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堀辰雄『風立ちぬ』のフランス語版を日本語に訳してみる 6

[フランス語版]Deux ou trois jours plus tard je t'aperçus le soir dans la salle du restaurant en train de dîner avec ton père, venue te chercher.

[フランス語版の日本語訳①]2、3日後の夕方、お前を迎えに来たお前の父と一緒にお前は食堂で夕食を取っていた。
[フランス語版の日本語訳②]2、3日後の夕方、私はお前を迎えに来たお前の父と一緒にお前が食堂で夕食を取っているのを見かけた。

[原文]それから二三日した或る夕方、私は食堂でお前がお前を迎へに来た父と食事を共にしてゐるのを見出した。

2パターン書いてみたが、どちらも、「お前がお前を」のような表現を避けようとして、かえって読みにくくなっている。②の「お前が」を前に出して、さらに「食堂で」も前に出すと、原文にわりと近い形になる。

[フランス語版]Tu me tournais le dos avec un peu de raideur.

[フランス語版の日本語訳]お前は体を少しこわばらせて私に背を向けた。

[原文]お前は私の方にぎごちなささうに背中を向けてゐた。

原文の「ぎこちなささうに」はちょっと違和感がある。「ぎこちない」自体が外から見た様子を表す言葉なので、「そう」をつける必要はない気がする。

[フランス語版]Ton attitude, tes gestes qui te venaient sans doute presque inconsciemment du seul fait d'être assise à côté de ton père me faisaient penser à ceux d'une toute jeune fille que je découvrais en toi pour la première fois.

[フランス語版の日本語訳①]父親の隣に座っているというただそれだけの理由でお前がほとんど無意識にしているらしいその態度や身ぶりを見て、私はお前の内に初めて一人のうら若い娘を発見したように感じた。
[フランス語版の日本語訳②]父親の隣に座っているというただそれだけのことがお前にほとんど無意識にさせているらしいその態度や身ぶりは、私に、お前の内にそれまで見たことのないようなうら若い娘を思わせた。

[原文]父の側にゐることがお前に殆んど無意識的に取らせてゐるにちがいない様子や動作は、私にはお前をついぞ見かけたこともないやうな若い娘のやうに感じさせた。

原文は無生物主語が続く。「父の側にゐること」がお前にある様子や動作を取らせ、「様子や動作は」私にはお前を〔……〕若い娘のように感じさせた。あからさまに翻訳臭いこういう文はあまり多用したくはないが、うまく使うと文章が締まる気はする。

後半は少し自由に訳したが、そもそもフランス語訳も原文とはちょっと違う方向を向いている気がする。

[フランス語版]« Même si je l'appelais par son nom... murmura-je à part moi, elle resterait impassible et ne se retournerait même pas vers moi... comme doutant que je l'eusse appelée... »

[フランス語版の日本語訳]「もしも私が名前を呼んでも」私は心の中でつぶやいた。「表情一つ変えず、こちらを振り返りもしないのだろうなあ……。私に呼ばれたことを疑いでもするかのように……」

[原文]「たとひ私がその名を呼んだにしたつて……」と私は一人でつぶやいた。「あいつは平気でこつちを見向きもしないだらう。まるでもう私の呼んだものではないかのやうに……」

「平気で~する」というと、「平気で」は後の動詞にかかるのが普通だと思うが、ここでは後と並列になっているというフランス語訳者の読みでおそらく正しいのだろう。ちょっと変な感じはする。ともかく使えるようにしておきたい言葉だ。

危ないのに平気でいる
rester impassible devant le danger
とがめられても平気でいる
écouter imperturbablement les injures
彼は人が困っているのを見ると平気でいられない質だ
C'est un homme qui ne peut pas rester indifférent devant des gens en difficulté.*1

[フランス語版]Ce soir-là, revenu d'une triste et solitaire promenade, je m'attardai par désœuvrement dans le jardin désert de l'hôtel.

[フランス語版の日本語訳]その晩、私は寂しい一人の散歩から帰ってきて、誰もいないホテルの庭で暇をつぶしていた。

[原文]その晩、私は一人でつまらなさうに出かけて行つた散歩からかへつて来てからも、しばらくホテルの人けのない庭の中をぶらぶらしてゐた。

原文は「夕方」から「晩」に時間が流れている。フランス語訳はどちらも soir を使っているので、一工夫必要だったかもしれない。

une triste et solitaire promenade の原文は「一人でつまらなさうに出かけて行つた散歩」。triste が「つまらない」なのかということと、例の「~さう」という言い方はさておくとして、こういう名詞句を訳すときに「出かけて行つた」のように動詞を加えてもいいというのは参考になる。

je m'attardai に対応するのは「(かへつて来てから)も、しばらく」。とてもなめらかな日本語だ。

[フランス語版]Les lis de montagne embaumaient.

[フランス語版の日本語訳]山百合のいい香りがしていた。

[原文]山百合が匂つてゐた。

[フランス語版]Je regardais distraitement les deux ou trois fenêtres de l'hôtel d'où parvenait encore de la lumière.

[フランス語版の日本語訳]私は、ホテルの部屋のまだ明かりがついている2、3の窓をぼんやりと眺めていた。

[原文]私はホテルの窓がまだ二つ三つあかりを洩らしてゐるのをぼんやりと見つめてゐた。

窓があかりを漏らすというような表現は近代以前からあったのだろうか。第3回には「まだよく乾いてはゐなかつたカンヷスは、その間に、一めんに草の葉をこびつかせてしまつてゐた」というのがあった。擬人法というほどのことではないけれども物を主語にしたこういう文は、自然で詩的な感じがする。

[フランス語版]Entre-temps, un peu de brouillard semblait être tombé.

[フランス語版の日本語訳]そのうちに、少し霧がかかったようだった。

[原文]そのうちすこし霧がかかつて来たやうだつた。

[フランス語版]Les lumières d'éteignirent une à une, comme effarouchées.

[フランス語版の日本語訳]明かりが一つ一つ、おびえるように消えていった。

[原文]それを恐れでもするかのやうに、窓のあかりは一つびとつ消えて行つた。

ここのフランス語版は「それを」を訳していないので、文章のつながりが分からなくなってしまっている。

[フランス語版]L'hôtel allait enfin sombrer dans l'obscurité, quand doucement une fenêtre s'ouvrit en grinçant légèrement.

[フランス語版の日本語訳]ようやくホテルが暗闇の中に沈むかと思われたとき、一つの窓が軽くきしみながらそっと開いた。

[原文]そしてとうとうホテル中がすつかり真つ暗になつたかと思ふと、軽いきしりがして、ゆるやかに一つの窓が開いた。

sombrer dans l'obscurité は「すつかり真つ暗になつた」。フランス語らしいフランス語と日本語らしい日本語だ。

原文は真っ暗になっているが、フランス語訳の allait sombrer は真っ暗になっていなさそうなのがちょっと気になる。

[フランス語版]Une jeune fille, qui paraissait vêtue d'une robe de chambre rose, vint s'appuyer tranquillement au rebord de la fenêtre.

[フランス語版の日本語訳]薔薇色の部屋着を着ているらしい少女がやって来て、窓のへりに静かにもたれかかった。

[原文]そして薔薇色の寝衣ねまきらしいものを着た、一人の若い娘が、窓の縁にぢつとりかかり出した。

原文は「着ているらしい」ではなく「寝衣らしいものを着た」。確かにこちらの方がしっくりくるかもしれない。

[フランス語版]Cette jeune fille, c'était toi...

[フランス語版の日本語訳]その少女はお前だった……。

[原文]それはお前だつた。……