ひよこのるるの自由研究

日本語で読める世界の文学作品と、外国語に翻訳されている日本語の文学作品を、対訳で引用しています。日本語訳が複数あるものは、読みやすさ重視で比較しておすすめを紹介しています。世界中の言語で書かれたもの・訳されたもののコレクションを目指しています。

世界文学全集のためのメモ 22 『儒林外史』 呉敬梓

中国語編 7

吳敬梓(Wú Jìngzǐ)
呉敬梓(ご・けいし、ウー・ジンズー)
1701-1754

《儒林外史》
『儒林外史』
1750

日本語訳
稲田孝訳『儒林外史』1968年(平凡社『中国古典文学大系 第43巻』 📗

第十一回

  話說蘧公孫招贅魯府,見小姐十分美貌,已是醉心,還不知小姐又是個才女。且他這個才女,又比尋常的才女不同。魯編修因無公子,就把女兒當作兒子,五六歲上請先生開蒙,就讀的是《四書》、《五經》﹔十一二歲就講書、讀文章,先把一部王守溪的稿子讀的滾瓜爛熟。教他做「破題」、「破承」、「起講」、「題比」、「中比」成篇。送先生的束脩。那先生督課,同男子一樣。這小姐資性又高,記心又好﹔到此時,王、唐、瞿、薛,以及諸大家之文,歷科程墨,各省宗師考卷,肚裏記得三千餘篇﹔自己作出來的文章,又理真法老,花團錦簇。魯編修每常歎道:「假若是個兒子,幾十個進士、狀元都中來了!」閒居無事,便和女兒談說:「八股文章若做的好,隨你做甚麼東西,──要詩就詩,要賦就賦,──都是一鞭一條痕,一摑一掌血﹔若是八股文章欠講究,任你做出甚麼來,都是野狐禪,邪魔外道!」小姐聽了父親的教訓,曉粧臺畔,刺繡床前,擺滿了一部一部的文章﹔每日丹黃爛然,蠅頭細批。人家送來的詩詞歌賦,正眼兒也不看他。家裏雖有幾本甚麼《千家詩》,《解學土詩》,東坡小妹詩話之類,倒把與伴讀的侍女采蘋、雙紅們看﹔閒暇也教他謅幾句詩,以為笑話。此番招贅進蘧公孫來,門戶又相稱,才貌又相當,真個是「才子佳人,一雙兩好」﹔料想公孫舉業已成,不日就是個少年進士。但贅進門來十多日,香房裏滿架都是文章,公孫卻全不在意。小姐心裏道:「這些自然都是他爛熟于胸中的了。」又疑道:「他因新婚燕爾,正貪歡笑,還理論不到這事上。」又過了幾日,見公孫赴宴回房,袖裏籠了一本詩來燈下吟哦,也拉著小姐並坐同看。小姐此時還害羞,不好問他,只得強勉看了一個時辰,彼此睡下。到次日,小姐忍不住了,知道公孫坐在前邊書房裏,即取紅紙一條,寫下一行題目,是「身修而後家齊」,──叫采蘋過來,說道:「你去送與姑爺,說是老爺要請教一篇文字的。」公孫接了,付之一笑,回說道:「我於此事不甚在行。況到尊府未經滿月,要做兩件雅事﹔這樣俗事,還不耐煩做哩。」公孫心裏只道說,向才女說這樣話是極雅的了,不想正犯著忌諱。

  當晚,養娘走進房來看小姐,只見愁眉淚眼,長吁短歎。養娘道:「小姐,你纔恭喜,招贅了這樣好姑爺,有何心事,做出這等模樣?」小姐把日裏的事告訴了一遍,說道:「我只道他舉業已成,不日就是舉人、進士﹔誰想如此光景,豈不誤我終身!」養娘勸了一回。公孫進來,待他詞色就有些不善。公孫自知慚愧,彼此也不便明言。從此啾啾唧唧,小姐心裏納悶。但說到舉業上,公孫總不招攬。勸的緊了,反說小姐俗氣。小姐越發悶上加悶,整日眉頭不展。夫人知道,走來勸女兒道:「我兒,你不要恁般獃氣。我看新姑爺人物已是十分了﹔況你爹原愛他是個少年名士。」小姐道:「母親,自古及今,幾曾看見不會中進士的人可以叫做個名士的?」說著,越要惱怒起來。夫人和養娘道:「這個是你終身大事,不要如此。況且現放著兩家鼎盛,就算姑爺不中進士,做官,難道這一生還少了你用的?」小姐道:「『好男不喫分家飯,好女不穿嫁時衣。』依孩兒的意思,總是自掙的功名好,靠著祖父,只算做不成器!」夫人道:「就是如此,也只好慢慢勸他。這是急不得的。」養娘道:「當真姑爺不得中,你將來生出小公子來,自小依你的教訓,不要學他父親,家裏放著你恁個好先生,怕教不出個狀元來?就替你爭口氣。你這封誥是穩的。」說著,和夫人一齊笑起來。小姐歎了一口氣,也就罷了。落後魯編修聽見這些話,也出了兩個題請教公孫。公孫勉強成篇。編修公看了,都是些詩詞上的話,又有兩句像《離騷》,又有兩句「子書」,不是正經文字﹔因此,心裏也悶,說不出來。卻全虧夫人疼愛這女婿,如同心頭一塊肉。*1

 きよ公孫こうそん家に婿むこ入りして、さて相手の令嬢を見ると大変な美貌びぼうなので、心もとろける思いであったが、この娘が一個の才女であろうとは気がつかなかった。しかも、この才女たるや、尋常の才女の比ではなかったのだ。魯編修へんしゆうには息子がなく、そこで娘を男の子のように仕立てあげ、五、六歳の時に先生を招いて手習いをはじめ、学んだのが、四書五きよう、十一、二歳のころには書物を講じ、文章も読めるようになった。先生は、まずおう守渓しゆけいみん代の八股文の大家)の文章に徹底的に習熟させ、「破題」「破承」「起講」「題比」「中比」(八股文を作文する際の段落の名)の篇󠄀へんを作らせた。先生には高い謝礼をおさめた。先生の勉強のさせ方は男に対するのと変わらなかった。

 この娘は、もともと素質がすぐれていたし、また記憶力もよくて、これまでに、おうとうせつ(いずれも明代の八股文の大家)をはじめ名だたる大家の文章、その他模範八股文選集や各省の試験の答案など、三千余篇󠄀ほども腹の中に銘記しており、自分で作った文章も理にかない、よくれていて、目を奪うみごとさであった。魯編修は常に感嘆して、

「この子がもし男だったら、進士や状元じようげんにだって何十回も合格できたろうに!」

と言っていた。家でひまな時など、娘とこう話すのだった。

「八股文が上手じようずに作れれば、おまえが作るものは、詩なら詩、なら賦、すべて『一鞭ひとむちくれれば一条のあと、一打ち打てば一掌の血』だよ。だが八股文の研究が足りなければ、なにを作ろうと、みなでたらめな野狐やこぜん、邪魔外道げどうのたぐいだね!」

 娘は父親のこの教訓を聞いて、朝の化粧台のかたわらにも、ぬいとりされた美しい寝台の前にも、一冊また一冊と文章をみかさね、それに毎日朱色や黄色の点のように細かな字で、まばゆいほどに評語を書きこんだ。ひとから送ってきた詩や歌や賦などには一べつもくれない。家に「千家詩」とか「解学士詩」(通俗な詩集の名)とか、東坡とうば小妹しようまい(東坡の妹で才女であった)やの詩話といったたぐいもあるにはあったが、これは勉強のお相伴役の侍女じじよ采󠄁蘋さいひん双紅そうこうにくれてやり、ひまな時に、この女たちに詩をたわむれに作らせて笑い話の種にするくらいのものだった。

 今度蘧公孫を婿に迎えて、家柄はつりあっているし、才貌も匹敵しているし、まことに「才子佳人、似合いの好一対」であった。彼女は、このお婿さんはきっと学業も十分できあがっていて、いずれ近いうちに年少の進士になる人だと思っていた。ところが、婿入りして、もう十日以上もたつというのに、そして新妻の部屋には本棚にうずたかく本があるというのに、てんで見向きもしない。彼女はひそかに、

 ――もちろん、ここに書いてあることなんか、あの人はみんな胸にたたみこんでいらっしゃるのだわ。

 とも思い、時にはまた疑った。

 ――新婚の生活をお楽しみになりたい一方で、お気持がこちらに向かないのだわ。

 幾日かすぎて、蘧公孫がある宴会から帰ってきた時、そでにしまっていた一巻の詩をあかりの下で吟じだしたが、やがて新妻を引っぱり出してきて、横に坐らせ、それを見せた。新妻はその時まだ恥ずかしくて、問いただす勇気がなく、むりにがまんして、いっ時ほどそれを見て寝についたのだが、翌日になると、がまんができず、公孫が表の書房にいるのを認めると、あかい紙を一枚出して、「身を修め、しかるのち家ととのう」という一行の題目を書きしるし、采󠄁蘋を呼んで言った。「旦那だんな様にお渡ししてきておくれ、そして、文章を一篇󠄀どうぞお願いいたしますって申し上げるのよ」

 それを受け取った公孫は、一笑に付して、返事した。

「私はこちらのほうはあまり得手じゃない。まして、この家へ来てまだ一ヵ月もたっていないんだから、雅趣のあるのを少し作ってみるとしよう。こういう俗なやつはやりきれないものね!」  蘧公孫は、才女にこう持ちかけるのがきわめて風雅なやりかただとばかり思いこみ、これこそがまさに才女の禁忌きんきにふれるところだとは考えもしなかった。その夜、乳母うばが部屋にはいってみると、若奥様がうれわしげにまゆをよせ、涙をうかべて溜め息をついている。

「お嬢さま、およろこびはすんだばかり、お迎えになったお婿様はあんなよいかたですのに、なんの心配がおありになって、そんなご様子をしていらっしゃるのです!」

 彼女は昼間の出来事を話して聞かせ、そして言った。

「私は、科挙かきよの学業のほうはもうすっかりおできになっていて、日ならず挙人きよじん・進士におなりになるものとばかり思っていたのよ。それがこんなふうなんですもの、私の一生をだめにしてしまうわ!」

 乳母がなだめていると、公孫がはいって来た。新妻の自分をもてなす素振りがあまりよくない。公孫はわけを悟って恥じ入ったが、たがいにはっきり口に出すわけにもいかない。それからというもの、夫婦の仲はしめっぽく、新妻は心楽しまなかった。だが科挙に必要な学業のことを言い出せば、公孫はきまって相手にしない。あまり強くいうと、逆におまえは俗人だと言う。彼女はいよいよもだえ苦しみ、一日じゅう眉をひそめとおしだった。

 母親が知って、娘をなだめにやって来た。

「おまえ、それではあまりお馬鹿さんよ! 私はお婿さんをとても立派なかただと思いますよ。それに、もともとお父様が、若いのに名士だと見込まれたかたじゃないの」

 すると、

「お母様、昔から進士に合格できなかったひとで、名士とよばれたようなひとがありまして!」

 と言って、ますます癎癪かんしやくをたかぶらせた。母と乳母が、

「これはあなたの一生の大事、そんなことではいけません。まして、いまは魯家も蘧家も立派に栄えているのです。あなたの主人が進士に合格してお役人にならないからといって、あなたの一生がどれだけ損をするというのです!」

「『立派な男は受けついだ財産は食べぬもの、立派な女は嫁入りした時の服は着ないもの』ですわ。私の考えでは、自分でかちとった功名こそ立派なので、お祖父じい様にたよっているようでは、うつわを成さぬと思います」

「そんなふうにお考えなら、あせらずゆっくりおすすめするより仕方ありません。せいてはいけませんよ!」

 と母が言えば、乳母も、

「旦那様が進士がおだめなら、いずれお生まれになるお坊っちゃまをお嬢様の手で、お父様のまねをなさらぬよう、お仕付けになることですわ。家にはあなた様のように立派な先生がいらっしゃるんですもの、かならずや状元になられてお嬢様のために気を吐いてくださいます。そしてお嬢様は、ご名誉を当然おさずかりになりますわ!」

 と言って、魯夫人といっしょに笑った。若奥様のほうは溜め息をついただけであった。

 後にこの話を父の魯編修が聞いて、題を二つ与えて公孫に文章を作らせてみた。公孫は大いに勉強して作りあげたが、編修が見てみると、全篇󠄀が詩や歌の語調であり、また離騒りそう(戦国時代の憂国の詩人屈原くつげんが作った)くさいところがあるかと思うと、諸子しよし儒教じゆきよう以外の思想家)くさいところがあるといったぐあいで、な文章ではない。心中がっかりしたが、口には出さなかった。が、幸いなことに魯夫人はこの女婿じよせいをこよなく愛し、まるで自分の心や身体からだのようなかわいがりかたであった。(pp. 106-108)

第四十九回

高翰林同萬中書攜著手,悄悄的講話,直到亭子上去了。施御史同著秦中書,就隨便在石屏下閒坐。遲衡山同武正字,信步從竹子裏面走到芍藥欄邊。遲衡山對武書道:「園子到也還潔淨,只是少些樹木。」武正字道:「這是前人說過的:亭沼譬如爵位,時來則有之﹔樹木譬如名節,非素修弗能成。」

  說著,只見高翰林同萬中書從亭子裏走下來,說道:「去年在莊濯江家看見武先生的《紅芍藥》詩,如今又是開芍藥的時候了。」 當下主客六人,閒步了一回,從新到西廳上坐下。管家叫茶上點上一巡攢茶。遲衡山問萬中書道:「老先生貴省有個敝友,他是處州人,不知老先生可曾會過?」萬中書道:「處州最有名的,不過是馬純上先生﹔其餘在學的朋友也還認得幾個,但不知令友是誰?」遲衡山道:「正是這馬純上先生。」萬中書道:「馬二哥是我同盟的弟兄,怎麼不認得。他如今進京去了。他進了京,一定是就得手的。」武書忙問道:「他至今不曾中舉,他為甚麼進京?」萬中書道:「學道三年任滿,保題了他的優行。這一進京,倒是個功名的捷徑,所以曉得他就得手的。」施御史在旁道:「這些異路功名,弄來弄去,始終有限。有操守的,到底要從科甲出身。」遲衡山道:「上年他來敝地,小弟看他著實在舉業上講究的,不想這些年還是個秀才出身。可見這舉業二字,原是個無憑的。」高翰林道:「遲先生,你這話就差了。我朝二百年來,只有這一樁事是絲毫不走的。摩元得元,摩魁得魁。那馬純上講的舉業,只算得些門面話,其實,此中的奧妙,他全然不知。他就做三百年的秀才,考二百個案首,進了大場總是沒用的。」武正字道:「難道大場裏同學道是兩樣看法不成?」高翰林道:「怎麼不是兩樣!凡學道考得起的,是大場裏再也不會中的。所以小弟未曾僥倖之先,只一心去揣摩大場。學道那裏,時常考個三等也罷了!」萬中書道:「老先生的元作,敝省的人,個個都揣摩爛了。」高翰林道:「老先生,『揣摩』二字,就是這舉業的金針了。小弟鄉試的那三篇拙作,沒有一句話是杜撰,字字都是有來歷的。所以纔得僥倖。若是不知道揣摩,就是聖人也是不中的。那馬先生講了半生,講的都是些不中的舉業。他要曉得『揣摩』二字,如今也不知做到甚麼官了!」萬中書道:「老先生的話,真是後輩的津梁。但這馬二哥卻要算一位老學。小弟在楊州敝友家,見他著的《春秋》,倒也甚有條理。」高翰林道:「再也莫提起這話。敝處這裏有一位莊先生,他是朝廷徵召過的,而今在家閉門注《易》。前日有個朋友和他會席,聽見他說:『馬純上知進而不知退,直是一條小小的亢龍。』無論那馬先生不可比做亢龍,只把一個現活著的秀才拿來解聖人的經,這也就可笑之極了!」武正字道:「老先生,此話也不過是他偶然取笑。要說活著的人就引用不得,當初文王、周公,為甚麼就引用微子、箕子?後來孔子為甚麼就引用顏子?那時這些人也都是活的。」高翰林道:「足見先生博學。小弟專經是《毛詩》,不是《周易》,所以未曾考核得清。」武正字道:「提起《毛詩》兩字,越發可笑了。近來這些做舉業的,泥定了朱註,越講越不明白。四五年前,天長杜少卿先生纂了一部《詩說》,引了些漢儒的說話,朋友們就都當作新聞。可見學問兩個字,如今是不必講的了!」遲衡山道:「這都是一偏的話。依小弟看來:講學問的只講學問,不必問功名﹔講功名的只講功名,不必問學問。若是兩樣都要講,弄到後來,一樣也做不成!」

 高翰林は万中書と手を携えてひそひそ語り合いながら、小亭のほうへのぼって行き、施御史は秦中書といっしょにのんびり石の屛風の下に腰掛け、遅衛山と武書とは足にまかせて竹林を抜け、芍󠄁薬畑の欄杆のあたりまで歩いて行った。遅衡山が、

「この庭はなかなか綺麗ぎれいにできているが、ただすこし樹木が足りないな」

「つまり昔の人が言っている、『亭や沼は爵位と同じで時が来ればすぐできるが、樹木は名節と同じにふだんから心がけていなければできない』というやつですね」

 そんなことを話し合っていると、高翰林と万中書とが亭の中からおりて来て、

「昨年はそう濯󠄁江たくこう君の家で武君の『紅芍󠄁薬の詩』を拝見させていただいたが、今年もまた芍󠄁薬の花の開く季節になりましたな」

 と言っている。

 こうして主客六人はしばらくぶらついてから、また西の間に行って腰をおろした。普通の茶がすんだあとで、召使にさん茶(くるみ・松の実・くわいなどを細かく砕いたものをいれた特別の茶)を出させた。遅衡山が万中書にたずねた。

「あなたの省に友人がひとりおります。しよ州の人ですが、もしやお会いになったことがおありではありませんか?」

「処州でいちばん有名なのは、まず純上じゆんじよう君でしょう。ほかにも同学の友人を幾人か知ってはいますが、あなたのご友人というのは誰でしょうか?」と万中書。

「まさしくその馬純上君です」

「馬君ならわたしの盟友ですから、むろんよく知っています。いま都に行っています。今度の上京で、きっとうまくゆくことでしょう」

 武書がせっかちに問いかけた。

「あのひとはまだ郷試に合格していないはず、なにしに都へ行ったのでしょう?」

「学道が三年の任期を満了したときに、品行優秀なる者として推挙したのです。だから、こんどの上京は出世の早道のわけで、私が、きっとうまくゆく、と申し上げたのもそのためなんです」と万中書。

 横合いから施御史が口を出した。

「そうした横道からの出世のしかたは、どうやってみたところで、結局たかが知れています。持するところある者は、やはり科挙の出身を望むものです」

 すると遅衡山が、

「昨年あのひとがここにやってきたとき、実によく科挙の学問をやっているひとだと見たのです。いまだに秀才でいるとは思えませんでした。つまり、科挙の学問などはあてにならぬということですな!」

 高翰林が、

「遅君、きみの考えは間違っていますよ。本朝は二百年来ただこの一事については、いささかの逸脱もなく、首席優等たるべき者はちゃんと首席優等をかちとってきているのです。あの馬純上のやっている学問なぞは、ただうわつらばかりで、実際は、その精髄を全然わきまえておらんのです。あのひとなど、たとえ三百年も秀才で暮らし、秀才の試験で二百回首席であったとしても、いざ本番の郷試となれば、てんでろくでなしなんです」

 武書が、

「まさか郷試の試験官と学道とで、観点が違うということもないでしょう」

 高翰林「それが大違い! だいたい学道が高く評価したような秀才に、郷試で成功したものはありません。だから私など合格する前には、一心に郷試だけを目あてに勉強したもので、学道はそのころいつも、私を第三等にしか認めてくれなかったものです」

 万中書「あなたの首席合格の時の作文は、わたしたちの省の連中が、みなお手本にしていますよ」

 高翰林「きみ、その『手本』にのっとる、ということが、科挙の学問の秘訣なのですよ。あの郷試の時の三篇󠄀の拙作せつさくには、一句だって杜撰󠄀ずさんに書いたものはない。一字一字に皆よりどころがあるんです。だからこそ合格できたのです。『手本』にのっとることを知らなければ、聖人だって科挙には合格できません。あの馬君などは、半生を受験勉強にうちこみ、その勉強が、すべて合格できない受験勉強だったのです。あの人が、もし『手本』の二字を知っていたなら、いまごろどんな大官になっているかわかりゃしませんよ」

 万中書「あなたのお話は、まったく後輩の者のよい手引きです。しかし、あの馬純上はやはりりっぱな学者だといえますな。私は揚州の友人の家で、あのひとの書いた『春秋』の研究を読みましたが、なかなか筋の通ったものでした」

 高翰林「その話はもう言いたもうな。この南京なんきんにおられるそう紹光しょうこう君はね、前に朝廷からお召しがあったほどの賢士だが、いまは家にとじこもって『易経えききよう』の注を書いておられる。このあいだある友人が、紹光君と同席したときに、『馬純上は進むことを知って退くことを知らぬ点で、いわばちっぽけな亢竜こうりゆう(高所にのぼりつめた竜、えき乾卦けんかの語)だ』と紹光君が批評していたそうです。もちろん馬純上を亢竜になぞらえるのは変だし、それに現存の一秀才を引合いに出して聖人の経書を解釈するというのが、そもそも滑𥡴こつけいきわまる話ですがね」

 武書「高先生、その話は荘君がちょっと冗談に言っただけのことです。しかし、生きている人を引合いに出してはならぬということになると、むかししゆうぶん王や周公はなぜ微子びし箕子きしを引合いに出したのでしょう! もう少し下って、孔子こうしは、なぜ顔淵がんえんを引合いに出したのでしょう! 当時、この人たちはみな生きていたんですからね」

 高翰林「あなたの博学には敬服します。わたしの専門の経学は『詩経しきよう』で、『周易しゆうえき』じゃないものだから、そこまではっきりは考え及びませんでした」

 武書「『詩経』といえば、もっとおかしな話があります。近ごろの科挙の学問をしている人たちは、朱子しゆしの注にしばられてしまって、ですから、やればやるほどわからなくなるのです。四、五年前に、少卿しようけい君が『詩説』という本をお書きになったとき、漢儒かんじゆの説をいくつか引用したところ、友人たちはみな初耳だと言ったそうです。『学問』というものが、今ではもう問題にされていないことを見せつけられたようなものです」

 すると遅衡山が、「みな様のお話はいずれも一面的にすぎます。私に言わせれば、学問をするものは学問だけして、必ずしも出世は問題にせず、出世をしたいものは出世だけを考えて、学問を論じない。もし両方ともやろうとなると、やがては結局どっちもだめ、ということになるんです」(pp. 431-433)

*1:引用は Wikisource による。