ひよこのるるの自由研究

日本語で読める世界の文学作品と、外国語に翻訳されている日本語の文学作品を、対訳で引用しています。日本語訳が複数あるものは、読みやすさ重視で比較しておすすめを紹介しています。世界中の言語で書かれたもの・訳されたもののコレクションを目指しています。

世界文学全集のためのメモ 21 『吶喊』 魯迅

中国語編 6

魯迅(Lǔ Xùn)
魯迅(ろ・じん、ルー・シュン)
1881-1936

《吶喊》
吶喊とっかん
1923

日本語訳
①井上紅梅訳『吶喊』1932年(青空文庫、2004-2009年)
竹内好訳『阿Q正伝狂人日記 他十二篇(吶喊)』1952/1976年(岩波文庫、1981年 📗
高橋和巳訳『吶喊』1967年(中公文庫、1973年 📗
駒田信二訳『阿Q正伝・藤野先生』1974年(講談社文芸文庫、1998年 📗 pp. 7-154) ※『吶喊』からは8編収録
⑤松枝茂夫・和田武司訳『吶喊』1975年(『豪華版 世界文学全集 35 魯迅講談社、1976年 📗 pp. 7-134)
⑥丸山昇訳『吶喊』1984年(『魯迅全集 2』学習研究社 📗 pp. 7-189)
藤井省三訳『故郷/阿Q正伝』2009年(光文社古典新訳文庫 📗 pp. 17-172, 249-291) ※『吶喊』からは10編収録

⑥丸山昇訳と⑤松枝茂夫・和田武司訳が、個人的に好きな日本語だ。⑥丸山昇訳は特に読みやすいし、注釈も充実しているが、入手しにくいかもしれない。⑤松枝茂夫・和田武司訳は、たまに言葉の選択に引っかかりを感じたが、全体的には非常に好印象。文庫で読みたいなら、全訳ではないが④駒田信二訳を薦めたい。最新の⑦藤井省三訳は異色の翻訳。二葉亭四迷式に、原則として原文の一文を一文で訳しているらしい。既訳が明快すぎることを批判する立場による翻訳ということだが、個人的には単純に読みにくいと感じてしまった。

自序

 

  我在年青時候也曾經做過許多夢,後來大半忘卻了,但自己也並不以爲可惜。所謂回憶者,雖說可以使人歡欣,有時也不免使人寂寞,使精神的絲縷還牽著已逝的寂寞的時光,又有什麼意味呢,而我偏苦于不能全忘卻,這不能全忘的一部分,到現在便成了《吶喊》的來由。

  我有四年多,曾經常常,——幾乎是每天,出入于質鋪和藥店裏,年紀可是忘卻了,總之是藥店的櫃臺正和我一樣高,質鋪的是比我高一倍,我從一倍高的櫃臺外送上衣服或首飾去,在侮蔑裡接了錢,再到一樣高的櫃臺上給我久病的父親去買藥。回家之後,又須忙別的事了,因爲開方的醫生是最有名的,以此所用的藥引也奇特:冬天的蘆根,經霜三年的甘蔗,蟋蟀要原對的,結子的平地木,……多不是容易辦到的東西。然而我的父親終于日重一日的亡故了。

  有誰從小康人家而墜入困頓的麼,我以爲在這途路中,大概可以看見世人的真面目;我要到N進K學堂去了,仿佛是想走異路,逃異地,去尋求別樣的人們。我的母親沒有法,辦了八元的川資,說是由我的自便;然而伊哭了,這正是情理中的事,因爲那時讀書應試是正路,所謂學洋務,社會上便以爲是一種走投無路的人,只得將靈魂賣給鬼子,要加倍的奚落而且排斥的,而況伊又看不見自己的兒子了。然而我也顧不得這些事,終于到N去進了K學堂了,在這學堂裏,我纔知道世上還有所謂格致,算學,地理,歷史,繪圖和體操。生理學並不教,但我們卻看到些木版的《全體新論》和《化學衛生論》之類了。我還記得先前的醫生的議論和方藥,和現在所知道的比較起來,便漸漸的悟得中醫不過是一種有意的或無意的騙子,同時又很起了對于被騙的病人和他的家族的同情;而且從譯出的歷史上,又知道了日本維新是大半發端于西方醫學的事實。

  因爲這些幼稚的知識,後來便使我的學籍列在日本一個鄉間的醫學專門學校裏了。我的夢很美滿,預備卒業回來,救治像我父親似的被誤的病人的疾苦,戰爭時候便去當軍醫,一面又促進了國人對于維新的信仰。我已不知道教授微生物學的方法,現在又有了怎樣的進步了,總之那時是用了電影,來顯示微生物的形狀的,因此有時講義的一段落已完,而時間還沒有到,教師便映些風景或時事的畫片給學生看,以用去這多餘的光陰。其時正當日俄戰爭的時候,關于戰事的畫片自然也就比較的多了,我在這一個講堂中,便須常常隨喜我那同學們的拍手和喝采。有一回,我竟在畫片上忽然會見我久違的許多中國人了,一個綁在中間,許多站在左右,一樣是強壯的體格,而顯出麻木的神情。據解說,則綁著的是替俄國做了軍事上的偵探,正要被日軍砍下頭顱來示衆,而圍著的便是來賞鑑這示衆的盛舉的人們。

  這一學年沒有完畢,我已經到了東京了,因爲從那一回以後,我便覺得醫學並非一件緊要事,凡是愚弱的國民,卽使體格如何健全,如何茁壯,也只能做毫無意義的示衆的材料和看客,病死多少是不必以爲不幸的。所以我們的第一要著,是在改變他們的精神,而善于改變精神的是,我那時以爲當然要推文藝,于是想提倡文藝運動了。在東京的留學生很有學法政理化以至警察工業的,但沒有人治文學和美術;可是在冷淡的空氣中,也幸而尋到幾個同志了,此外又邀集了必須的幾個人,商量之後,第一步當然是出雜誌,名目是取“新的生命”的意思,因爲我們那時大抵帶些復古的傾向,所以只謂之《新生》。

  《新生》的出版之期接近了,但最先就隱去了若干擔當文字的人,接着又逃走了資本,結果只剩下不名一錢的三個人。創始時候旣已背時,失敗時候當然無可吿語,而其後卻連這三個人也都爲各自的運命所驅策,不能在一處縱談將來的好夢了,這就是我們的並未產生的《新生》的結局。

  我感到未嘗經驗的無聊,是自此以後的事。我當初是不知其所以然的;後來想,凡有一人的主張,得了贊和,是促其前進的,得了反對,是促其奮鬭的,獨有叫喊于生人中,而生人並無反應,既非贊同,也無反對,如置身毫無邊際的荒原,無可措手的了,這是怎樣的悲哀呵,我于是以我所感到者爲寂寞。

  這寂寞又一天一天的長大起來,如大毒蛇,纏住了我的靈魂了。

  然而我雖然自有無端的悲哀,卻也並不憤懣,因爲這經驗使我反省,看見自己了:就是我決不是一個振臂一呼應者雲集的英雄。

  只是我自己的寂寞是不可不驅除的,因爲這于我太痛苦。我于是用了種種法,來麻醉自己的靈魂,使我沈入于國民中,使我回到古代去,後來也親歷或旁觀過幾樣更寂寞更悲哀的事,都爲我所不願追懷,甘心使他們和我的腦一同消滅在泥土裏的,但我的麻醉法卻也似乎已經奏了功,再沒有青年時候的慷慨激昂的意思了。

  

  S會館裏有三間屋,相傳是往昔曾在院子裏的槐樹上縊死過一個女人的,現在槐樹已經高不可攀了,而這屋還沒有人住;許多年,我便寓在這屋裏鈔古碑。客中少有人來,古碑中也遇不到什麼問題和主義,而我的生命卻居然暗暗的消去了,這也就是我惟一的願望。夏夜,蚊子多了,便搖著蒲扇坐在槐樹下,從密葉縫裡看那一點一點的青天,晚出的槐蠶又每每冰冷的落在頭頸上。

  那時偶或來談的是一個老朋友金心異,將手提的大皮夾放在破桌上,脫下長衫,對面坐下了,因爲怕狗,似乎心房還在怦怦的跳動。

  “你鈔了這些有什麼用?”有一夜,他翻著我那古碑的鈔本,發了研究的質問了。

  “沒有什麼用。”

  “那麼,你鈔他是什麼意思呢?”

  “沒有什麼意思。”

  “我想,你可以做點文章……”

  我懂得他的意思了,他們正辦《新青年》,然而那時仿佛不特沒有人來贊同,並且也還沒有人來反對,我想,他們許是感到寂寞了,但是說:

  “假如一間鐵屋子,是絕無窗戶而萬難破毀的,裏面有許多熟睡的人們,不久都要悶死了,然而是從昏睡入死滅,並不感到就死的悲哀。現在你大嚷起來,驚起了較爲清醒的幾個人,使這不幸的少數者來受無可挽救的臨終的苦楚,你倒以爲對得起他們麼?”

  “然而幾個人旣然起來,你不能說決沒有毀壞這鐵屋的希望。”

  是的,我雖然自有我的確信,然而說到希望,卻是不能抹殺的,因爲希望是在于將來,決不能以我之必無的證明,來折服了他之所謂可有,于是我終于答應他也做文章了,這便是最初的一篇《狂人日記》。從此以後,便一發而不可收,每寫些小說模樣的文章,以敷衍朋友們的囑托,積久就有了十餘篇。

  在我自己,本以爲現在是已經並非一個切迫而不能已于言的人了,但或者也還未能忘懷于當日自己的寂寞的悲哀罷,所以有時候仍不免吶喊幾聲,聊以慰藉那在寂寞裏奔馳的猛士,使他不憚于前驅。至于我的喊聲是勇猛或是悲哀,是可憎或是可笑,那倒是不暇顧及的;但旣然是吶喊,則當然須聽將令的了,所以我往往不恤用了曲筆,在《藥》的瑜兒的墳上平空添上一個花環,在《明天》裏也不敍單四嫂子竟沒有做到看見兒子的夢,因爲那時的主將是不主張消極的。至于自己,卻也並不願將自以爲苦的寂寞,再來傳染給也如我那年青時候似的正做著好夢的青年。

  這樣說來,我的小說和藝術的距離之遠,也就可想而知了,然而到今日還能蒙着小說的名,甚而至于且有成集的機會,無論如何總不能不說是一件徼幸的事,但徼幸雖使我不安于心,而懸揣人間暫時還有讀者,則究竟也仍然是高興的。

  所以我竟將我的短篇小說結集起來,而且付印了,又因爲上面所說的緣由,便稱之爲《吶喊》。

一九二二年十二月三日,魯迅記于北京。*1

①井上紅梅訳

 

原序

 

 わたしは年若い頃、いろいろの夢を作って来たが、あとではあらかた忘れてしまい惜しいとも思わなかった。いわゆる囘憶おもいでというものは人を喜ばせるものだが、時にまた、人をして寂寞せきばくたらしむるを免れないもので、精神たましい縷糸いとすでに逝ける淋しき時世になお引かれているのはどういうわけか。わたしはまるきり忘れることの出来ないのが苦しい。このまるきり忘れることの出来ない一部分が今、「吶喊」となって現われた来由わけである。

 わたしは、四年あまり、いつもいつも――ほとんど毎日、質屋と薬屋の間を往復した。年齢としごろは忘れたが、つまり薬屋の櫃台デスクがわたしの脊長せたけと同じ高さで、質屋のそれは、ほとんど倍増しの高さであった。わたしは一倍も高い櫃台デスクの外から著物きものかんざしを差出し、侮蔑さげすみの中に銭を受取り、今度は脊長けと同じ櫃台デスクの前へ行って、長わずらいの父のために薬を買った。処方を出した医者はいとも名高き先生で、所用の薬は奇妙キテレツのものであったから、家へ帰ると、またほかのことで急がしかった。寒中の蘆の根、三年の霜を経た甘庶、つがい離れぬ一対の蟋蟀きりぎりす、実を結んだ平地の木……多くはなかなか手に入れ難いもので、それでもいいが、父の病は日一日と重くなり、遂に甲斐なく死亡した。

 誰でも痩世帯やせじょたいの中に育った者は、全く、困り切ってしまうことはあるまい。わたしは思う。この道筋に在る者は大概他人ひと真面目じがねを見出すことが出来る。わたしはN地に行ってK学校に入るつもりだ。とにかく変った道筋に出て、変った方面にのがれ、縁もゆかりもない人に手頼たよろうと思う。母親はわたしのために八円の旅費を作って、お前の好きにしなさいと言ったが、さすがに泣いた。これは全く情理中の事である。というのは、当時は読書して科挙の試験に応じるのが正しい道筋で、いわゆる洋学を学ぶ者は、路なき道に入る人で、霊魂を幽霊に売渡し、人一倍も疎んぜられ排斥されると思ったからである。まして彼女は自分の倅に逢うことも出来なくなるのだ。しかしわたしはそんなことを顧慮していられる場合でないから、遂にN地に行ってK学堂に入った。この学校に来てからわたしは初めて世の中に別に物理、数学、地理、歴史、図画、体操などがあることを知った。生理学は教えられなかったが、木版刷の全体新論や科学衛生論というようなものを見て、前の漢方医の議論や処方を想い出し、比較してみると、支那医者は有意無意の差こそはあれ、皆一種の騙者かたりであることがわかった。同時にだまされた病人と彼の家族に対し、盛んなる同情を喚び起し、また飜訳書に依って日本の維新が西洋医学に端を発したことさえも知った。

 この何ほどかの幼稚な知識に因って、わたしの学籍は、後々日本のある田舎の医学専門学校に置かれることになった。わたしの夢ははなはだまどかであった。卒業したら国へ帰って、父のように誤診された病人の苦しみを救い、戦争の時には軍医となり、一方には国人の維新に対する信仰を促進すべく準備した。微生物の教授法は現在どれほど進歩したかしらんが、つまりその時は映画を用いて微生物の形状をうつし出し、それに拠って講義をするのであるが、時に一段落を告げ、時間がなおありあまる時には、風景画や時事の写真を挿込んで学生に見せた。ちょうど日露戦争の頃でもあるから、自然戦争に関する画面が多かった。わたしは講堂の中で、同窓の学生が拍手喝采するのに引ずられて、いつも喜んで見ていた。ところが一度画面の上に久し振りでたくさんの中国人に出逢った。一人は真中に縛られ、大勢の者が左右に立っていた。いずれもガッチリした体格ではあるが、気の抜けたような顔をしていた。解説に拠ると、縛られているのは、露西亜ロシアのために軍事探偵を働き、日本軍にとらわれ、ちょうど今、首を切られて示衆みせしめとなるところである。囲んでいるのは、その示衆みせしめ盛挙せいきょ賞鑑しょうかんする人達である。

 この学年が済まぬうちにわたしはもう東京へ来てしまった。あのことがあってから、医学は決して重要なものでないと悟った。およそ愚劣な国民は体格がいかに健全であっても、いかに屈強であっても、全く無意義の見世物の材料になるか、あるいはその観客になるだけのことである。病死の多少は不幸と極まりきったものではない。だからわたしどもの第一要件は、彼等の精神を改変するにあるので、しかもいい方に改変するのだ。わたしはその時当然文芸を推した。そこで文芸運動の提唱を計り、東京の留学生を見ると多くは法政、理化を学び、警察、工業に渡る者さえ少くないが、文芸、美術を学ぶ者ははなはだ少い。この冷やかな空気のうちに、幸い幾人かの同志を捜し出し、その他必要の幾人かを駆り集め、相談の後第一歩として当然雑誌を出すことにした。表題は「新しき生命」という意味を採った。われわれは当時大抵復古の傾向を帯びていたから、これを「新生」といったわけである。

「新生」出版の期日が近づいた時、最初に隠れたのは原稿担当者、続いて逃げたのは資本であった。結果は一銭の値打ちもない三人だけが残った。創始の時がすでに時勢に背いたので、失敗の時は話にもならない、しかも三人はその後各自の運命に駆逐され、一緒になって将来のき夢を十分に語ることさえ出来ない。これがすなわちわたしどもの生産せざる「新生」の結末であった。

 わたしがかつて経験したことのない退屈を感じたのは、それから先きのことである。初めはそのわけが解らなかったが後になって思うと、すべて一人の主張は、賛成を得れば前進を促し、反対を得れば奮闘を促す、ところがここ生人せいじんうちに叫んで生人の反響なく、賛成もなければ反対もないときまってみれば、身を無際限の荒原に置くが如く手出しのしようがない。これこそどのような悲哀であろうか、わたしがそこに感じたのは寂寞である。

 この寂寞は一日々々と長大して大毒蛇のように遂にわたしの霊魂に絡みついた。

 そうして自ら取止めのない悲哀を持ちながらムカ腹を立てずにいた。経験は反省を引起し、自分をよく見なおした。すなわち自分は、腕を振って一度ひとたび叫べば応える者が雲の如く集る英雄ではないと知った。

 さはいえわたしは自分の寂寞を駆除しなければならない。それは自分としてはあまりに苦しい。そこで種々いろいろ方法を考え、自分の霊魂たましいを麻酔し去り、我をして国民のうちに沈入せしめ、我をして古代の方へ返らしめた。その後も更に淋しいことや更に悲しいことがいろいろあったが、みなわたしの想い出したくないことばかりで、出来るなら自分の脳髄と一緒に泥の中に埋没してしまいたいことばかりであった。ではあるが、わたしの麻酔法はこの時すでに功を奏して、もはや再び若き日の慷慨激越こうがいげきえつがなくなった。

 

 S会館の内に三間みまの部屋がある。言い伝えに拠ると、そのむかし中庭の槐樹えんじゅの上に首を縊って死んだ女が一人あった。現在槐樹は高くなって攀じのぼることも出来ないが、部屋には人の移り住む者がない。長い間、わたしはこの部屋の中に住んで古碑を書き写していた。滞在中尋ねて来る人も稀れで、古碑の中にはいかなる問題にもいかなる主義にもぶつかることはない。わたしの命はたしかにやみの中に消え去りそうだったが、これこそわたしの唯一のねがいだ。夏の夜は蚊が多かった。蒲団扇かばうちわを動かして槐樹の下に坐り、茂り葉の隙間から、あの一つ一つの青空を見ていると、晩手おくて槐蚕やままゆがいつもひいやりの頸首えりくびの上に落ちる。その時たまたま話しに来た人は、昔馴染の金心異きんしんいという人で、手に提げた折鞄おりかばんを破れ机の上に置き、長衫ながぎを脱ぎ捨て、わたしの真前まんまえに坐した。犬を恐れるせいでもあろう。心臓がまだおどっている。

「あなたはこんなものを写して何にするんです」

 ある晩彼はわたしの古碑の鈔本しょうほんをめくって見て、研究的の質問を発した。

「何にするんでもない」

「そんならこれを写すのはどういうかんがえですな」

「どういう考もない」

「あなたは少し文章を作ってみる気になりませんか」

 わたしは彼の心持がよくわかった。彼等はちょうど「新青年」を経営していたのだが、その時賛成してくれる人もなければ、反対してくれる人もないらしい。思うに彼等は寂寞を感じているのかもしれない。

「たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」

 と、わたしはただこう言ってみた。すると彼は

「そうして幾人は已に起き上った。君が著手ちゃくしゅしなければ、この鉄部屋の希望を壊したといわれても仕方がない」

 そうだ。わたしにはわたしだけの確信がある。けれど希望を説く段になると、彼を塗りつぶすことは出来ない、というのは希望は将来にあるもので、決してわたしの「必ず無い」の証明をもって、彼のいわゆる「あるだろう」を征服することは出来ない。そこでわたしは彼に応じて、遂に文章を作った。それがすなわち最初の一篇「狂人日記」である。一度出してみると引込んでいることが出来なくなり、それから先きは友達のたのみに応じていつも小説のような文章を書き、積り積って十余篇に及んだ。

 わたし自身としては今はもう、痛切に言の必要を感じるわけでもないが、やはりまだあの頃の寂寞の悲哀を忘れることが出来ないのだろう、だから時としてはなお幾声か吶喊とっかんの声を上げて、あの寂寞の中にけ廻る猛士を慰め、彼等をして思いのままに前進せしめたい。わたしの喊声は勇猛であり、悲哀であり、いやなところも可笑しいところもあるだろうが、そんなことをいちいち考えている暇はない。しかしまた吶喊とめた上は、大将の命令を聴くのが当然だから、わたしは往々曲筆をめぐんでやらぬことがある。「薬」の瑜兒ゆじの墳墓の上にわけもなく花環を添えてみたり、また「明日みょうにち」の中では、単四嫂子たんしそうしは終に子供の夢を見なかったという工合には書かなかった。それは時の主将が消極を主張しなかったからである。自分としてはただ、自分の若い時と同じく現在楽しい夢を作る青年達に、あの寂寞の苦しみを伝染させたくないのだ。

 こんな風に説明すると、芸術に対するわたしのこの小説の距離の遠さがよくわかる。そうして今もなお小説という名前を頂戴し、いっそ有難いことには集成の機会さえある。これはどうあっても福の神が舞い込んだといわなければならぬ。福の神が舞い込んだことは自分にははなはだ気遣いだが、しかし短い人生に読者があるということは、結局愉快なことである。だからわたしは遂に自分の短篇を掻き集めて印刷に附し、上述の次第で「吶喊」となづけた。

  一九二二年十二月三日北京において魯迅しるす

竹内好

 

自序

 

 私も若いころは、たくさん夢を見たものである。あとではあらかた忘れてしまったが、自分でも惜しいとは思わない。思い出というものは、人を楽しませるものではあるが、時には人を寂しがらせないでもない。精神の糸に、過ぎ去った寂莫の時をつないでおいたとて、何になろう。私としてはむしろ、それが完全に忘れられないのが苦しいのである。その忘れられない一部分が、いまとなって『吶喊』となった、というわけである。

 私は、かつて四年あまりの間、しょっちゅう――ほとんど毎日、質屋と薬屋にかよいつめた。年齢は忘れてしまったが、ともかく薬屋のカウンターが私の背丈ほどあり、質屋のそれは背丈の倍ほどあった。私は、背丈の倍ほどあるカウンターの外から、着物や髪かざりなどをさし出し、さげすまれながら金を受取り、それから背丈ほどのカウンターへ行って、長わずらいの父のために薬を買った。家に帰れば帰るで、また仕事が山ほどあった。かかりつけの医者が名医の評判高い人なので、その処方では添加物も奇妙なものばかり――冬に取れた蘆の根、三年霜にあたった砂糖きび、つがいのコーロギ、実のついた平地ピンテイームー……容易なことでは手に入らぬ品物ばかりである。それほどにしても父は、病が日ましに重くなり、とうとう死んでしまった。

 ある程度楽な暮らしをしていた人が、急にどん底生活におちたとすれば、きっとその間に世のいつわらぬ姿が見えるだろうと私は思う。私がNへ行ってK学堂にはいるつもりになったのも、たぶん人とちがった道をえらび、ちがった場所でちがった人と交りたかったせいであろう。母は、しょうことなしに八円の旅費を工面してくれて、すきなようにせよと言った。しかし母は泣いた。これは無理なかった。なぜなら、そのころは古典の勉強をして国家試験を受けるのが、正当なコースであり、洋学などやるのは、世間の眼からすると、行き場所のなくなった人間がついに魂を毛唐に売り渡したものと見られて、それだけよけいにはずかしめられ、いやしめられるからであり、そればかりでなく母は、自分の息子に会えなくなるからであった。だが私は、そんなことに構っていられずに、とうとうNへ行ってK学堂に入学した。この学校で私ははじめて、世に物理や、数学や、地理や、歴史や、図画や、体操などの学問があることを知った。生理学は習わなかったが、私たちは木版本の『全体新論』や『化学衛生論』などを手にすることができた。そしてその知識でこれまでの医者の言ったことや処方のやり方を考えてみて、私は、漢方医というものは意識するとしないとにかかわらず一種のかたりに過ぎない、と次第にさとるようになった。そして騙られた病人と、その家族に深く同情した。また翻訳された歴史書によって、日本の維新がかなりの部分、西洋医学に端を発している事実をも知ったのである。

 これらの幼稚な知識のお蔭で、のちに私の学籍は、日本の地方の医学専門学校に置かれることになった。私は甘い夢をみていた。卒業して国に帰ったら、父と同様のあしらいを受けて苦しんでいる病人を救い、戦争のときは軍医になり、かたわら、国民の維新への信念を高めようと考えた。いま微生物学を教える方法がどんな進歩をとげたか、私はまったく知らないが、そのころはスライドを使って、微生物の形態を映してみせた。そこで、講義が一段落してまだ時間があると、教師は風景やニュースを映して学生に見せて、時間の穴をうめたものだ。ちょうど日露戦争の最中とて、当然のことながら、戦争関係のスライドがわりに多かった。その度に私は、この教室で、同級生たちの拍手と喝󠄁采󠄁とに自分も調子を合わせるほかなかった。あるとき私は、思いがけずスライドでたくさんの中国人と絶えて久しい面会をした。まん中に手をしばられた男、それをとり囲んでおおぜいの男、どれも体格はいいが、無表情である。解説では、しばられているのはロシア軍のスパイを働き、見せしめに日本軍の手で首を斬られるところ、とり囲んでいるのは、その見せしめの祭典を見に来た連中であった。

 その学年がおわる前に、私は東京にもどっていた。あのことがあって以来、私は、医学などは肝要でない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人になるだけだ。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果すべき任務は、かれらの精神を改造することだ。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動をおこす気になった。東京にいる留学生仲間は、法律政治、物理化学、さては警察や工学をやる連中ばかりで、文学や美術をやるものはいなかった。それでもどうやら、冷淡な空気のなかで、数人の同志を見つけることはできた。ほかに数人、必要なメンバーをかき集めて、相談の結果、まず第一歩として雑誌を出すことになった。誌名は「新しい生命」という意味を取ることにし、そのころ私たちに復古気分があったところから、簡単に「新生」とした。

 『新生』の出版期日がせまったが、まず原稿を引き受けていた数人が姿をくらました。ついで資本も逃げてしまった。あとには文なしの三人だけが残された。はじめから時勢にそぐわぬ計画、失敗したとて人に文句をつける筋ではない。しかもその後は、この三人もそれぞれに運命が分かれて、共に未来のよき夢を語りあうこともできなくなった。これがわれわれの『新生』流産の顚末てんまつである。

 私が、これまで経験したことのない味気なさを感ずるようになったのは、それから後のことである。はじめは、なぜそうなのかわからなかった。後になって考えたことは、すべて提唱というものは、賛成されれば前進をうながすし、反対されれば奮闘をうながすのである。ところが、見知らぬ人々の間で叫んでみても、相手に反応がない場合、賛成でもなければ反対でもない場合、あたかも涯しれぬ荒野にたったひとりで立っているようなもので、身のおきどころがない。これは何と悲しいことであろう。そこで私は、自分の感じたものを寂莫と名づけた。

 この寂莫は、さらに一日一日成長して、巨大な毒蛇のように、私の魂にまつわって離れなかった。

 しかし私は、自分でもわけのわからぬ悲しみを抱いていたとはいえ、憤る心はさらになかった。なぜなら、この経験が私を反省させ、自分を見つめさせたからである。つまり私は、臂を振って叫べば呼応するもの雲の如しといった英雄ではないのだ。

 ただ自分の寂寞だけは、除かないわけにいかなかった。それはあまりにも苦痛だったから。そこで、いろいろの方法を用いて、自分の魂を麻酔させにかかった――自分を国民の中に埋めたり、自分を古代に返らせたり。その後も、もっと大きな寂寞、もっと大きな悲しみを、いくつも自分で体験したり、外から眺めたりした。すべて私にとって、思い出すに堪えない、それらを私の脳といっしょに泥の中に沈めてしまいたいものばかりである。とはいえ、私の麻酔法はききめがあったらしく、青年時代の慷慨悲憤はもうおこらなくなった。

 S会館には広さ三間の小さな棟があった。むかし、庭のえんじゆの木で女が首をったと言い伝えられていた。いまでは槐の木は、もう登れぬくらい高くなっているが、その棟にはまだ住み手はなかった。何年も私は、そこを寝ぐらにして、古い碑文を写していた。仮のすみ家に訪れる客はなし、古碑の中では問題にも主義にもぶつからずにすんだ。しかも私の生命は、このまま消えてゆくのである。これぞ私の唯一の願いでもあった。夏の夜は、蚊が多い。棕櫚しゆろのうちわを使いながら、槐の木の下に坐って、生い茂った葉越しにちらちら見える青空を眺めていると、よく青虫が首筋に落ちてきて冷やりとすることがあった。

 そのころ、時たま話しにやってくるのは、古い友人のチン心異シンイーであった。手にさげている大型の鞄をぼろテーブルの上にはうり出し、うわ着を脱いで、向かいあって座る。犬ぎらいだから、まだ心臓がどきどきするらしい。

 《きみは、こんなものを写して、何の役に立つのかね?》ある夜、私のやっている古碑の写本をめくりながら、かれはさも不審そうに訊ねた。

 《何の役にも立たんさ》

 《じゃ、何のつもりで写すんだ?》

 《何のつもりもない》

 《どうだい、文章でも書いて……》

 かれの言う意味が私にはわかった。かれらは『シン青年チンネン』という雑誌を出している。ところが、そのころは誰もまだ賛成してくれないし、といって反対するものもないようだった。かれらは寂寞におちいったのではないか、と私は思った。だが言ってやった。

 《かりにだね、鉄の部屋があるとするよ。窓はひとつもないし、こわすことも絶対にできんのだ。なかには熟睡している人間がおおぜいいる。まもなく窒息死してしまうだろう。だが昏睡状態で死へ移行するのだから、死の悲哀は感じないんだ。いま、大声を出して、まだ多少意識のある数人を起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どうせ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも気の毒と思わんかね》

 《しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋をこわす希望が、絶対にないとは言えんじゃないか》

 そうだ。私には私なりの確信はあるが、しかし希望ということになれば、これは抹殺はできない。なぜなら、希望は将来にあるものゆえ、絶対にないという私の証拠で、ありうるというかれの説を論破することは不可能なのだ。そこで結局、私は文章を書くことを承諾した。これが最初の「狂人日記」という一篇である。その後は、踏み出した以上はもどるわけにいかず、友人たちに頼まれるたびに小説めいた文章を書いて、お茶をにごして来たのが、積り積って十数篇になっ

た。

 思うに私自身は、今ではもう、発言しないではいられぬから発言するタイプではなくなっている。だが、あのころの自分の寂莫の悲しみが忘れられないせいか、時として思わず吶喊とつかんの声が口から出てしまう。せめてそれによって、寂莫のただ中を突進する勇者に、安んじて先頭をかけられるよう、慰めのひとつも献じたい。私の吶喊の声が、勇ましいか悲しいか、憎らしいかおかしいか、そんなことは顧みるいとまはない。ただ、吶喊であるからには、主将の命令はきかないわけにいかなかった。そのため私は、しばしば思いきって筆をまげた。「薬」では瑜児ユールの墓に忽然と花環を出現させたし、「明日」でも、単四シヤンスー嫂子サオツがついに息子に会う夢を見なかった、とは書かなかった。当時の主将が、消極性をきらったせいもあるが、自分でも、みずから苦しんだ寂寞を、私の若いころとおなじように甘い夢を見ている青年に伝染させたくなかったから。

 こうしてみると、私の小説が芸術にはるかに遠いことは申すまでもない。ところが今でも小説という名でよばれるばかりでなく、一本にまとめる機会さえ与えられたのは、何はともあれ、まことに僥倖ぎようこうといわなくてはならない。僥倖の点は不安を感ずるものの、この世にしばらく読者がつづくことを思うと、さすがに嬉しい。

 そんなわけで自分の短篇小説集を出版する気になった。そしていま述べたような理由で書名を『吶喊』とした。

一九二二年十二月三日、北京において魯迅しるす。

(pp. 7-14)

高橋和巳

 

吶喊自序

 

 私も若いころには多くの夢をえがいたものだったが、その後あらかた忘れてしまった。だが自分でも決して惜しいとは思わない。回想というものは、人をたのしませるけれども、時として人を寂しがらせることも避けえない。こころの糸すじを過ぎ去った寂寞せきばくの年月にいつまでもつないでいたとて、何の意味があろう。私にはすっかり忘れてしまえないのがやりきれぬ。その忘れきれぬ一部分が、今になって『吶喊とつかん』となった次第である。

 私はかつて四年あまりの間、しょっちゅう――ほとんど毎日、質屋と薬局に出入りした。年齢は忘れてしまったが、ともかく薬局の帳場がちょうど私と同じ背丈であり、質屋のは私の倍も高かったころだ。私は倍も高い帳場の外側から衣服や首飾をわたし、さげすまれつつ銭を受けとり、それから背丈ほどの帳場まで行って長患いの父のために薬を買った。家に帰ってからは、また別の仕事を手伝わねばならなかった。というのは処方を書いた医者がごく名高い人だったので、用いる薬引(補助薬)も風変りだったからである。冬のあしの根、三年の霜をへた砂糖きび、蟋蟀こおろぎそれももともとつがいのもの、実のなった平地木(小灌木)など、……多くはたやすく手に入るものではなかった。ところで結局私の父は日ましに重態となって死んでしまった。

 まずまずの暮しの家から貧窮にちた人なら、その過程で、あらまし世人の正体を見られただろうと私は思う。私はN市へ行ってK学堂に入りたいと思っていた。どうやら人と違った道を歩み、異なった土地に逃げ、様子の違った人々とつきあおうと思っていたらしい。私の母はやむなく、八円の旅費を工面して、いいように使いなさいと言った。だが彼女はいた。これはまさしく人情としてさもあるべきことだ。というのは当時は読書をし科挙を受けるのがまっとうな道で、いわゆる洋務(外国の学問)を学ぶことは、世間では行き場のない人間が、やむなく魂を夷狄いてきに売りわたすものとみなして、いっそう嘲弄し排斥したからだ。まして母にとっては自分の息子を手放さねばならなかったのだ。だが私もこうしたことに構ってはいられず、結局N市へ行ってK学堂に入学した。この学校で、私ははじめてこの世にはなお物理、数学、地理、歴史、絵画、体操などがあることを知った。生理学は教えられず、ただ私たちは木版本の『全体新論』や『化学衛生論』のたぐいを読んだにすぎなかった。私はいまでも覚えている、以前の医者の議論や処方と、いま知ったものとを比較してみて、次第に漢方医学が意識的あるいは無意識的なペテンであることを悟ったものだ。同時にまただまされた病人とその家族に対する同情をおぼえた。さらに翻訳された歴史によって、日本の維新は大半西洋の医学に端を発している事実をも知った。

 こうした幼稚な知識のゆえに、のちに私の学籍は日本の一地方の医学専門学校に置かれることとなった。私の夢は甘美で、卒業して帰れば、私の父のように惑わされている病人の病苦を癒󠄁いやし、戦争の時には従軍して軍医となり、一方また中国人の維新に対する信仰を促進するつもりだった。微生物学を教授する方法に、いまどのような進歩がもたらされたかをもう私は知らない。ともあれ当時は幻灯を用いて、微生物の形態を映し出した。それで、講義が一段落しても、なお時間にゆとりがあるときには、教師はついでに風景とか時事的な場面シーンやらを映して学生に見せ、それであまった時間をうめたものだった。時はあたかも日露戦争のさなかで、おのずと戦争に関する場面が比較的多かった。私はその教室で、同級生の拍手と喝󠄁采󠄁にしばしば調子をあわせねばならなかった。あるとき、私は画面で久しく無沙汰していた大勢の中国人と突然出会った。一人は縛られて真中におり、多くは左右に立っていた。どれも屈強な体格だが、無神経な表情をしていた。解説によると、縛られているのはロシアのために軍事スパイとなった者で、いましも日本軍にみせしめに斬首されるところであり、とり囲んでいるのはそのみせしめの盛挙を見物に来ている人々とのことだった。

 その一学年が終らぬうちに、私はすでに東京に来ていた。あのときのこと以来、私は医学は緊急の仕事では決してなく、およそ愚弱な国民は、たとえ体格がいかに壮健で、屈強であろうと、全く意味のないみせしめの材料と観客になれるにすぎず、病や死のいくばくかは不幸と見なすまでもないと思ったからである。だから私たちの第一義は、彼らの精神を改変することであり、そして精神の改変に役立つものとしては、そのとき当然文芸をとりあげるべきだと思われた。そこで文学運動の提唱を思い立った。東京にいた留学生はほとんど法政、理学ないしは司法、工業などを学んでいて、文学や美術をおさめているものはいなかった。しかし冷淡な空気のうちにも、幸いに数人の同志をみつけだし、その他にも必要な数人を集めて、相談ののち、第一歩は当然に雑誌を出すことになった。誌名は「新しい生命」の意味をとることとしたが、当時私たちはたいてい復古の気風をおびていたから、単に『新生』と名づけた。

『新生』の出版期日は迫ったが、原稿を書くはずの数人がまっさきに雲隠れし、つづいて資本が逃げて、結果、無一文の三人だけが残った。はじめた時からして時世に背いていたから、失敗の時はむろん訴える人とていない。しかもその後その三人すらそれぞれの運命に翻弄ほんろうされて、いっしょに集まって自由に将来の甘美な夢を語りあうこともできなくなった。これが私たちの日の目を見なかった『新生』の顚末である。

 私がそれまで経験したことのない無聊ぶりようを感ずるようになったのは、これ以後のことである。当初はそれを感ずる理由がわからなかった。のちになって考えれば、およそ一人の主張は、賛同をえられれば、その前進が促され、反対されれば、その奮闘が促される。たった一人見知らぬ者の中で叫んで、さっぱり人々に反応がなく、賛同もされず、また反対もされねば、あたかもはてなき荒野に身をおいたように、手のほどこしようがなくなってしまう。それはどんなにか悲しいことか。かくて私の感ずるものは寂莫となった。

 この寂莫はまた一日一日と成長して、大きな毒蛇のように、私の魂にまつわりついた。

 ところで私はゆえ知れぬ悲哀をいだいてはいたが、決して憤っていたわけではない。なぜならこの経験は私を反省させ、己れみずからを思い知ったからだ。つまり私はひじを振って一声さけべば応ずる者が雲集するといった英雄では決してないことを。

 ただ私の寂僕は駆除せねばならなかった。なぜならそれは私にとってははなはだしい苦痛だったから。それで私は種々の方法を用いて、私自身の魂を麻痺させようとし、自分を国民の中に埋没させ、自分を古代に回帰させた。のちにさまざまなより寂莫とした、より悲哀かなしいことを体験もし傍観もしたが、すべては思い出したくなく、むしろそれらを私の脳とともに泥中に消滅するがままにさせたいと思う。ただ私の麻酔法もすでに功を奏しているとみえて、もう青年時代のような慷慨こうがい激昻の気持はなくなった。

 S会館(北京の紹興会館)には間口まぐちげんの家屋があった。言い伝えではむかし庭のえんじゆの樹で女が縊死いししたということで、いまはもう槐の樹はよじのぼれないほど高くなっていたが、その家屋にはなお住み手はなかった。長年、私はその家屋に寓居して古い碑文をうつしとっていた。他郷のこととておとずれる人もまれで、古碑の中でもどんな問題にも主義にも出会うことなく、私の生命はいながらにしてひっそりと消えていった。これこそ私の唯一の願望でもあった。夏の夜、蚊が多く、棕櫚しゆろ団扇うちわを揺すぶりながら槐の樹の下に座り、密生した葉のあいまからちらちらする晴れた空を見ていると、おくての青虫がよくひやりと首筋に落ちた。

 そのころたまたま話に来たのが旧友のチン心異シンイ(銭玄同のこと。魯迅と同郷の友で、文学革命を指導した)である。手さげの大きな革カバンをぼろテーブルの上におき、長衣をぬいで、向いあって坐った。犬をこわがって、心臓をまだどきどき躍らせているようだった。

「君、こんなものを写して何の役に立つのかね」ある夜、彼は私のやっている古碑の写本をめくりながら、研究めいた質問を発した。

「何の役にも立たん」

「じゃ、どういうつもりで写しているのかね?」

「どういうつもりもない」

「なにか文章を書くといいと、思うんだが……」

 私は彼の考えを理解した。彼らはちょうど『新青年』を刊行していた。ところが当時はまだ賛同する人もいないばかりか、反対する人すらないらしかった。彼らも多分寂実感にとらわれているのだろうと、私は思った。だが言った。

「かりに鉄製の部屋があって、窓も戸もなく打ち破れそうになく、中に睡りこけている人が大勢いるとする。遠からずみな悶死するだろう。だが昏睡のままに死んでゆけば、瀕死の悲哀は感ぜずにすむ。いま君は大声をあげて、目めかかった数人を起して、この不幸な少数者に救うべくもない臨終の苦痛をなめさせようとしている。それで彼らに申しわけが立つと思うかね?」

「だが数人が起きてしまった以上、その鉄の部屋を打ちこわす希望が全くないとは言えまい」

 そうだ、私には私なりの確信はあるとはいえ、希望ということになれば、それは抹殺しえない。なぜなら希望は将来にかかわることであり、私の絶無だという証明でもって、彼のありうるとする考えを折伏しやくぶくできない。そこで私は文章を書くことを承諾した。それが最初の一篇『狂人日記』である。それ以来、乗りかかった船で、小説めいた文章を書いては、友人たちの依頼のお茶をにごし、積りつもって十余篇となった。

 私自身としては、今はもうせっぱ詰ってやむを得ず発言する人間ではなくなったと思う。ただなおも当時の我が身の寂莫と悲哀を忘れかねてか、時にはつい吶喊さけびをあげてしまうのだが、寂寞の中を突進する猛士をなぐさめ、はばかることなく先頭に立ってもらえればとひそかに思う。私のさけび声が勇ましいか悲しいか、憎むべきか笑うべきかについては、顧みている暇はない。ただそれが吶喊とつかんであるからには、むろん主将の命令に従わねばならない。それゆえ私は往々にして曲筆を弄することにもこだわらなかった。『薬』における瑜児ユールはかつちにはなくもがなの花環をそえたし、『明日』の中でも、単四シヤンスー嫂子サオツがついに息子に会った夢を見なかったとは書かなかった。なぜなら当時の主将は消極をきらったからである。自分としても、みずから苦しんだ寂実を、私の若いころと同じようにいい夢を見ている青年に伝染させたくはなかったからである。

 こう書いてくると、私の小説が芸術とほど遠いことは、思い半ばにすぎる。だが今日にいたるも、なお小説の名を冠し、かつ文集を編む機会までもちうることは、なにはともあれ僥倖ぎようこうと言わねばならない。ただ僥倖は私を不安にさせるが、しかし世間にしばらくはなお読者がいると空想することは、さすがにやはり嬉しいことである。

 それでついに私は私の短篇小説を編集し、かつ印刷に付し、また上に述べたような理由から、これを『吶喊』と名づけたのである。

一九二二年十二月三日、魯迅北京にて記す

(pp. 7-13)

(※④駒田信二訳 収録なし)

⑤松枝茂夫・和田武司訳

 

自序

 

 私も若いときには多くの夢をみたが、その後大半は忘れてしまった。しかし自分ではけっして惜しいとは思わない。思い出というものは、人を楽しませるものではあるが、時には人を寂しがらせないでもない。精神の糸に、過ぎてしまった寂寞せきばくの年月を引きずらせておいたところで、何の意味があろう。だが、困ったことに、私にはそれらの思い出を完全に忘れることができないのである。その忘れられない一部分が、いまとなって『吶喊とつかん』となった、というわけだ。

 私は四年以上ものあいだ、いつも――ほとんど毎日、質屋と薬屋に出入りした。年齢としは忘れてしまったが、とにかく薬屋の帳場は私とちょうど同じ高さで、質屋のそれは私の倍ほどもあった。私は、その倍ほどもある帳場の外から衣類や髪かざりを差し出し、侮蔑のうちに金を受けとり、それから私と同じ高さの帳場へ行って、長患いの父のために薬を買った。家に帰っても、ほかの用事が待ち受けていた。というのは、処方を書いた人が非常に有名な医者だったため、用いる薬引(薬効を高めるための補助薬)も変わっていたからである。冬とった蘆の根。三年の霜にあたった甘蔗󠄁。コオロギ、それもつがいのままのもの。実のなったやぶ柑子こうじ……。どれもたやすく手に入るものではなかった。しかし父は、病いが日ましに重くなって、けっきょく死んでしまった。

 ところで、かなりの暮らし向きの境遇から貧乏のどん底に落ちこんだ人がいるだろうか。その人は、その過程で、あらまし世間というものの正体を見ることができるように、私は思う。私がNへ行ってK学堂に入ろうとしたのも、異なる道を行き、異なる土地に逃げて、別種の人とつきあおうと考えたかららしい。母はしかたなしに、八ユアンの旅費を工面して、私の好きなようにせよ、とった。だが母は泣いた。これは人情として当然であった。それというのが、当時は経書けいしよを学んで官吏登用試験を受けるのがまともな道であり、洋務(外国の学問)を学ぶなどというのは、行き場のなくなった人間がやけになって魂を毛唐に売り渡したのだというふうに、世間では見ていて、それだけに前にもまして嘲弄ちようろう排斥が加えられたからである。まして母の場合、息子に会えなくなるのだから、なおさらのことだった。だが私は、そんなことにかまっておられず、とうとうNへ行ってK学堂に入学した。この学校で、私ははじめて、この世には物理とか、数学とか、地理とか、歴史とか、図画や体操などというものがあることを知った。生理学は教わらなかったが、わたしたちは木版本の『身体新論』や『化学衛生論』といったものを目にすることができた。私はまだ、それまでの医者の理屈や処方をおぼえていた。それらを新しく知ったこととくらべるにつれて、しだいに私は、漢方医というのは意識的または無意識的なペテン師にすぎなれい、という結論に達した。そして同時に、ペテンにかかった病人とその家族にたいして大きな同情を寄せるようになった。それからまた、翻訳された歴史の本をつうじて、日本の明治維新が半分以上、西洋医学に端を発しているという事実を知った。

 こうした幼稚な知識に助けられて、のちに私の学籍は日本のある田舎いなか町の医学専門学校におかれることになった。私の夢はじつに甘美なものだった。卒業して帰国したら、父のように誤られた病人の病苦を治してやろう、戦争の時には軍医として従軍しよう、そしてそのかたわら国民の維新への信仰をかきたてよう、とそんなつもりだった。微生物学の教授法が、今日ではどのように進歩したか、私はもう知らないが、ともかく当時は幻灯を使って、微生物の形態を映してみせた。それで、講義のきりがついてまだ時間にならないようなときには、教師は風景写真や時局写真を映して学生に見せ、その余った時間をうめたものだった。ちょうど日露戦争のさいだったので、やはりどうしても戦争関係の写真が比較的多かった。私としては、教室のなかで、いつも同級生たちの拍手と喝󠄁采󠄁に追随しなければならなかった。あるとき、私は画面のなかで、突然、久しくご無沙汰していた多くの中国人にお目にかかるはめとなった。一人は縛らて中央におり、そのまわりに大勢立っている。どれもみな頑丈な体格だが、しかし、いかにも鈍感そうな顔つきをしている。説明によれば、縛られているのは、ロシアの軍事スパイであり、日本軍によって見せしめのために首を斬られようとしているところで、まわりにいるのは、この盛大な見せしめのしものを見物にきた人びとということだった。

 この学年が終わらぬうちに、私は東京に出ていた。あのことがあってから、私は、医学というものがけっしてそれほど大切ではない、と悟ったからだ。愚弱な国民であるかぎり、体格がいくらりっぱでも、いくら頑健で、せいぜい無意味な見せしめの材料とその見物人になけのことで、病気になろうと死のうと、それだけでは必ずしも不幸だとはいえないのだ。私たちが最初にやらねばならぬことは、彼らの精神の改造にある。そして、精神の改造に役立つものといえば、私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動を提唱しようと考えた。東京にいる留学生のなかには、法政や理化、さらには警察や工業を学んでいる者はたくさんいたが、文学や美術をやっている者はいなかった。それでも冷淡な空気のなかで、数人の同志を見つけることができた。そのほかにも必要な数人をかり集め、相談の結果、当然手はじめに雑誌を出そうということになった。雑誌の名前は「新しい生命」という意味をとることになり、そのころ私たちは、たいていかなり復古的傾向があったから、たんに『新生』と名づけた。

『新生』の出版期日がせまった。ところが、まず最初に原稿をひきうけていた数人が姿を消した。つづいてこんどは資本が逃げて、あとには一銭ももたぬ人間がたった三人残された。始めるときからして時勢に背を向けていたのだから、失敗したいまとなっては、むろん何もいうべきことはない。しかもその後、この三人でさえ、それぞれの運命に駆られて、いっしょに集まって将来の甘い夢を語り合うこともできなくなった。これが、私たちの流産に終わった『新生』の顚末てんまつである。

 私が、それまで経験したことのない索漠たる気持を感じたのは、それ以後のことである。私は最初、そのわけがわからなかったが、あとになってこう考えた。すべて人の主張は、賛成がえられれば前進がうながされるし、反対を受ければ奮闘がうながされる。ところが、見知らぬ人びとのなかでいくら一人叫んでも、相手が全然反応せず、賛成するでもなければ、反対するでもないとしたら、あたかも果てしれぬ荒野に身をおいたように、どうしていいかわからなくなる。これはどんなに悲しいことであろうか、と。そこで私は、私の感じたものを寂寞せきばくと名づけた。

 この寂寞はさらに一日一日と大きくなり、大きな毒蛇のように、私の魂にからみついた。

 しかし私は、自分が理由のわからぬ悲しみを抱いていたとはいえ、けっして憤りに駆られていたわけではなかった。なぜなら、この経験が私を反省させ、自分を見つめさせたからである。つまり私は、けっしてひじを振るって一呼すれば応ずるもの雲のごとしといった英雄ではないのだ、ということである。

 それでも私自身の寂僕は駆除しなければならなかった。それは私にとってあまりにも苦痛だったからである。そこで私はいろいろな方法で、自分の魂を麻酔させ、自分を国民のなかに沈め、自分を古代に返らせようとした。その後ももっと大きな寂寛、もっと大きな悲しみを、なんどか直接経験したり傍観したりした。すべて私にとっては、思い出したくない、いっそ私の脳味噌といっしょに泥のなかに埋めてしまいたいことばかりだ。が、私の麻酔法は効きめがあったと見えて、もはや青年時代の慷慨こうがい激越の気持はおこらなくなった。

 S会館(同郷人の寮)には間口まぐち二間の小さな部屋がある。むかし、中庭のえんじゆの木で女が首をつったと伝えられ、いまでは槐の木はもう登れないほど高くなっているのに、その部屋はずっと住み手がないままだった。何年ものいだ、私はその部屋に寝泊りして古い碑文を写していた。他郷に住む身で、訪ねてくる人もなかったし、古い碑文が相手では、問題にも主義にもぶつからずにすんだ。こうして私の生命がこのまま暗々のうちに消えていくだろと、これこそ私の唯一の願いでもあった。夏の夜は、蚊が多かった。で、棕櫚しゆろのウチワを使いながら、槐の木の下に腰をおろし、茂った葉の隙間からチラチラ見える青空を眺めていると、暮れがたに出る青虫が、よく冷やりと首筋に落ちてきたものである。

 そのころ、たまたまひょっこり遊びにくるのは、古い友人のチン心異シンイーであった。手提げの大きなカバンをばろ机の上におき、長衣をぬいで、向かい合って坐る。犬がこわかったのだろう、まだ心臓をドキドキさせているらしい。

「君はこんなものを写して、どうするんだ?」ある夜、彼は私の例の碑文の写本をめくりながら、詮索めいた質問を発した。

「どうもしないよ」

「じゃ、どういうつもりで写しているんだね?」

「どういうつもりもない」

「ねえ、君はすこし物を書いたらいい、と思うんだがね…….」

 私には、彼のいわんとする意味がわかった。彼らは『新青年』という雑誌を出しているところだった。ところが、その当時は賛成する人もいなかったし、反対する人もいないようであった。彼らは、寂莫を感じているのう、と私は思った。だが、私はいった。

「かりにここに鉄の部屋があるとする。それには窓が一つもないし、壊すのも絶対にむつかしい。なかにはぐっすり睡っている人間が大勢いる。間もなく窒息死するだろう。しかし昏睡から死へ移るのだから、死ぬまぎわの悲しみは感じない。いま、きみは大声をあげて、目の覚めかかった何人かのものを起こし、この不幸な少数のものに、救う手だてもない臨終の苦しみをなめさせようというわけだ。それでも君は、彼らに済まぬと思わないのかね」

「しかし何人かはもう起きあがったのだ。この鉄の部屋を壊す希望が絶対にないとは、君だっていえないはずだ」

 それはそうだ。私はむろん、私なりの確信があるのだが、希望ということになれば、これは抹殺できない。なぜなら、希望は将来にあるものであって、私の「絶対にない」という証明でもって、「ありうる」という彼の説を説き伏せることは不可能だからだ。そこでけっきょく、私も何か書くことを承知した。これがすなわち、最初の『狂人日記』という一篇󠄀である。その後は、やり出したらあと戻りするわけにはいかず、友人たちの依頼があると、そのたびに何やら小説めいたものを書いて、お茶をにごしてきたが、それが積もり積もって十余篇󠄀になった。

 私自身のばあい、いまではもう、何か発言せずにはおられないといった人間ではないと思っている。だが、まだあのころの自分の寂莫の悲しみが忘れきれないのであろうか、時としてつい、吶喊の声をあげたくなる。せめてそれによって、寂莫のなかを突進する猛士に、彼が落胆せずに先頭を駆けられるよう、幾分なりとも慰めてやれたら、と思うわけだ。私の叫び声が勇ましいか悲しいか、憎むべきか笑うべきか、そんなことはかえりみる余裕はないのだ。ただ、吶喊であるからには、むろん将の命令にはしたがわなければならない。私はしばしば、遠慮なく曲筆を用いた。『薬』の瑜児ユールの墓にはなくもがなの花環をそえたし、『明日』でも、単四タンスー嫂子サオツは息子に会った夢をついに見なかったとは書かなかった。これは当時の主将が、消極を主張しなかったためである。また自分としても、あれほど自分が苦しんできた寂寞を、私の若いときと同じように甘い夢を見ている青年に、これ以上伝染させたくなかったのである。

 こうしてみると、私の小説が芸術作品からはほど遠いということも、おわかりいただけるだろう。しかるに今日、依然として小説の名が冠せられているばかりか、単行本にまとめる機会まで与えられたということは、何はともあれ僥倖ぎようこうというほかはない。そうした僥倖は私の心を不安にはするけれども、しばらくのあいだでもこの世に読者がいることを思えば、さすがにうれしくないことはない。

 というわけで、私はついに私の短篇󠄀小説を一本にまとめて印刷に付し、さらに以上に述べたような理由によって、これを『吶喊』と名づけたのである。

  一九二二年十二月三日、北京にて記す

魯 迅

(pp. 9-13)

⑥丸山昇訳

 

 若いころには、私も数多くの夢を見たものだった。やがて大半は忘れてしまったが、自分でも、べつに惜しいとも思わない。思い出というものは、人を楽しませもするが、ときには、それが寂寞せきばくを覚えさせることにもなる。精神の糸で、すでに過ぎ去った寂僕の時をつなぎとめておいたところで、なんの意味があろう。私はむしろ忘れ切れぬことが苦しい。その忘れ切れぬ一部分が、いまになって『吶喊とっかん』のもとになったのである。

 私は四年あまりのあいだ、しばしば――ほとんど毎日、質屋と薬屋に出入りした。年がいくつだったかは忘れてしまったが、とにかく、薬屋の帳場はちょうど私の背の高さ、質屋のは背の二倍あった。私は二倍の高さの帳場のこちら側から着物や装飾品を差し出して、侮蔑ぶべつのなかで金を受けとり、それから背の高さの帳場へ行って、長患いの父のために薬を買った。家に帰れば帰ったで、何やかや忙しかった。処方を書いてくれた医師が有名な人だったので、使う補助薬も変わったものだったからである。冬のあしの根、霜に三年あたったさとうきび、こおろぎはもとのつがいのままのものでなければならぬ、実を結んだ平地ピンテイームー……ほとんどが容易には手に入らぬ品だった。それでも、父は結局日ましに悪くなって死んでしまった。

 まずまずの暮しから貧窮に陥った人なら、その過程で、たぶん世間の人の本性を見ることになるだろうと、私は思う。私がNに行ってK学堂に入ろうと思ったのも、異なった道に進み、異なった土地に逃れて、別の人々を探そうと思ったからだったようだ。母はしかたなく、八元の旅費をつくってくれて、好きなようにするがいいと言った。しかし、彼女は泣いた。それは無理もないことだった。なぜなら、当時は学問をして役人の試験を受けるのが正道であり、洋学の勉強などというのは、世間では、行きどころのない人間が、しかたなく魂を毛唐に売るもの、大いに軽蔑けいべつし排斥してしかるべきだ、と思われていただ。まして彼女は、息子に会えなくなるのだったから。しかし、私もそんなことを気にしてはいられない、とうとうNへ行ってK学堂に入った。この学校で、はじめて世の中には、物理化学、数学、地理、歴史、製図、体操というものもあるのだ、ということを知った。生理学は教わらなかったが、木版の『全体新論』や『化学衛生論」といったものは目にした。以前の医者の話や処方はまだ記憶にあった。それをそのとき知ったものとくらべてみて、しだいに漢方医とは、意識するにせよしないにせよ、一種のかたりにすぎないと悟るようになった。それと同時に、欺かれた病人やその家族に対する同情を強く抱いた。それに翻訳された歴史を通じて、日本の維新が多くの部分、西洋医学に端を発している事実も知った。

 こういった幼稚な知識のせいで、やがて私の学籍は、日本のいなかのある医学専門学校に置かれることになった。私の夢はばら色だった。卒業して帰ったら、父のようなめにあっている病人の苦しみを救おう、戦争のときには軍医になろう、そして一方では、国民の維新への信念を強めよう、というつもりだった。生物学の教授法が、いまではどのくらい進歩したものか、私はもはや知らないが、ともかく当時は、幻灯を使って、微生物の形状を見せた。そこで、ときに講義が一段落してもまだ時間が来ないと、教師が風景や時事の画面を映して学生に見せ、あまった時間をつぶすことがあった。当時は、ちょうど日露戦争のころだったから、当然戦争に関する画面も多かった。私はこの教室で、しばしば同級生たちの拍手と喝采󠄁に調子を合わせねばならなかった。あるとき、私は思いがけず、久しく会わずにいた多数の中国人たちと突然画面でお目にかかった。一人が中央に縛られていて、多数が周囲に立っている。そろって体格はいいが、無表情である。解説によると、縛られているのはロシアのために軍事スパイをはたらいたもので、いましも日本軍によって見せしめのため首を切りおとされようとしているところ、そしてとりまいているのは、この見せしめの盛挙を見物に来た人々だということであった。

 この学年が終わらないうちに、私はもう東京にきてしまった。あのとき以後、私は医学は緊要事ではない、と思ったからである。およそ愚弱な国民は、体格がいかにたくましく、いかに頑健であろうと、せいぜい無意味な見せしめの材料と見物人になるだけのことだ、どれだけ病死しようと、不幸だと考えることはない。だから、我々が最初にやるべきことは、彼らの精神を変えることだ、そして精神を変えるのに有効なものとなれば、私は、当時は当然文芸を推すべきだと考え、こうして文芸運動を提唱しようと思った。東京の留学生には法律政治、物理化学さらに警察、工業を学ぶものはたくさんいたが、文学や芸術をやる者はいなかった。しかし、冷淡な空気のなかでも、さいわい、数人の同志が見つかり、そのほか、なくてはならぬ数人も集まった。相談のすえ、第一歩としては当然雑誌を出すことになった。誌名は「新しい生命」の意味をとり、私たちは当時、みないくらか復古に傾いていたから、単に『新生』呼んだ。

 『新生』の出版期日が近づいたが、まず原稿を引き受けていた数名が姿を消してしまい、つづいて資本にも逃げられて、結局一文なしの三人だけが残った。始めから、そもそも時勢に合わなかったのだし、失敗しても文句の持って行きようもない。その後は、この三人もそれぞれの運命に追い立てられて、顔をそろえて未来の楽しい夢の語り合いにふけることもできなくなった。これが、私たちの生まれざりし『新生』の結末であった。

 私が、それまで経験したことのなかった味気なさのを感じたのは、それ以後のことだった。私は最初、なぜなのかわからなかった。後になって考えてみると、およそ人の主張は、賛同を得られれば、その前進が促されるし、反対されれば、その奮闘が促される。ただ見知らぬ人々のなかで叫びをあげても、人々が反応を示さず、賛同するでも、反対するでもない、という場合、それはまったくはてもない荒野に身を置くようなもので、どうにもしようがない、これはなんたる悲哀だろうか。そこで私は自分の感じたもの、これが寂寞なのだ、と思った。

 この寂寞はさらに日一日と成長し、大きな毒蛇のように、私の魂にからみついた。

 しかし、私は自らいいようのない悲哀を抱いていたとはいえ、憤る気持はなかった。この経験が私を反省させ、自分の姿を見せてくれたからである。つまり、私はひじを振ってひとたび呼べば、こたえるもの雲のごとく集まる、という英雄では決してなかったのだ。

 ただ、私自身の寂度だけは追い払わないわけにはいかなかった。それはあまりに苦しかったから。私はそこでさまざまな方法で、自分の魂を麻酔で眠らせよう、自分を国民のなかに埋めこみ、古代に帰らせよう、とした。その後も、もっと寂しいもっと悲しいことをいろいろ直接体験もしたし、目で見もした。どれも、思い出したくない、私の脳といっしょに土の中に消えさせてしまいたいものばかりだったが、私の麻酔法の効果があったらしく、青年時代の悲憤慷慨こうがいの気持はもはやなくなった。

 S会館には三間の棟があり、むかし、中庭のえんじゆの木で女が首をった、という言伝えがあった。そのころ、槐の木はもう高くて登れなくなっていたのだが、それでもこの棟にはまだ住む者がいなかった。何年ものあいだ、私はここに住んで古碑の写しをとった。仮住まいのことで訪れる者もまれだし、古碑のなかでは問題だの主義だのにぶつかることもなかった。私の生はひっそりと消え去って行くだろう、それは私の唯一の願望でもあった。夏の夜、蚊が多くなると、がまのうちわを使いながら槐の下にすわった。茂った葉のすきまからチラチラと夜空がのぞいた。時期遅れの青虫が、よくひやりと首筋に落ちてきた。

 そのころ、ときたま話しに来たのは旧友のチン心異シンイーだった。手提げの大きな革かばんをぼろテーブルの上に置き、長衫チヤンシヤンを脱いで、向かい側にすわった。犬嫌いで、心臓がまだドキドキしているらしかった。

「君、こんなものを写して何になるんだ?」、ある晩、彼はその古碑の写しをめくりながら、質問を向けてきた。

「べつになんにもならない」

「じゃあ、それを写すのは、どういうつもりなんだ?」

「なんというつもりもない」

「僕は思うんだが、君は、何か書いたらいいんじゃないか……」

 私には彼の考えがわかった。彼らは『新青年』をやっていた。しかし、そのころは賛同する者もいないし、反対する者もいないようだった。彼らは寂寞を感じているのかもしれない、と私は思った。しかし言った。

「かりに鉄の部屋があって、まったく窓がなく、のこわすこともとてもできないとする。中には、たくさんの人たちが熟睡している。間もなく窒息してしまうだろうが、昏睡こんすいのまま死んで行くのだから、死の悲哀を感ずることはない。いま、君が大声をあげて、多少意識のある数人をたたき起こせば、この不幸な少数者に救われようのない臨終の苦しみをなめさせるわけだ、それでも彼らにすまないと思わないか?」

「しかし、数人が起きた以上、その鉄の部屋をこわす希望がまったくないとは言えまい」

 そうだ、私には私なりの確信があるが、しかし希望ということになれば、抹殺はできない。希望とは将来にかかるものであり、ないにちがいないという私の証明で、あり得るという彼の意見をときふせることはできない。そこで、私もとうとう何か書くことを承知した。これが最初の一篇「狂人日記」である。それからというものは、始めた以上やめるわけにいかず、小説めいたものを書いては、友人たちの依頼にお茶をにごしてきたが、それが積もり積もって十余篇になった。

 私としては、いまではもう何かに駆り立てられて、ものを言わずにいられないといった人間ではない、と前から思っていた。しかし、かつての自分の寂寞の悲哀がまだ忘れられないためだろう、ときとして、いくらか吶喊の声をあげずにいられないこともある。それによって、あの寂寞のなかを疾駆する勇士たちをいくらかでも慰め、心おきなく先駆させてやりたいと思うのである。私の喊声かんせいが勇ましいか悲しいか、憎らしいかおかしいか、そんなことを顧みている余裕はない。しかし吶喊である以上、当然、主将の命令はきかねばならない、そこで私は、しばしばあえて筆を曲げた。「薬」の瑜児ユーアルの墓には、いわれもなく花環を添えたし、「明日」でも単四シヤンスー嫂子サオズは息子の夢を見ぬままに終わったとは書かなかった。当時の主将が消極を喜ばなかったからである。私自身としても、自分が苦しんでいる寂寞を、自分の若いころ同様に、美しい夢を見ている青年に感染させたくはなかった。

 こう述べれば、私の小説が芸術からほど遠いものであることも言わずして明らかだろう。ところが、今日でも小説という名を与えられ、さらに一冊の本にまとめる機会まで得たことは、何はともあれ、幸運なことと言わねばならない。ただ、幸運は私を安にはするが、この世に、まだしばらく読者がいることを想像するのは、なんと言ってもやはりうれしいことだ。

 それで、私は自分の短篇小説を集めたばかりか、印刷まですることにした。そして、また以上述べた理由から、これを『吶喊』と名づけたのである。

一九二二年十二月三日、魯迅、北京にて記す。

(pp. 9-15)

藤井省三

 

自序

 

 私も若いころにはたくさんのことを夢見て、それももうほとんど忘れてしまったが、自分でも別に惜しいとは思わない。いわゆる思い出とは、人を楽しませるものでもあるが、ときには人を寂しくさせるものでもあり、過ぎ去った寂しい歳月に精神の糸をなおもつないでおいたとしても、なんの意味もあるまいし、私はむしろすべて忘れられないことが苦しく、完全に忘却できなかったその一部が、今になって『吶喊とっかん』の由来となったのだ。

 私は四年ほど、しばしば――ほとんど毎日、質屋と薬屋に出入りしていたことがあり、何歳だったか忘れたが、ともかく薬屋の帳場は私の背と同じ高さ、質屋のは私の倍の高さで、この倍の高さの帳場で服や髪飾りを渡し、蔑みを受けながらお金を受け取り、もういちど私と同じ高さの帳場で長患いの父の薬を買ったのだ。帰宅後も、さらに忙しかったのは、その処方箋を書くのは最も有名な医者なので、使用する補助薬も奇妙なもので、冬の葦の根やら、三年霜にあたったサトウキビ、もともと同じ巣にいたコオロギー対、実を結んだ平地木……、多くはなかなか手に入らないものだった。しかし私の父は日増しに悪化して亡くなった。

 まあまあの暮らしから困窮状態に落ちた人なら、その過程で、おそらく世間の人の本性を見ることだろう。私がNに行きK学堂に入ろうとしたのは、別の道を歩みたい、異郷に逃れ、別種の人たちを探したいと思ったからだろう。母は仕方なく、八元の旅費を工面し、好きなようにしなさいと言ったものの、彼女が泣き出したのも無理もないことで、当時は学んで科挙の試験を受けるのが正しい道であり、いわゆる洋学を学ぶとは、社会的には行き所のない者が、やむを得ず魂を毛唐に売り渡すようなもの、特段の軽蔑と排斥を受けることになり、そのうえ彼女は自分の息子に会えなくなるからだ。それでも私はそんなことに構っていられず、ついにNに行きK学堂に入ったところ、この学堂で初めて、世間にはいわゆる物理や数学、地理、歴史、図画に体操があることを知ったのだ。生理学は教えなかったが、私たちは木版の『全体新論』や『化学衛生論」といったものは目にした。それまでの医者の見解と処方を、現在わかったことと比べると、伝統的中国医[日本の漢方医に相当する]とは意識的あるいは無意識的なペテンであるとしだいに考えるようになり、同時に騙されている病人とその家族への同情を抱くようになったことを今でも覚えている。さらに翻訳された歴史により、日本の明治維新の多くが西洋医学に端を発しているという事実も知った。

 こんな幼稚な知識が、その後の私に学籍を日本のいなかの医学専門学校に置かせたのだ。私の夢は美しかった――卒業して帰ったら、父のように誤診されている病人の苦しみを救い、戦争のときには軍医になろう、そして国民の維新に対する信仰を広めよう。微生物学の教授法が、今はどれほど進歩したかは知らないが、ともかく当時は幻灯スライドを使って、微生物の形状を拡大して見せており、そのため講義が一段落して、なおも終業時間にならないときには、教師は風景や時事の幻灯を学生に見せて、余った時間を過ごしていた。当時はまさに日露戦争の時期で、当然戦争関係の幻灯がわりと多く、私はその講義室で、しばしば同級生たちの拍手喝采に調子を合わせねばならなかった。あるとき、私はついに画面で久しぶりに多くの中国人と面会することになった――一人が中央で縛られ、大勢が周りに立ち、どれも屈強な体格であるが、鈍い表情をしている。解説によれば、縛られている男はロシアのために軍事スパイを働き、日本軍によって見せしめのため首を切られようとしており、周りのはこの盛大なる見せしめを見物しようとやって来た人々だという。

 この学年の終わりを待たずに、私が早くも東京に出てしまったのは、あのとき以来、私には医学は大切なことではない、およそ愚弱な国民は、たとえ体格がいかに健全だろうが、なんの意味もない見せしめの材料かその観客にしかなれないのであり、どれほど病死しようが必ずしも不幸と考えなくともよい、と思ったからである。それならば私たちの最初の課題は、彼らの精神を変革することであり、精神の変革を得意とするものといえば、当時の私はもちろん文芸を推すべきだと考え、こうして文芸運動を提唱したくなったのだ。東京の留学生には法律・政治に物理・化学そして警察・工業を学ぶものは多かったが、文学と美術を研究するものはいなかった。そんな冷たい空気の中でも、幸いにも数人の同志が見つかり、ほかにも不可欠な数人に加わってもらい、相談の結果、第一歩は当然雑誌の刊行であり、名前は「新しい生命」の意味を取ることになり、当時の私たちは多分に復古的傾向にあったので、ただ「新生」と呼ぶことにした。

「新生」の出版期日が迫ってくると、まず書き手役の数人が雲隠れして、続けて資本が逃げ、最後には一文なしの三人が残された。始めたときから時代に合わなかったのだから、失敗しても文句の言いようもなく、その後はこの三人もそれぞれの運命に駆り立てられて、集まって将来の良き夢を語り合うこともできなくなった、というのが私たちの生まれることのなかった「新生」の顚末てんまつである。

 私がそれまで経験したことのない倦怠を感じるようになったのは、それ以後のことである。私は当初はそうなった原因がわからなかったが、その後に考えたことは、およそ人が何かの主張をするとき、賛同を得れば、前進するし、反対されれば、奮闘するのだが、見知らぬ人々のあいだで一人叫んでも、人々がまったく反応せず、賛成でもなく、反対でもなければ、まるで果てしなき荒野に身を置くようなもの、手のつけようがなく、これはなんという悲哀だろうか、ということで私は私が感じたことを寂寞せきばくであると考えた。

 この寂莫は日一日と大きくなり、大きな毒蛇のように、私の魂に絡み付いたのだ。しかし私がいわれなき悲哀を抱いてはいたものの、憤りを覚えなかったのは、この経験が私を反省させ、自分を見つめさせてくれたからである。つまり私は決して腕を振り上げ一声呼べば人が雲のように集まるという英雄などではないのだ。

 ただ私自身の寂寞だけはどうしても追い払いたかったのは、これは私にとってあまりに苦しかったからである。そこで私はさまざまな方法で、自分の魂に麻酔をかけ、私を国民の中に沈殿させ、古代に帰らせ、その後もいくつかのさらに寂で悲哀なることを体験したり傍観していたり、そのどれもが思い出したくもないことで、ぜひともそれらを私の脳といっしょに泥の中で消滅させたかったのだが、私の麻酔法もどうやら功を奏したようで、もう二度と青年時代の悲憤ひふん慷慨こうがいを覚えることはなくなった。

 

 S会館には三部屋の棟があり、昔その中庭ではえんじゅの枝で女性が首を吊ったという言い伝えになっており、今では槐は登れないほど高くなっていたが、この部屋にはいまだに住む人がおらず、何年ものあいだ、私はここに住み古い碑文を写していた。異郷にあっては滅多に客もなく、古碑の中では問題と主義とやらにも出会うことはなく、そして私の命は人知れず消えていく、それだけが私のただ一つの願いであった。夏の夜は、蚊が多く、がまのうちわを扇ぎながら槐の下に座っていると、茂った葉の隙間からちらちらと黒い空が見えて、よく季節外れの青虫がひやりと首筋に落ちてきた。

 そんなときたまに話しに来るのが旧友のチン心異シンイーで、手提げの大きな革靴を古テーブルに置くと、長衫チャンシャンを脱ぎ、向かいに座るのだが、犬嫌いのため、心臓がなおもドキドキしているようすだ。「君がこんなものを書き写して何になるんだい?」ある晩、彼は私の古碑の写しをめくりながら、いろいろと問いかけてきた。

「何にもならないよ」

「それじゃあ、それを写すのは何のつもりなんだい?」

「何のつもりもないよ」

「どうだろう、何かちょっと書いてみないか……」

 私には彼の考えがわかった――彼らはちょうど「新青年」を刊行していたのだが、当時はとくに賛成する人もおらず、さらに反対する人もまだいなかったので、私は彼らも寂しいのだろうと思ったが、こう返事した。

「かりに鉄の部屋があって、まったく窓もなくどうやっても壊せないやつで、その中では大勢の人が熟睡しており、まもなく窒息してしまうが、昏睡から死滅へと至るのだから、死に行く悲しみは感じやしない。いま君が大声を上げて、少しは意識のある数人の人をたたき起こしたら、この不幸な少数派に救いようのない臨終の苦しみを与えることになるわけで、君は彼らにすまないとは思わないかい?」

「しかし数人が起きたからには、この鉄の部屋を壊す希望が絶対ないとは言えないだろう」

 そうだ、私には当然私なりの確信があるが、希望について言えば、それは抹殺できないもので、希望は将来にあるのだから、絶対に無しという私の悟りでは、彼のあり得るという説を決して説得できず、そのため私もついに何か書こうと承知したのであり、それが最初の一作「狂人日記」なのである。それからというもの、いったん始めたからにはやめられず、毎度友人たちに依頼されるたびに、小説らしきものを書いてはお茶を濁してきたが、それが溜まって十数篇になった。

 私自身は、今となっては切迫して沈黙を守れずという人間ではないと前から考えているのだが、あるいは昔の自分の寂莫の悲哀をいまだに忘れられないのであろうか、時々なおも吶喊とっかんの声をあげざるを得ず、これによりあの寂莫のなかを疾走する勇士を多少でも慰め、彼が望むように先駆たらしめたいのだ。私の喊声かんせいが勇ましいか悲しいか、憎らしいかおかしいか、そんなことを構っている暇もないのだが、威である以上、当然軍令に従わねばならず、このため私はしばしばあえて事実を曲げており、「薬」では「ユイちゃん」の墓に勝手に花輪を加えたし、「明日」でも単四シャンスーおばさんがついに息子の夢を見られなかったとは書いておらず、それというのも当時のリーダーが消極的な作品を好まなかったからである。私自身にとっても、自ら苦しく思う寂寞を、私の青年時代と同様に良き夢を見ている青年に感染させたくはなかったのだ。

 このように書くと、私の小説と芸術とのあいだの遠い距離も、お察しいただけようが、それでも今日に至ってなおも小説の名前を頂戴しているうえ、一冊にまとめる機会さえ持てたことは、何はともあれ思いがけない好運と言わざるを得ず、この好運が私を不安にさせるのだが、この世にはしばらくは読者がいるとも予測され、結局のところやはりうれしいものである。

 こうして私は短篇小説を集め、そして印刷したのであり、また先に述べたようなわけで、これを『吶喊』と名付けることにした。

一九二二年一二月三日、魯迅、北京にて記す

(pp. 251-260)

鴨的喜劇

  

  俄國的盲詩人愛羅先珂君帶了他那六弦琴到北京之後不久,便向我訴苦說:

  「寂寞呀,寂寞呀,在沙漠上似的寂寞呀!」

  這應該是真實的,但在我卻未曾感得;我住得久了,「入芝蘭之室,久而不聞其香」,只以為很是嚷嚷罷了。然而我之所謂嚷嚷,或者也就是他之所謂寂寞罷。

  我可是覺得在北京彷彿沒有春和秋。老於北京的人說,地氣北轉了,這裡在先是沒有這麼和暖。只是我總以為沒有春和秋;冬末和夏初銜接起來,夏才去,冬又開始了。

  一日就是這冬末夏初的時候,而且是夜間,我偶而得了閒暇,去訪問愛羅先珂君。他一向寓在仲密君的家裡;這時一家的人都睡了覺了,天下很安靜。他獨自靠在自己的臥榻上,很高的眉棱在金黃色的長髮之間微蹙了,是在想他舊遊之地的緬甸,緬甸的夏夜。

  「這樣的夜間,」他說,「在緬甸是遍地是音樂。房裡,草間,樹上,都有昆蟲吟叫,各種聲音,成為合奏,很神奇。其間時時夾著蛇鳴:'嘶嘶!'可是也與蟲聲相和協……」他沉思了,似乎想要追想起那時的情景來。

  我開不得口。這樣奇妙的音樂,我在北京確乎未曾聽到過,所以即使如何愛國,也辯護不得,因為他雖然目無所見,耳朵是沒有聾的。

  「北京卻連蛙鳴也沒有……」他又嘆息說。

  「蛙鳴是有的!」這嘆息,卻使我勇猛起來了,於是抗議說,「到夏天,大雨之後,你便能聽到許多蝦蟆叫,那是都在溝裡面的,因為北京到處都有溝。」

  「哦……」

  過了幾天,我的話居然證實了,因為愛羅先珂君已經買到了十幾個蝌蚪子。他買來便放在他窗外的院子中央的小池裡。那池的長有三尺,寬有二尺,是仲密所掘,以種荷花的荷池。從這荷池裡,雖然從來沒有見過養出半朵荷花來,然而養蝦蟆卻實在是一個極合式的處所。

  蝌蚪成群結隊的在水裡面游泳;愛羅先珂君也常常踱來訪他們。有時候,孩子告訴他說,「愛羅先珂先生,他們生了腳了。」他便高興的微笑道,「哦!」

  然而養成池沼的音樂家卻只是愛羅先珂君的一件事。他是向來主張自食其力的,常說女人可以畜牧,男人就應該種田。所以遇到很熟的友人,他便要勸誘他就在院子裡種白菜;也屢次對仲密夫人勸告,勸伊養蜂,養雞,養豬,養牛,養駱駝。後來仲密家果然有了許多小雞,滿院飛跑,啄完了鋪地錦的嫩葉,大約也許就是這勸告的結果了。

  從此賣小雞的鄉下人也時常來,來一回便買幾隻,因為小雞是容易積食,發痧,很難得長壽的;而且有一匹還成了愛羅先珂君在北京所作唯一的小說《小雞的悲劇》裡的主人公。有一天的上午,那鄉下人竟意外的帶了小鴨來了,咻咻的叫著;但是仲密夫人說不要。愛羅先珂君也跑出來,他們就放一個在他兩手裡,而小鴨便在他兩手裡咻咻的叫。他以為這也很可愛,於是又不能不買了,一共買了四個,每個八十文。

  小鴨也誠然是可愛,遍身松花黃,放在地上,便蹣跚的走,互相招呼,總是在一處。大家都說好,明天去買泥鰍來餵他們罷。愛羅先珂君說,「這錢也可以歸我出的。」

  他於是教書去了;大家也走散。不一會,仲密夫人拿冷飯來餵他們時,,在遠處已聽得潑水的聲音,跑到一看,原來那四個小鴨都在荷池裡洗澡了,而且還翻觔鬥,吃東西呢。等到攔他們上了岸,全池已經是渾水,過了半天,澄清了,只見泥裡露出幾條細藕來;而且再也尋不出一個已經生了腳的蝌蚪了。

  「伊和希珂先,沒有了,蝦蟆的兒子。」傍晚時候,孩子們一見他回來,最小的一個便趕緊說。

  「唔,蝦蟆?」

  仲密夫人也出來了,報告了小鴨吃完蝌蚪的故事。

  「唉,唉!……」他說。

  待到小鴨褪了黃毛,愛羅先珂君卻忽而渴唸著他的「俄羅斯母親」了,便匆匆的向赤塔去。

  待到四處蛙鳴的時候,小鴨也已經長成,兩個白的,兩個花的,而且不復咻咻的叫,都是「鴨鴨」的叫了。荷花池也早已容不下他們盤桓了,幸而仲密的住家的地勢是很低的,夏雨一降,院子裡滿積了水,他們便欣欣然,游水,鑽水,拍翅子,「鴨鴨」的叫。

  現在又從夏末交了冬初,而愛羅先珂君還是絕無消息,不知道究竟在那裡了。

  只有四個鴨,卻還在沙漠上「鴨鴨」的叫。

一九二二年十月

①井上紅梅訳

 

鴨の喜劇

 

 ロシヤの盲目詩人エロシンコ君が、彼の六絃琴げんきんを携えて北京ペキンに来てから余り久しいことでもなかった。彼はわたしに苦痛を訴え

「淋しいな、淋しいな、沙漠の上にある淋しさにも似て」

 これは全く真実の感じだ。しかしわたしはいまだかつて感得したことが無い。わたしは長くここに住んでいるから「芝蘭しらんの室に入れば久しうしてその香を聞かず」ただ非常に騒々しく思う。しかしわたしのいわゆる騒々しさは、彼のいわゆる淋しさかもしれない。

 わたしは北京にいると、春と秋がないように感じるが、長く北京にいる人の話では、ここではせんにはこんなに暖かいことがなかった。地気が北転しているのだという。しかしわたしにはどうしても春と秋が無いように思われる。冬の末と夏の初めが受け継ぎ受け渡され、夏が去ったかと思うとすぐに冬が始まる。

 ある日、すなわちこの冬の末、夏の初めの夜間であった。わたしはたまたま暇を得たのでエロシンコ君を訪問した。彼はずっと仲密ちゅうみつ君の屋敷の中に住んでいたが、この時一家の人は皆ねむっていたので、天下は至極安静であった。彼は独り自分の臥榻ねいすの上にもたれて、黄金色きんいろの長髪の間にはなはだ高い眉がしらをややしわめて、旧游きゅうゆうの地ビルマビルマの夏の夜を偲んでいたのだ。

「こんな晩だ」

 と彼は言った。

ビルマはどこもかしこも皆音楽だ。部屋の間、草の間、樹の上、みな昆虫の吟詠があっていろいろの音色が合奏し、いとも不思議な感じがする。その間に時々蛇の声も交って『シュウシュウ』と鳴いて蟲の声に合せるのではないか……」

 彼はあの時の気分を追想するかのように想い沈んだ。

 わたしは開いた口が塞がらなかった。こんな奇妙な音楽は、確かに北京では、未だかつて聴いたことがないのだから、いかに愛国心を振起しても弁護することは出来ない。彼は眼こそ見えないが、耳はつんぼではない。

「北京には蛙の鳴声さえない……」

 と、彼は嘆息した。この嘆息はわたしを勇猛ならしめ

「蛙の鳴声ならありますよ」

 と、早速抗議を持出した。

「夏になって御覧なさい。大雨のあとで、あなたは蒼蝿うるさいほど蝦蟇がまの叫びを聴き出すでしょう。あれは皆どぶの中に住んでいるのです。北京にはどこにも溝がありますからね」

「おお……」

 

 幾日か過ぎると、わたしの話は明かに実証された。エロシンコ君はその時もう、いくつかのお玉杓子を買って来た。買って来ると彼は窓外そうがいの庭の中程にある小さな池の中に放した。その池は長さ三尺、ひろさ二尺ぐらい、仲密君が蓮の花を植えるために掘ったもので、この池の中からかつて半朶はんだの蓮の花を見出すことが出来なかったが、蝦蟇を飼うには実に持って来いの場所であった。お玉杓子は常に隊を組み群をなして水の中に游泳している。エロシンコ君は暇さえあると、彼等を訪問していたが、時に依ると子供等が

「エロシンコ先生、彼等に足が生えましたよ」と告げると、彼は非常に嬉しそうに

「おお……」

 と、微笑むのであった。

 それはそうと池沼を養成した音楽家エロシンコ君はたしかに一つの事業家であった。彼は本来みずから働いてみずから食うことを主張した。常に女は牧畜をなし男は田を耕すべしと主張して、たまたまごく親しい友達に逢うと彼は邸内に白菜の種を蒔けと勧めた。またしばしば仲密夫人に勧告して、蜂を飼え、とりを飼え、牛を飼え、駱駝らくだを飼えとさえいうのだ。あとで果して仲密君の屋敷内に群鶏が雑居して庭じゅうを飛び廻り、地面の上に敷かれた美しい錦の若葉を無残にもついばみ尽した。たいていこれはエロシンコ君の勧告の結果だろうと思われる。

 それから田舎者はしょっちゅうやって来て、一遍に何羽となく買ってもらう。というのはにわとりは食い過ぎたり発熱したりしやすく、なかなか長寿を得難いからだ。しかもその中の一羽は、エロシンコ君が北京滞在中作った唯一の小説、「小鶏の悲劇」の中の主人公とさえなった。ある日の午前、その田舎者は珍しくも小鴨をたくさん持って来てピヨピヨと鳴いている。仲密夫人は要らないと断ったが、エロシンコ君が出て来たので、彼等はエロシンコ君の両手の中に小鴨を一つ置くと、小鴨は両手の中でピヨピヨと鳴き出したので、とても可愛らしくなって買わずにはいられなくなった。一つが八十文で、一遍に四つも買った。

 小鴨はとても可愛らしい。身体じゅうが松花まつはなのように黄ばんで、地面の上に置くとひょろひょろと歩き出し、互に呼び交し、いつも一所に集ってピヨピヨと鳴いている。一同は喜んで明日はどじょうを買ってやりましょうと言った。エロシンコ君はその銭は乃公おれが出すと言った。

 エロシンコ君は本を教えに出掛けたので、皆そこを離れた。仲密夫人は鴨に食わせるために冷飯を持って来たが、遠くの方でパシャパシャと水音がしたので、行ってみると、その四つの鴨が蓮の池の中で行水をつかっていた。彼等はさかとんぼを打ったり、何か食べたりしていたようであったが、彼等が陸へ上ると、池の中はすっかり濁っていて、しばらく経って澄んだのを見ると、泥の中に何本かの蓮根が剥き出しに見え、その近辺にはもう足の生えたお玉杓子が一つも見当らなかった。

「エロシンコ先生、蟇の子がなくなってしまいました」

 晩になって彼が帰って来ると、子供等の中で一番小さいのがせわしなく話した。

「おお? 蟇が?」

 仲密夫人は出て来て、小鴨がお玉杓子を食べてしまったことを報告した。

「おや、おや」

 小鴨の黄色い毛が褪せるようになってからエロシンコ君はたちまちロシヤの母親を想い出し、チタに向って匇々そうそう立去った。

 四方の蛙が鳴く時分になると、小鴨は十分成長した。二つは白、二つはぶちで、そうしてもうピヨピヨと言わなくなって、ガヤガヤというようになった。蓮池は彼等を入れるにはもうあまりに小さくなった。

 幸いにして仲密の屋敷の地勢は低地であったから、一度夕立が降ると庭じゅう水溜りになり、彼等は嬉しげに泳ぎ、もぐり、羽ばたきしてガアガアと叫ぶ。

 現在また夏の末から冬の初めに変るところだ。しかしエロシンコ君からは絶えて消息がない。一体どこに行ってるかしらん。

 ただ四つの鴨があるだけで、それがやはり沙漠の上でガアガアと叫ぶ。

(一九二二年十月)

竹内好

 

あひるの喜劇

 

 ロシアの盲目詩人エロシェンコ君が、愛用のギターをたずさえて北京へ来てまだ間もないころ、私に不平を訴えたことがあった。

 《さびしい、さびしい、沙漠にいるようにさびしい》

 それは噓ではないだろうが、私は一度もそんな感じがしたことはない。住みなれてみれば「芝蘭の室に入るも久しうしてその香を聞かず」で、私はむしろ騒々しい気がする。もっとも、私のいう騒々しいが、かれのいうさびしいに当るのかもしれない。

 ただ私は、北京には春と秋がないという感じはしている。北京に古くから住んでいる人の話だと、ここは昔はこんなに暖くなかった、地気が北に向いたせいだ、というが、私にはどうも春と秋がないような気がするのだ。晩冬と初夏がくっついていて、夏が去ったと思うとすぐ冬がはじ

まる。

 ある日、ちょうどこの晩冬初夏のころ、そして夜、たまたまひまだったので、ニロシェンコ君を訪ねてみた。かれはずっと仲密チユンミー君の家に寄寓していた。もう家じゅうのものが寝しずまったころで、あたりがしんとしていた。かれはひとり自分のベッドにもたれて、高い眉を金髪のあいだで心もちひそめていた。曾遊の地ビルマを、ビルマの夏の夜を思い出していたのだ。

 《こんな夜は》とかれは言った。《ビルマでは至るところ音楽だ。家のなかも、草むらも、木の上も、どこもかも虫の声よ。いろんな声がいっしょになって、すばらしい合奏なんだ。あいだに〈シュッ、シュッ〉というへびの鳴き声が絶えずまじるが、それも虫の声と調和して……》その情景を思いうかべようとするらしく、かれは思いに沈んだ。

 私は何も言うことができなかった。こんな珍しい音楽は、たしかに北京では耳にしたことがない。だから、どんなに自分の国を弁護したくても、するわけにいかない。かれは眼こそ見えないが、耳はよく聞こえるのだから。

 《北京ときたら、蛙の声さえ聞こえない……》かれはまた歎息した。

 《蛙は鳴きますよ!》その歎息が私をいきおいづけ、私はこう抗議した。夏になると、大雨のあと蛙の鳴き声がたくさん聞こえますよ。蛙は溝のなかにいるでしょ。北京には至るところ満があるからね》

 《ほう……》

 

 数日して私の言ったことは噓でないと証明された。エロシェンコ君が十数匹のおたまじゃくしを手に入れることができたから。かれはおたまじゃくしを買って帰ると、窓の外の中庭のまん中にある小さな池へ放してやった。その池は、長さ三尺、幅二尺、仲密チユンミー君が蓮󠄀はすを植えるために掘った蓮󠄀池である。その蓮󠄀池からは、蓮󠄀の花は一度も姿を見せなかったが、蛙を飼うにはもってこいの場所だった。

 おたまじゃくしは群れをなして水のなかを泳ぎまわり、エロシェンコ君はしばしば立ちよった。あるとき、子どもが《エロシェンコさん、みんな足が生えましたよ》と告げると、かれは愉快そうにはほえんで、《ほう》と言った。

 だが池の音楽家の養成は、エロシェンコ君にとって片手間仕事にすぎない。働かざるもの食うべからずがかれの持説で、女は牧畜を、男は農耕をが口ぐせだった。そこで親しい友だちにあうと、きまって庭に白菜を植えなさいとすすめた。仲密夫人にも、しばしばはちを飼いなさい、鶏を飼いなさい、豚を飼いなさい、牛を飼いなさい、駱駝らくだを飼いなさい、とすすめた。のちに仲密君の家では、ひよこの群れが庭じゅうをとび廻るようになり、松葉まつば牡丹ぼたんの若芽をみんな食ってしまったのも、その勧告のせいかもしれない。

 それからは、ひよこ売りの農民が、しょっちゅうやって来た。来るたびに、きまって何羽か買った。ひよこはよくふんづまりや下痢症状になって、とかく長生きしないから。おまけにそのなかの一羽は、エロシェンコ君が北京で書いた唯一の小説『ひよこの悲劇』の主人公にもなった。ある日の午前のこと、その農民は、思いがけずあひるのひなをもって来た。あひるの雛はピイピイ鳴いていた。しかし仲密チユンミー夫人は、いらないと言った。そこへエロシェンコ君が顔を見せたので、一羽の雛をかれの両手の上においてやると、あひるの雛は両手のなかでピイピイ鳴いた。エロシェンコ君は、これもかわゆくてたまらず、買わずにいられなかった。一羽が銅銭八十、全部で四羽買った。

 あひるの雛は、ほんとうにかわゆかった。全身がきいろで、地面におくと、よちよち歩いて、たがいに呼びあい、いっしょに集る。みんなで相談して、あす、どじょうを買ってきて食わせよう、ということになった。《どじょう代も私がもちましょう》とエロシェンコ君が言った。

 かれはそれから講義に出かけて行き、一同は散会した。まもなく仲密夫人が、あひるの雛に残飯をやりに出てみると、遠くから水をはねかす音が聞こえた。いそいで近づいてみると、四羽の雛が蓮󠄀池で水を浴びていた。しかもトンボ返りをして何か食っていた。すくって岸へあげてやったが、池はすっかり濁っていた。しばらくして、水が澄んでから眺めると、細い蓮󠄀根が二、三本泥の外へ出ているだけで、足の生えたおたまじゃくしの姿は一匹もなかった。

 《イオシコさん、いないよ、蛙の赤ちゃん》と、夕方かれがもどるなり、子どもたちのなかでいちばん小さな子が、大いそぎで告げた。

 《エッ、蛙?》

 仲密夫人も出てきて、あひるの雛がおたまじゃくしを食べてしまった報告をした。

 《おやおや……》とかれは言った。

 あひるの雛のきいろい生毛うぶげのぬけ変るころ、エロシェンコ君は急にかれの「母なるロシア」を恋い慕って、あわただしくチタへ旅立った。

 あたり一面が蛙の声になるころには、あひるの雛も一人前になった。二羽は白、二羽はぶち、もうピイピイと鳴かずに、ギャアギャアと鳴いた。蓮󠄀池も遊びまわるにはもう小さすぎた。さいわい仲密チユンミー君の家は低地なので、夏の豪雨のあとは中庭全体が水たまりになる。あひるたちは大喜びで、泳いだり、もぐったり、羽ばたいてギャアギャア鳴く。

 いままた夏が去って冬がはじまりかけている。エロシェンコ君はどこにいるやら、まだ便りがない。

 四羽のあひるだけが、いまも沙漠でギャアギャア鳴きつづけている。

一九二二年十月

(pp. 182-186)

高橋和巳

 

家鴨の喜劇

 

 ロシアの盲目詩人エロシェンコ君がギターをたずさえて北京に来てからしばらくして、私に愁訴して言った。

「さびしい、さびしい、砂漠にいるようにさびしい!」

 これは真実にちがいない。だが私はまだ一度もそう感じたことはなかった。私は住みなれて、「芝蘭の室に入ること、久しくして而も其の香を聞かず」ただ騒々しいと思っていただけだった。だが私のいう騒々しさは、もしかすると彼のいうさびしさのことなのかもしれない。

 私はしかし北京には春と秋がないような気がしていた。北京に長くいる人は、地気が北転した、ここは以前はこんなに暖かくはなかった、という。だが私にはどうも春と秋がないように思える。冬の末と夏の初めがくっついていて、夏が去ると、すぐ冬がはじまる。

 ある日それはその冬の末、夏の初めのこと、かつ夜のことだった。私はたまたま閑暇をえて、エロシェンコ君を訪問した。彼はずっと仲密チユンミー魯迅の弟、周作人)君の家に寓居していた。その時は家のものはみな睡っていて、すべてが静かだった。彼はひとり自分のベッドにもたれて、長い金髪の垂れた高い眉稜をかすかにしかめていた。それは曽遊の地のビルマ、その夏の夜を思い出していたのだった。

「こういう夜に」と彼は言った。「ビルマではいたる所が音楽だった。家の中も、草むらも、樹の上にも、みな虫が鳴いている、いろんな虫の音が、合奏になって、素晴しい。その間にときどき蛇の『シッシッ!』という鳴き声もはさまる。だがそれも虫の音と調和していて……」彼は思いに沈み、当時の情景を想い出そうとするようだった。

 私には口ははさめなかった。そういう珍しい音楽を、これまで北京ではたしかに聞いたことがない。それゆえにたとえどんな愛国心をもってしても、弁護できない。なぜなら彼は目は見えないけれども、耳は聾ではないのだから。

「北京には蛙の鳴き声すらない……」

 彼はまた歎息して言った。

「蛙の鳴き声はありますよ!」その歎息が、かえって私をふるいたたせ、それでこう抗議した。「夏になると、大雨のあと、ガマがたくさん鳴くのが聞けるよ。それはみな溝の中にいるんだ。北京にはいたるところに溝があるからね」

「ほう……」

 

 数日たって、思いがけず私の言葉は実証された。というのはエロシェンコ君が十数匹のおたまじゃくしを買ったからである。彼は買ってくると窓の外の庭の真中にある小池に放った。その池の長さは三尺、はば二尺、仲密が蓮󠄀はすを植えるつもりで掘った蓮󠄀池である。この蓮󠄀池には、従来蓮󠄀の花のかげも見られなかったが、ガマを飼うのには実際恰好の場所だった。

 おたまじゃくしは群がって水面を泳ぎ、エロシェンコ君はしばしば彼らをおとずれた。あるとき、子どもが彼に「エロシェンコさん、みな脚がはえましたよ」とつげた。彼は愉快げに微笑して「ほう」と言った。

 だが池の音楽家の飼育はエロシェンコ君の仕事の一つにすぎない。彼は従来から働かざるもの食うべからずと主張していて、いつも女は牧畜するがいい、男は田を耕すべきだと言っていた。だから親しい友達に出あうと、庭に白菜を植えなさいとすすめた。またしばしば仲密夫人にもこう勧告した。蜜蜂を飼いなさい、鶏を飼いなさい、豚を飼いなさい、牛を飼いなさい、駱駝らくだを飼いなさい、と。のちに仲密の家にははたしてたくさんひよこがいることとなり、庭中を飛びまわった。ひよこが松葉牡丹の若葉を食べてしまったのも、この勧告の結果かもしれない。

 以来ひよこを売る田舎の人がときおりやってきて、一回くれば数羽は買ったものだ。ひよこはよくふんづまりになったり、下痢をしたりして、なかなか長生きしないからである。そのほかにもう一匹、エロシェンコ君が北京で書いた唯一の小説『ひよこの悲劇』の中の主人公がいる。ある日の午前中、その田舎の人がなんとピイピイ鳴いている家鴨あひるの子を持ってきた。だが仲密夫人はいらないと言った。エロシェンコ君が駆けてきて、彼らは一羽を彼の両手の中に持たせ、家鴨の子は彼の両手の中でピイピイ鳴いた。彼はそれも可憐がって、買わぬわけにはいかなくなってしまい、全部で四羽を買った。一羽八十文だった。

 家鴨の雛はまことに可愛かった。全身が卵色で、地面におくと、よちよちと歩み、互いに呼びあって、一所にかたまる。みなで相談して、明日は泥鰌どじようを買ってきて食べさせてやろうということになった。エロシェンコ君は「その代金は僕に出させてくれたまえ」と言った。

 彼はそれから講義にゆき、みなは散会した。しばらくして、仲密夫人が冷飯を持って彼らにやりにいったとき、遠くのほうではや水をはじく音がしていた。走っていって見ると、なんとその四羽の家鴨の雛はみな蓮󠄀池の中で水浴びしていて、しかもとんぼがえりして、何かを食っていた。彼らを岸にすくいあげてみると、池全体がすでににごっていた。しばらくして、水が澄むと、ただ泥の中から出ている細い蓮󠄀根が数本見えるだけ、しかもすでに脚のはえていたおたまじゃくしはもう一匹も見つからなかった。

「イオシコさん、いなくなったよ。ガマの子が」夕刻、彼が帰ってくるのを見るや、一番幼いのが大急ぎで言った。

「え、ガマ? 」

 仲密夫人も出てきて、家鴨の雛がおたまじゃくしを食べてしまったことを報告した。

「あ、あっ!……」と彼は言った。

 

 家鴨の雛の黄色い毛が色あせたころ、エロシェンコ君は突然「母なるロシア」をなつかしんで、そうそうにチタへ去った。

 あちこちに蛙の鳴くころになると、家鴨の雛もすでに成長し、二羽は白く、二羽はぶちで、しかももうピイピイとは鳴かず、みな「があがあ」と叫んだ。蓮󠄀池ももう彼らが占拠するには小さくなった。幸い仲密の家の地面が低かったので、夏の雨が一降りすると、庭は水びたしになり、彼らは嘻々として、泳ぎ、もぐり、羽ばたいて、「があがあ」と鳴いた。

 いまはまた夏の末と冬の初めの境である。エロシェンコ君の消息は絶えてなく、いったいどこにいるのかもわからない。

 ただ四羽の家鴨だけが、なおも沙漠で「がめがあ」と鳴いている。

(一九二二年十月)

(pp. 172-176)

駒田信二

 

家鴨あひるの喜劇

ロシアの盲詩人エロシェンコ(一八八九~一九五二。一九一四年日本へきて二一年に追放されるまでの間、日本語とエスペラントで主として童話を発表した。日本から北京へ行き、二年間滞在、北京大学エスペラントを教えた。魯迅エロシェンコの長篇󠄀童話劇「桃色の雲」のほか短篇󠄀童話十数篇󠄀を翻訳している)君が彼のあのギターをたずさえて北京にやってきてから間もないころ、わたしに向かってこう訴えた。

「さびしいです、さびしいです。砂漠にいるようにさびしいです」

 それはほんとうにそうだったのだろう。だがわたしは一度もそんなふうに感じたことはなかった。長らく住んでいて、「芝蘭しらんの室に入り、久しくしてしかもその香を聞かず」(『孔子家語』の句。「これと倶に化す」とつづく)で、ただ騒々しいと思っていた。しかしわたしのいう騒々しさが、あるいは彼のいうさびしさなのかもしれない。

 わたしはむしろ、北京には春と秋がないような気がする。古くから北京にいる人は、寒気が北へ移ってしまったのだ、ここは以前はこんなに暖かくはなかった、という。だがわたしにはどうも春と秋がないように思われる。冬の末と夏の初めがくっついており、夏がすぎると冬がまたはじまるのである。

 ある日、それは冬の末で夏の初めのころだった。それも夜だった。わたしはたまたまひまができたので、エロシェンコ君を訪問した。彼はずっと仲密ゆうみ魯迅の弟の周作人の号)君の家に寄寓していた。そのときは家じゅうの者がみな寝てしまって、四辺は静まりかえっていた。彼はひとり自分の寝台にもたれ、ひいでた眉を長い金髪のあいだで微かにひそめていた。彼は曽遊そうゆうの地のビルマを、ビルマの夏の夜を、思い出していたのである。

「このような夜は」と彼はいった。「ビルマではあたりいちめんみな音楽なのです。家のなかも、草むらも、木の上も、どこもかもみな虫の鳴き声です。さまざまな声が、合奏になって、じつにすばらしい。そのあいだにときどき『シュッ・シュッ」という蛇の鳴き声が挟まるのですが、これがまた虫の声と調和して……」彼はじっと考え込んだ。そのときの情景を思いおこそうとしているかのようであった。

 わたしは口を出すことができなかった。そのような巧妙な音楽は、北京では確かまだいちどもきいたことがない。だから、たとえいかに愛国心があったとしても、弁護するわけにはいかない。なぜなら彼は、眼は見えないけれども、耳はよくきこえるのだから。

「北京では、蛙の鳴き声さえない……」彼はまた歎󠄀息していった。

「蛙の鳴き声はしますよ」その歎󠄀息がわたしをふるいたたせてくれた。そこでこういって抗議した。「夏になると、大雨のあと、たくさん蛙の鳴くのがきけますよ。それはみな溝のなかにいるのです。北京には至るところに溝があるから」

「ほう……」

 

 数日すると、はたしてわたしの言葉の正しかったことが証明された。というのは、すでにエロシェンコ君は十数匹のおたまじゃくしを買ってきていたからである。彼は買ってくるとそれを窓の外の内庭のまんなかにある小さな池へ放した。その池は長さが二尺、幅が二尺、仲密が蓮を植えるために掘った蓮池である。この蓮池には、これまで一度も蓮の花の咲くのを見たことはなかったが、蛙を飼うのには確かに極めて適した場所であった。

 おたまじゃくしは群れ集って水のなかを泳ぎまわっていた。エロシェンコ君もしょっちゅう彼らを訪問した。あるとき、子供が「エロシェンコ先生、おたまじゃくしに脚がはえましたよ」と告げると、彼は楽しそうに頰笑んで「ほう!」といった。

 しかし、池の音楽家の養成はエロシェンコ君の一つの仕事にすぎない。彼はこれまでずっと、働いて食う、ということを主張していて、いつも、女は家畜を飼うがよい、男は田を耕すべきだ、といっていた。だから親しい友達に会うと、彼はかならず、庭に白菜を植えるようにすすめた。仲密夫人に対してもしばしば、蜜蜂を飼うこと、鶏を飼うこと、豚を飼うこと、駱駝らくだを飼うことをすすめた。後に仲密の家には実際にたくさんのひよこが庭じゅうをかけまわり、松葉牡丹ぼたんの若葉をみな食べてしまったが、あるいはこれもこの勧告の結果だったかもしれない。

 それ以来、ひよこ売りの田舎の人がしばしばやってきた。くるたびに何羽か買ったが、それはひよこがよく糞づまりになったり下痢をしたりして、めったに長生きをしないからであった。そしてそのなかの一羽が、エロシェンコ君が北京で書いた唯一の小説「ひよこの悲劇」の主人公になったのである。ある日の午前、例の田舎の人が意外にも、ピイピイと鳴いている家鴨あひるのひなを持ってきた。しかし仲密夫人はそれをいらないといった。そこへエロシェンコ君がかけ出してきたので、彼らは一羽を彼の両手のなかに置いてやった。家鴨のひなは彼の両手のなかでピイピイ鳴いた。彼はそれをとても可愛く思ったので、買わないわけにはいかなくなって、全部で四羽を買った。一羽が八十文だった。

 家鴨のひなはほんとうに可愛かった。全身が卵色で、地面に置くとよろよろと歩き、互いに呼びあって一所ひとところにかたまる。一同で話しあって、あした泥鰌どじようを買ってきて食べさせようということになった。エロシェンコ君は「その代金はわたしが出します」といった。

 彼はそれから講義に行き(北京大学エスペラントを教えていた)、一同は散会した。しばらくしてから、仲密夫人が家鴨のひなに冷飯をやろうとして出てくると、遠くで水をはじく音がきこえた。走って行って見ると、四羽の家鴨のひなが蓮池のなかで水浴びをしているのだった。しかも、もんどりを打ってなにかを食べている。手ですくって岸へ上げたが、池はもうすっかり濁ってしまっていた。しばらくたって、水が澄んでから見ると、泥のなかから細い蓮根が何本か出ているだけで、すでに脚のはえていたおたまじゃくしは一匹も見つからなかった。

「イオシコさん、いなくなったよ、蛙の子」夕方、子供たちは彼が帰ってくるのを見ると、いちばん小さい子供が急いで告げた。

「え? 蛙?」

 仲密夫人も出てきて、家鴨のひながおたまじゃくしを全部食べてしまったことを報告した。

「あ、あっ……」と彼はいった。

 

 家鴨のひなの黄色い羽が抜けるころ、エロシェンコ君は急に彼の「母なるロシア」が恋しくなり、あわただしくチタへ去って行った。

 あちこちに蛙が鳴くころになると、家鴨のひなもすっかり成長し、二羽は白で、二羽はぶちだったが、もうピイピイとは鳴かず、みな「ガアガア」と鳴いた。蓮池も彼らが徘徊するのにはもうせますぎた。さいわい仲密の家は地形が低かったので、夏の雨が一降りすると庭がいちめんの水たまりになり、家鴨たちはうれしそうに、泳いだり、もぐったり、羽ばたいたり、「ガアガア」と鳴いたりした。

 いまは、また夏の末が冬の初めにかわろうとしている。エロシェンコ君からはまだなんの便りもなく、どこにいるのかもわからない。

 ただ四羽の家鴨だけが、いまも砂漠のなかで「ガアガア」と鳴いている。

(一九二二年十月)

(pp. 149-154)

⑤松枝茂夫・和田武司訳

 

あひるの悲劇

 

 ロシアの盲目詩人エロシェンコ君が、彼の愛用のギターをもって北京にやってきてからしばらくして、私にこう訴えた。

「さびしい、さびしい。沙漠にいるようなさびしさですよ」

 それは本音なのだろう。だが、私は、一度もそんなふうに感じたことはない。ここに住んでから久しいが、「芝蘭しらんの室に入るも、久しゅうしてその香を聞かず」である。むしろ、騒々しい気がしていた。もっとも、私のいう騒々しいが、彼のさびしいということなのかもしれない。

 ただ私は、北京には春と秋がないように思う。北京に古くからいる人に言わせれば、地気が北に傾いたためで、ここは昔はこんなに暖くなかったそうだ。だが、私にはどうも、春と秋とがないように思える。冬の終りと夏のはじめがくっついていて、夏が過ぎると、もう冬がはじまっている。

 そうした晩冬初夏のころのある日、それも夜のことであった。私は、たまたまひまができたので、エロシェンコ君を訪ねてみた。彼はずっと仲密チユンミー君(魯迅の弟、周作人のこと)の家に寄寓していた。このときは、家じゅうのものがもう寝についたあとで、天下はたいへんにひっそりしていた。彼だけがひとり、寝台によりかかって、高い眉を金髪のあいだにうずめて、心もち愁い顔をしていた。それは、曾遊の地ビルマを、ビルマの夏の夜を思い出していたのである。

「こんな晩には」と彼はいった。「ビルマではどこもかしこも音楽です。家のなかも、草むらも、木の上も、どこも虫の鳴き声がする。いろんな音の合奏で、じつにすばらしい。そのあいだにときどき『シュルシュル』という蛇の鳴き声も、それが妙に虫の声と調和して……」彼はふと黙りこんだ。そのときの情景を思い浮かべているようであった。

 私は何もいうことがなかった。こんな珍しい音楽は、たしかに北京では聞いたことがない。だから、いかにお国自慢であっても弁護するわけにはいかない。彼は、目は見えないが、耳はツンボではないのだから。

「北京では、蛙の鳴き声もしない……」彼はさらにこう歎󠄀息した。

「蛙は鳴くよ」その歎󠄀息が私をいきおいづけたらしく、私はこう抗議した。「夏になれば、大雨が降ったあとで、たくさん蛙の鳴くのがきけますよ。ドブのなかにいるんだ。北京にはどこでもドブがあるからね」

「ほう……」

 

 数日すると、はたして私の言い分の正しさが証明された。というのは、エロシェンコ君は、すでに十数匹のおたまじゃくしを手に入れていたからである。彼はそれを買って帰ると、窓の外の内庭のまんなかにある小さな池のなかへ放してやった。その池は長さが二尺、幅が二尺ばかりのもので、仲密君が、蓮󠄀を植えるために掘った池である。この蓮󠄀池からは、それまで蓮󠄀の花が咲いたのを一度も見かけなかったが、蛙を飼うにはたしかに恰好の場所であった。

 おたまじゃくしは、隊伍を組んで水のなかを泳ぎまわっていた。エロシェンコ君も、しょっちゅう訪問にやってきた。あるとき、子どもが彼をつかまえて告げた。「エロシェンコ先生、おたまじゃくしに足が生えましたよ」彼は楽しそうにほほえんで「ほう」といった。

 だが、池のなかの音楽家の養成は、エロシェンコ君にとって、事業の一端にすぎなかった。彼は、働いて食うということを、これまでずっと主張していた。女は家畜を飼う、男は畑を作る、これが彼の口癖であった。だから、親しい友だちにあうと、きまって庭に白菜を植えなさいとすすめた。仲密チユンミー夫人にも、しばしば、蜂を飼うこと、鶏を飼うこと、豚を飼うこと、牛を飼うこと、ラクダを飼うこと、をすすめた。のちに仲密の家では、実際にたくさんの鶏が庭じゅうを飛びまわって、松葉牡丹の新芽をみんなついばんでしまう事態になったが、これもたぶん、その勧告の結果であろうか。

 それからは、ひよこ売りの農民が、しょっちゅうやってきた。そのたびに、何匹か買ったが、それというのも、ひよこは、糞づまりにはなる、下痢はおこすで、めったに長生きしなかったからである。ところで、そのなかの一匹が、エロシェンコ君が北京で書いた唯一の小説「ひよこの悲劇」の主人公にもなったのであった。ある日の午前のこと、その農民が、思いがけないことに、こんどはあひるの雛をもってきた。あひるの雛はピイピイ鳴いていた。しかし仲密夫人は、いらないといった。そこへエロシェンコ君があたふたと出てきた。彼らは一匹をエロシェンコ君の両手のなかにおいてやった。あひるの雛は、彼の両手のなかでピイピイ鳴いていた。その愛らしげな様子といったらたいへんなもので、そこで彼は、こんども買わないわけにいかなくなった。全部で四匹、一匹八十文で買った。

 あひるの雛は、ほんとうに愛らしかった。からだ全体が玉子色で、地面におくと、よちよち歩いて、たがいに呼びあい、一個所にかたまりあおうとした。みんなで相談して、明日はどじょうを買ってきて食わせよう、ということになった。エロシェンコ君はいった。「そのお金は、私がもちましょう」

 こうして彼は講義に出かけていき(北京大学エスペラント語を教えた)、みんなも散会した。まもなく、仲密夫人があひるの雛に

残飯をやろうとして出てきたところ、遠くのほうで水をはねかえす音がした。いそいで行ってみると、四匹の雛が蓮󠄀池で水を浴びていた。しかも、とんぼ返りをしては、何かを食べている。つかまえて岸にあげてやったが、池はすっかり濁ってしまった。だいぶたって、水が澄んでから見ると、細い蓮󠄀根が二、三本、泥のなかから出ているだけで、足の生えたおたまじゃくしの姿は、一匹もいなくなっていた。

「イオシコ先セ、いないよ、蛙の赤ちゃん」夕方になっ彼が帰ってきたのを見るなり、子どもたちのなかでも一番小さな子どもが、さっそく告げた。

「え、蛙?」

 仲密夫人も出てきて、あひるの雄がおたまじゃくしを食べてしまった話を報告した。

「やれ、やれ……」と彼はいった。

 

 あひるの離の黄色の毛が抜けかわるころ、エロシェンコ君は急に彼の「母なるロシア」が恋しくなって、あわただしくチタへ向って出発した。

 あちこちで蛙が鳴きはじめたころには、あひるの離も大人になった。二匹は白く、二匹はぶちであった。もうピイピイとは鳴かずに、ギャアギャアと鳴いていた。蓮󠄀池も、彼らがうろうろするにはもう小さすぎた。さいわい、仲密の家は、地勢が低かったので、夏の雨が一降りすると、中庭は一面に水がたまった。あひるたちは大よろこびで、泳いだり、もぐったり、羽ばたいたり、ギャアギママア鳴いたりした。

 いままた、夏が終って冬がはじまろうとしている。エロシェンコ君からはまだ何の便りもない。いったい、どこにいるのだろう。

 四匹のあひるだけが、まだ沙漠のなかでギャアギャア鳴いている。

(一九二二年十月)

(pp. 121-124)

⑥丸山昇訳

 

 

あひるの喜劇

 

 ロシアの盲目の詩人エロシェンコ君が、あのギターーを携えて北京に来て間もなく、私に訴えたことがある。

「寂しい、寂しい、砂漠にいるように寂しい」

 これは実感だったにちがいないが、私はそういう感じを持ったことがない。ながいこと住んでいると、「芝蘭しらんの室に入り、久しくしてその香を聞かず」で、ただ騒々しいと思うばかりだ。もっとも、私のいう騒々しいが、そのまま彼のいう寂しいなのかもしれない。

 私はしかし、北京には春と秋がないような気がする。北京に古くからいる人は、地気が北寄りにずれた、ここは以前はこんなに暖かくなかった、という。ただ私はやはり春と秋がないと思う。晩冬にすぐつづいて初夏がやって来るし、夏がすぎたと思うと、また冬がはじまる。

 ある日、それはこの晩冬から初夏に変わろうとするころ、それも夜だった。たまたまひまができたので、エロシェンコ君を訪問した。彼はずっと仲密チユンミー君の家に寄寓きぐうしている。このときは家中寝静まって、どこもひっそりしていた。彼は一人自分のベッドにもたれ、金色の髪のあいだの高いまゆをかすかに寄せていた。曾遊そういうの地のビルマを、ビルマの夏の夜を想っていたのだろう。

「こんな夜には」と彼は言った。「ビルマではどこもみんな音楽です。家の中でも、草むらでも、木の上でも、虫が鳴きます。いろいろな声が、合奏になって、とても神秘的です。これに始終、蛇の鳴き声がまじります、『シュッシュッ』。でもそれも虫の声と調和して……」、彼はそのときの光景を思い出そうとするかのように、黙りこんだ。

 私は何も言えなかった。そんな不思議な音楽は、北京ではたしかに聞いたことがない。だから、いくら自国びいきでも、弁護のしようがない。彼は眼は見えないが、耳は聞こえるのだから。

「北京ではかえるの鳴き声さえしません……」、彼はまた嘆息した。

「蛙の鳴き声はしますよ」、この嘆息で、むしろ私は勇敢になり、抗議した。「夏になれば、大雨のあとなど、たくさんの蛙が鳴くのが聞こえますよ、溝の中でね。北京にはどこにも溝があるから」

「ほう……」

 

 数日後、私の言葉が実証された。エロシェンコ君がおたまじゃくしを見つけて十数匹買って来たのである。彼はそれを窓の外の庭の中央にある小さな池に放した。池は長さ三尺、幅二尺あり、仲密が蓮󠄀はすを植えようと掘った蓮󠄀池である。この蓮󠄀池には、蓮󠄀の花はとんと出て来なかったが、蛙を飼うにはまさに恰好かつこうの場所だった。

 おたまじゃくしは群がって水の中を泳いでいた。エロシェンコ君もよく足を運んで彼らを訪問した。ときどき、子供が彼に報告した、「エロシェンコさん、おたまじゃくしに足が生えましたよ」、すると彼はうれしそうに微笑して言った、「ほう」

 しかし、池の音楽家の養成は、エロシェンコ君にとってはいろいろある仕事のうちの一つにすぎなかった。彼は以前から働いて食えという主張の持主で、女は家畜を飼いなさい、男は畠を耕すべきだ、と始終言っていた。そこで親しい友人に会うと、かならず庭に白菜を植えなさい、と勧めた。仲密夫人にも、蜂を飼いなさい、鶏を飼いなさい、豚を、牛を、駱駝らくだを飼いなさい、とくり返し勧めた。その後仲密の家にはほんとうにたくさんのひよこが庭中とびまわるようになり、松葉牡丹ぼたんの若芽をすっかり食べてしまったのだが、たぶんそれも、この勧告の結果とうことになるかもしれない。

 それ以来、ひよこ売りの農民がよくやって来るようになった。来るたびに数匹買った。ひよこは消化不良や伝染病になりやすく、なかなか長生きしないからである。そして、その一匹はエロシェンコ君が北京で書いた唯一の小説「ひよこの悲劇」の主人公になった。ある日の午前のこと、その農民が珍しくあひるのひなを持って来た、ピイピイ鳴いている。しかし仲密夫人はいらないと言った。エロシェンコ君も出て来たので、一羽を彼の手に置いてやると、あひるの雛は彼の手の中でピイピイと鳴いた。彼はこれもかわいくて、買わずにいられなかった。一羽八十文で全部で四羽買った。

 あひるの雛もまことにかわいかった。全身黄色で、地上に置くと、よちよちと歩き、たがいに呼び合って、いつもいっしょにいる。みんなで相談して、明日ドジョウを買って来て食べさせてやろう、と決めた。エロシェンコ君が「そのお金も、私が出しましょう」と言った。

 彼はそして授業に行った。みんなもそれぞれに別れた。間もなく、仲密夫人が雛にやろうと冷や御飯を持って出てみると、遠くで水をはねる音がしていた。急いで行ってみると、あの四羽のあひるの雛が蓮󠄀池で水浴びをしていた。しかも、まっ逆さまに首を突っこんでは、何か食べている。彼らを岸に追い上げたが、池はすっかり濁っていた。しばらくすると、水は澄んだが、泥の中から細い蓮󠄀根が数本現れているだけで、もう足が生えていたおたまじゃくしは一匹も見つからなかった。

「イオシコさん、いなくなっちゃったの、蛙の赤ちゃん」、夕暮れどき、彼が帰って来るなり、子供たちのうちでいちばん小さい子が大急ぎで言った。

「うん? 蛙?」

 仲密夫人も出て来て、あひるの雛がおたまじゃくしを食べてしまった顚末てんまつを報告した。

「おやおや……」、彼が言った。

 

 あひるの雛の黄色い羽毛が抜け変わったころ、エロシェンコ君は急に、彼の「母なるロシア」が恋しくなり、あわただしくチタへ向かって旅立った。

 あたりで蛙が鳴くころ、あひるの雛も大きくなった。白が二羽、ぶちが二羽、そして、もうピイピイとは鳴かず、グヮァグヮァと鳴いた。蓮󠄀池も彼らが遊びまわるにはとっくに小さくなっていた。さいわい仲密の家は土地が低く、夏雨がひと降りすると、庭いっぱいに水がたまった。すると、彼らは大喜びで泳いだり、もぐったり、羽ばたきをしたりして、「グヮァグヮァ」と鳴いた。

 いままた、夏の末から初冬になろうとしているが、エロシェンコ君からはまだようとして消息がない。いったい、どこにいるのだろうか。

 四羽のあひるだけが、相変わらず砂漠で「グヮァグヮァ」と鳴いている。

一九二二年十月

(pp. 172-175)

藤井省三

 

あひるの喜劇

 

 ロシアの盲目の詩人エロシェンコさんは例のギターをげて北京にやってくるとまもなく、僕にこう訴えた。

「寂しい、寂しい、砂漠にいるように寂しい」

 これは真実には違いないが、僕はこれまでそんなふうに思ったことはなく、長いあいだ住んでいると、「芝蘭しらんしつに入り、久しくして其のを聞かず」となり、ひどく騒々しいと思うばかりなのだ。もっとも、僕の言う騒々しさこそ、彼の言う寂しさなのかもしれないが。

 それでも北京には春も秋もないような気はしている。長いあいだ北京にいる人は、大地の霊気の流れが北にずれたのだ、昔はここはこんなに暖かくなかった、と言う。ともかく僕には春も秋もないように思われ、冬の終わりと夏の始まりとが連続しており、夏が去ると、冬が始まるのだ。

 そんな冬が終わり夏が始まるある日のこと、しかも夜中に、たまたま暇のできた僕は、エロシェンコさんを訪ねることにした。彼はずっと仲密チョンミーさん[魯迅の弟・チョウ作人ツオレンペンネーム]の家に住んでおり、このときには家中の人が寝てしまい、この世はたいそう静かだった。彼はひとり自分のベッドにもたれていたが、高い額にかかる長い金髪のあいだの肩にかすかに皺がよっているのは、かつて訪れたことのあるビルマ、その夏の夜を思い出しているのだろう。

「こんな夜には」と彼は言う。「ビルマではどこもかしこも音楽。家の中でも、草むらでも、木の上でも、どこでも虫が鳴いて、いろいろな鳴き声の合奏となって、とても神秘的です。そこにしょっちゅう『シューッ、シューッ』という蛇の鳴き声が入るんですが、それがまた虫の声によく合ってね……」物思いにふけっている彼は、そのときの光景を思い出そうとしているようすである。

 僕は何も言えなかった。そんな不思議な音楽は、たしかに北京では聞いたこともなかったので、たとえいかに僕に愛国心があろうとも、弁護のしようもなく、そもそも彼は眼こそ見えないものの、耳は聞こえるのだ。

「北京ではカエルの鳴き声もない……」彼はまたもやため息をつく。

「カエルの鳴き声ならあります!」彼のため息が、かえって僕を勇敢にさせ、抗議することになったのだ。「夏が来て、大雨が降ると、カエルの大合唱が聞こえましてね、それもみなドブの中から、北京はどこもドブだらけですから」

「ほう……」

 

 数日後、僕の言葉が証明されたのは、エロシェンコさんが十数匹のオタマジャクシを買ったからだ。彼は買ってきたオタマジャクシを自室の窓に面した中庭中央にある小池に放した。その池は長さ一メートル、幅六〇センチ、蓮を植えようとして、仲密チョンミーさんが掘った蓮池である。この池には蓮の花はひとつも咲かなかったが、カエルを飼うには恰好かっこうの場所であった。

 オタマジャクシは群れをなして水中を泳ぎ、エロシェンコさんも足繁く通った。あるとき、子供が彼にこう教えた。「エロシェンコ先生、オタマジャクシに足が生えました」すると彼はうれしそうに微笑んで言った。「ほう!」

 だが池の音楽家の養成は、エロシェンコさんの仕事の一つにすぎなかった。彼は以前から自立した暮らしを主張しており、女性は家畜を飼い、男性は畑を耕すべし、とつねづね説いていた。そこで親しい友人に出会えば、中庭に白菜を植えるといいと勧め、仲密チョンミー夫人にも蜜蜂を飼いなさい、ニワトリを飼いなさい、豚を、牛を、ラクダを飼いなさい、と繰り返し勧めていた。しばらくすると仲密チョンミー家には果たしてひよこが溢れ、庭中をとびまわり、松葉ぼたんの若芽をすっかり食べ尽くしてしまったが、これも彼の忠告の結果なのだろう。

 それ以来ひよこ売りのお百姓がよくやって来たのは、行商のたびに何羽か売れるからで、ひよこは消化器系の病気になりやすく、滅多に長生きせず、しかもそのなかの一羽はエロシェンコさん北京滞在中ただ一つの小説「ひよこの悲劇」の主人公にもなった。ある日の昼近く、例のお百姓が思いがけなくピイピイ鳴いているあひるのひなを持ってきたところ、仲密チョンミー夫人はいらないと断った。エロシェンコさんが飛び出してきたので、皆が一羽を彼の両手の中に置いてあげると、あひるの雛は彼の両手の中でピイピイと鳴く。彼にはそれがとてもかわいくて、買わずにはいられなくなり、一羽八○文、全部で四羽を買った。

 あひるの雛というのもたしかにかわいいもの、全身黄色で、地面に置くと、よちよち歩き、互いに呼び合い、いつも一緒にいた。明日ドジョウを買ってきて食べさせよう、と皆の相談も決まる。エロシェンコさんは「そのお代も僕に出させて下さい」と言った。

 それから彼は授業に出かけ、皆もその場を離れた。まもなく、仲密チョンミー夫人が餌に残飯をあげようとやってくると、遠くで水の跳ねる音がするので、急いで見に行くと、例の四羽のあひるの雛が蓮池で水浴びをしており、そればかりか真下に首を突っ込んでは何か食べている。雛を岸に追い上げたが、池はすっかり濁っており、しばらくして水が澄んでも、泥の中には細い蓮の根が数本見えるだけ。そして足の生えていたオタマジャクシはもはや一匹も見つからなかった。

エロシェンコ先生、いなくなっちゃった、カエルの赤ちゃんが」夕方、子供たちは帰宅してきた彼を見つけるや、いちばん小さい子が大急ぎで言った。

「えっ、カエル?」

 仲密チョンミー夫人も出てきて、あひるの雛がオタマジャクシを平らげてしまった顚末を報告した。

「ああ、あ!……」と彼は声をあげた。

 

 あひるの雛の産毛が抜け替わるころ、エロシェンコさんは突然彼の「母なるロシア」が恋しくなり、急いでチタへと去って行った。

 あたりがカエルの鳴き声だらけになるころには、あひるの雛も成長して、二羽が白、二羽がぶちの羽となり、しかももはやピイピイと鳴くのではなく、いつも「ガーガー」と鳴く。蓮池もあひるたちを遊ばせるにはもう小さすぎたが、さいわい仲密チョンミーさんの家は土地が低く、夏の雨がひと降り来ると、中庭いっぱいに水が溜まり、あひるは大喜び、泳いだり、潜ったり、羽ばたいたりしては「ガーガー」と鳴くのである。

 今再び夏の終わりから冬の始めへの変わり目がめぐってきたが、エロシェンコさんはあいかわらずまったく消息がなく、いったいどこにいるかわからない。

 ただ四羽のあひるが、今も砂漠で「ガーガー」鳴いているばかりである。

一九二二年一〇月

(pp. 166-172)

*1:引用は Wikisource による。