茂訳
シューホフはブールのわき、バラックの間を抜けてさっと小包受領所へ。ツェーザリはもったいをつけて反対の方向へゆうゆう歩き出した。その方角の一本の柱のまわりはもうわいわいの人だかりだ。柱にはベニヤ板が一枚うちつけてあり、今日小包がわたされる者が全員それにマジック鉛筆で書かれている。
ラーゲリでは紙に書くことはすくなく、ベニヤ板に書くことが多い。どうもなんとなくそのほうが確かで頼りになる――板に書くほうが。看守も手配係も頭数を板で計算する。翌日削って、また書ける。節約になる。
構内に残っている奴はこんなサービスもする――誰に小包がきているか板に書いてあるのを読むと、整列道路まで出迎え、すぐその番号を知らせてやる。そうすれば、まあとにかくシガレットの一本ぐらいは貰える。
シューホフは小包受領所まで駆けていった――バラックに建て増しがしてあり、それに張り出しがもう一つついている。張り出しは外側のドアのない素通しだ。でも中へはいるとなんとなく人心地がする、とにかく屋根がある。
張り出しの中へはいってみると壁ぞいに列ができていた。シューホフも並んだ。前にいるのは十五人ぐらい。こりゃあ一時間以上かかる。ちょうど消灯までだ。発電所組で名簿を見にいってた者はシューホフのあとになる。機械工場組もみんなそうだ。連中はもしかしたらあしたの朝、駅もう一度小包受取りに出なおすことになるかも知れない。それぞれいろんな袋をもって並んでいる。ドアのむこうで(シューホフ自身はこのラーゲリで一度も受けとったことはなかったが、話にきくと)小包の箱が手斧でぶちこわされ、看守が勝手にすっかり中味を引き出して調べる。切ったり、割ったり、押えて揉んだり、ばらばら振り出したりする。なにかビン詰めか罐詰めかの液体だと、開けて注ぎ出す。素手で受けようが、タオルを袋がわりにしようが奴らの知ったことじゃない。ビンや罐はくれない。なにか恐がっているのだ。パイや甘い物でなにか珍しい物があったり、ソーセージや魚があると、看守はかみきってみる(法律がどうのこうのと文句をいおうちのなら、たちまち難くせつけられ、これも禁制、あれもだめとばかり、なんにも渡してくれはしない。小包を受けとる者は、看守を手はじめとして、ただもうもっぱらつかませなければならない)。小包の検査がおわっても、小包の箱はこれまた渡さない。自分の袋になにもかも入れろ、ブシラートの裾でもいい、いれたらとっとと失せろ、それ次の番、とくる。せきたてられて台の上になにか忘れる奴もでてくる。取りに戻ってもだめだ。ない、と言われるだけ。
まだウスチ・イージマにいた時分にシューホフは一、二回小包を受けとった。でも彼のほうから女房に書いてやった――からっぽになって来るから送るな、子供たちにやってくれ、と。
娑婆で家族を養うほうがここで自分一人を養うよりシューホフにはらくだったが、その差入れがどんなに苦労したものかシューホフにはわかっていたし、十年間家族から差入れをうけとっているわけにはいかないことも心得ていた。だから差入れなんかないほうがいい。
だが、そう決心はしたものの、班の誰かとかバラックの中の近くの誰かが小包を受けとると(つまり、ほとんど毎日ということだが)、自分に来たのでないのがどうにも淋しかった。イースターにだって送るなと女房にきつく書いてやり、小包名簿の柱へは、小包のくる同班の者のため以外には一度も見にいったことはなかった。とはいえ誰かが駆けてきて、
「シューホフ! お前どうして行かないんだ? 小包が来てるぞ!」と言ってくれるのを、どうしたわけか、ときには心待ちにしていた。
だが誰も駆けてきてはくれなかった……
チェムゲニョーヴォ村と生家を思い出す機会はこうしてますます少なくなっていた……ここの暮しは起床から消灯まで彼を痛めつけ、思い出に耽るひまなぞ残してはくれなかった。(pp. 151-153)