ひよこのるるの自由研究

日本語で読める世界の文学作品と、外国語に翻訳されている日本語の文学作品を、対訳で引用しています。日本語訳が複数あるものは、読みやすさ重視で比較しておすすめを紹介しています。世界中の言語で書かれたもの・訳されたもののコレクションを目指しています。

堀辰雄『風立ちぬ』のフランス語版を日本語に訳してみる 8

[フランス語版]Une dizaine de minutes plus tard je sortais du bois et, parvenant soudain à un endroit découvert, pénétrai dans une prairie qui, recouverte d'une herbe drue, s'étirait sous mes yeux jusqu'à la ligne lointaine de l'horizon.

[フランス語版の日本語訳]10分ほどして森から出ると、急に視界が開けて、遥か彼方の地平線まで草が生い茂る草原に出た。

[原文]私はそれから十数分後、一つの林の尽きたところ、そこから急に打ちひらけて、遠い地平線までも一帯に眺められる、一面に薄の生ひ茂つた草原の中に、足を踏み入れてゐた。

読みやすい日本語にしようと思って文の構造をつづめたりした結果、原文の半分くらいの長さの文になり、全く違う息づかいになった。長い文を味わい楽しませるような原文も決して読みにくくはない。

作品の冒頭と同じ風景に戻ってきた。「一面」という言葉をもう一度思い出そう。

庭は一面雪におおわれていた
Le jardin était recouvert de neige.
家は一面火の海である
La maison est toute en feu [en flammes].
一面の水〔火;麦畑〕
une nappe d'eau [de feu; de blés]*1

さらに「一帯」という言葉も出てきている。

その辺り一帯に
dans tout le voisinage
関西地方一帯に
sur toute la région du Kansai*2

[フランス語版]Je m'étendis non loin de là à l'ombre d'un bouleau dont les feuilles commençaient déjà à jaunir.

[フランス語版の日本語訳]私はそこから遠くない、もう紅葉が始まっている樺の木陰に身を横たえた。

[原文]そして私はその傍らの、すでに葉の黄いろくなりかけた一本の白樺の木蔭に身を横たへた。

[フランス語版]C'était là que tout au long des journées d'été j'étais resté étendu comme je l'étais en ce moment à te regarder peindre.

[フランス語版の日本語訳]それは、私が夏の間じゅう今と同じように寝そべって、お前が絵を描くのを眺めていた場所だった。

[原文]そこは、その夏の日々、お前が絵を描いてゐるのを眺めながら、私がいつも今のやうに身を横たへてゐたところだつた。

こういうときは確かに「それは」より「そこは」の方が自然かもしれない。

日本語らしくしようと思ってフランス語の語順のまま「寝そべって〔……〕眺めていた」と訳したが、原文の方がはるかにすっと頭に入ってくる。これまでも何度も出てきた「ながら」の効用だろうか。

comme je l'étais en ce moment は「今のやうに」。簡潔で明快な日本語だ。

[フランス語版]À l'horizon que de gros nuages sombres barraient presque constamment en été, apparaissaient maintenant les contours de lointaines montagnes qui surgissaient – à quelle distance ? – parmi les hautes herbes courbant à perte de vue leurs épis blancs.

[フランス語版の日本語訳]夏の間は大きな暗い雲にほとんど常に覆われていた地平線の辺りには、今は、見渡す限り白い穂をうなだれさせている背の高い草の間から、遠い山々の輪郭が(どれだけ遠いのだろうか)見えていた。

[原文]あの時には殆んどいつも入道雲に遮られてゐた地平線のあたりには、今は、何処か知らない、遠くの山脈までが、真つ白な穂先をなびかせた薄の上を分けながら、その輪廓を一つ一つくつきりと見せてゐた。

courbant を「うなだれさせている」としたのはちょっと惜しかった。原文は「なびかせた」。

風に草がなびく
Les herbes bougent [s'agitent] au vent.
金持ちになびく
se plier aux riches; se courber devant les riches*3

原文では「遠くの山脈までが」が前に来ていることによって、視点の対象が「地平線のあたり」にうまく落ち着いている。ぼくの訳だと、「今は、」の後でちょっと視点がぐらついてしまっている感じがする。

[フランス語版]Je fixai intensément ces lointaines arêtes montagneuses jusqu'à en retenir les moindres détails, et cependant affleurait à ma conscience la certitude que je venais seulement de percer le secret, jusqu'à présent enfoui au fond de mon être, de ce que la nature m'avait par avance réservé.

[フランス語版の日本語訳]私はこの遠い山々の尾根を、その細部まですべて覚えてしまうほどにじっと見つめていたが、一方で、自然が私に残してくれているものについての、これまで心の奥底に埋もれていた秘密を、今ようやく突き止め始めたばかりなのだというような確信も浮かんできていた。

[原文]私はそれらの遠い山脈の姿をみんな暗記してしまふ位、ぢつと目に力を入れて見入つてゐるうちに、いままで自分の裡に潜んでゐた、自然が自分のために極めて置いてくれたものを今こそ漸つと見出したといふ確信を、だんだんはつきりと自分の意識に上らせはじめてゐた。……

これは多分フランス語訳がずれている。「いままで自分の裡に潜んでゐた」がかかるのは、「自然が自分のために極めて置いてくれたもの」だと取っているようだが、そうではなく、それ「を今こそ漸つと見出したといふ確信」なのではないだろうか。そうすると「今こそ」というのはちょっと変だが、この文脈で「自然」と言っているのはあくまで目に見える風景などのことだと取らないと、文脈的にそぐわない気がする。

「序章」をまるまる訳し終わったところで、このシリーズは一旦やめにしようと思う。『風立ちぬ』の日本語を自分で書こうとしてみるという考えに初めはわくわくしていたけれど、作家のきれいな言葉を自分のだらしない下手くそな日本語で一文一文穢していくのがつらくて、こんなものを人に見せたいわけではないという思いが強くなってきた。

立原道造の厳しい言葉を引いてブログを始めた頃みたいに、ここはぼくが語るよりも素敵な言葉をいろいろ載せていく場所にしたい。アマチュア的な語学の楽しみと絡めながらそういうことをできる計画を立てている。計画はついえてしまう方が美しいかもしれないけれど、それでも、少しずつでも、やってみたいことをやっていこうと思う。

*1:『コンコルド和仏辞典』(白水社)。

*2:同上。

*3:同上。