堀辰雄『風立ちぬ』のフランス語版を日本語に訳してみる 5

前回の最後で書いたように、英訳が思った以上に当てにならないので、今回からフランス語訳から日本語に訳してみることにする*1。便宜上タイトルの番号はこれまでの続きにしておく。

この試みの目的がまだちょっとぼやけているけれど、外国語から日本語に訳す練習を、明確なお手本がある形でやってみたいというのが一番大きい。読みやすくて自然で美しい日本語とは何かを考えたい。そのために、フランス語の訳者がやっていることに注目することもある。あとは堀辰雄の文体の特徴って何だろう、というかそもそも文体って何だろう、みたいなことも、ぼくの手の届く範囲で少しずつ考えていきたい。

[フランス語版]« Comment a-t-elle pu changer ainsi ? Elle qui, pour tout, semblait s'en remettre si complètement à moi... »

[フランス語版の日本語訳]「一体どうしてお前はこんなに変わってしまったのだろう。すべてにおいて、あれほど完全に私に頼りきっているように見えたお前なのに……」

[原文]「どうしてこんなに変つちやつたんだらうなあ。あんなに私に何もかも任せ切つてゐたやうに見えたのに……」

elle を「お前」にして訳したのはちょっと考えすぎだった。『風立ちぬ』では基本的に、日本語としてはちょっと異常なくらいにしっかりと主語が書いてあるが、ここでは省略されている。

翻訳でつい使い過ぎてしまいがちな言葉というのがあって、「すべて」というのもその一つだという気がする。pour tout の原文は「何もかも」だった。

何もかも白状する
tout avouer ; faire des aveux complets
何もかも忘れたい
Je veux tout oublier.
何もかもおしまいだ
Tout est fini [perdu]. / C'en est fait.

この界隈は何もかも変わってしまった
Ce quartier a entièrement [totalement] changé.*2

[フランス語版]Je t'avais laissée prendre de l'avance et, plongé dans mes pensées, je progressais avec difficulté dans l'étroit sentier de montagne où s'entrecroisaient de plus en plus foisonnantes les racines dénudées des arbres.

[フランス語版の日本語訳]私はお前を先に行かせて、自分の考えの中に沈みながらむき出しの木の根が次第におびただしくからまり合っていく狭い山道を、苦労しながら進んでいった。

[原文]と私は考へあぐねたやうな恰好でだんだん裸根のごろごろし出して来た狭い山径やまみちを、お前をすこし先きにやりながら、いかにも歩きにくさうに歩いて行つた。

「考へあぐねたやうな恰好で」「いかにも歩きにくさうに」は、これまでも何度か出てきた、「私」を外から眺めているちょっと不思議な表現だ。

de plus en plus foisonnantes は苦し紛れで「次第におびただしく」というみっともない日本語になったが、原文の「だんだん裸根のごろごろし出して来た」はちょっと自分で書けそうにはない。

[フランス語版]À cet endroit, la futaie devenait plus épaisse et l'air avait fraîchi.

[フランス語版の日本語訳]ここでは木々がより鬱蒼と生い茂っていて、空気がひんやりとしていた。

[原文]そこいらはもうだいぶ木立が深いと見え、空気はひえびえとしてゐた。

こ‐だち【木立】
樹木がまとまって生えている場所。また、その樹木。*3

ここも比較級を自然な日本語にするのが難しい。原文では、歩いて行くにつれて木立が深くなっていった様子が「もうだいぶ木立が深い」という形で表現されている。

原文には「と見え」とあり、「木立が深い」ことを「私」は「空気」が「ひえびえとしてゐた」ことから推測している。フランス語訳には「と見え」に相当する部分がなく、木立が深くなってきたことを、どの視点からか、淡々と描いている。

[フランス語版]Ici et là le lit d'un ruisseau creusait la montagne.

[フランス語版の日本語訳]あちらこちらで、小川の流れが山を削っていた。

[原文]ところどころに小さな沢が食ひこんだりしてゐた。

[フランス語版]Soudain une pensée me traversa l'esprit :

[フランス語版の日本語訳]そのとき不意に、こんな考えが私の頭をよぎった。

[原文]突然、私の頭の中にこんな考へが閃いた。

この作品でよく出てくる「突然」「不意に」「いきなり」の使い分けについては、そのうち考えたい。

[フランス語版]si tu t'étais montrée aussi docile avec moi, que tu avais rencontré fortuitement cet été, ne devais-tu tout autant – non, beaucoup plus – t'en remettre sans résistance aucune tant à ton père qu'à tout ce qui en même temps que ton père gouvernait à chaque instant tout ton être.

[フランス語版の日本語訳]お前はこの夏偶然に出会った私にこれほど従順にしてくれているのだから、それと同じくらい――いや、それよりもはるかに――お前のお父さんや、お父さんと同時にお前のすべてをたえず支配するあらゆるものに、何の抵抗もせずに完全に頼りきりになるに違いない、と。

[原文]お前はこの夏、偶然出逢つた私のやうな者にもあんなに従順だつたやうに、いや、もつともつと、お前の父や、それからまたさういふ父をも数に入れたお前のすべてを絶えず支配してゐるものに、素直に身を任せ切つてゐるのではないだらうか?

ここはフランス語が込み入っていて読み解くのにちょっと苦労した。que が3回も出てくるが、最初のは関係代名詞、次は tant A que B、最後のは même ... que の que だ。en même temps que はよく意味が分からず逐語訳してしまったが、「お前の父と並んで、そのほかに」というような意味らしい。

この文には面白い点がいろいろあるが、とりあえず ne devais-tu が 「ではないだらうか」、tout autant が(si とともに)「やうに」に対応していることに注目しておく。

[フランス語版]« Setsuko ! s'il en était bien ainsi, je ne pourrais que t'en aimer davantage.

[フランス語版の日本語訳]「節子! もしも本当にその通りだったら、それゆえに私はますますお前を愛さずにはいられないだろう

[原文]……「節子! さういふお前であるのなら、私はお前がもつともつと好きになるだらう。

フランス語訳者が補っている ne pourrais que と代名詞 en を律儀に訳すと長々しくなってしまった。これが本当の翻訳だったらどうすべきだろう。

[フランス語版]Il faut d'abord que je parvienne à voir plus clair dans mon existence ; alors je ferai tout pour que tu sois ma femme.

[フランス語版の日本語訳]まずは自分のことがもっとよく分かるようにならなくてはならない。それができたら、お前を妻にするために何だってしよう

[原文]私がもつとしつかりと生活の見透しがつくやうになつたら、どうしたつてお前を貰ひに行くから

前半は明らかにフランス語訳が誤訳だ。「透」の字から妄想が始まったらしい。

「どうしたつて」を、修飾の関係を逆にして je ferai tout pour と訳してある。もう少し使いやすい表現だと「何をしてでも」とも言えるだろう。

[フランス語版]En attendant reste comme tu es auprès de ton père... »

[フランス語版の日本語訳]それを待っている間は、このままお父さんのそばにいればいい……」

[原文]それまではお父さんのもと今のままのお前でゐるがいい……」

「今のままのお前」はいい日本語だ。第2回の「すぐ立ち上つて行かうとするお前を」や、前の文の「さういふお前」のように、「お前」に修飾語がつく形がたびたび出てきて、訳ではうまく別の形に変えてある*4

ありのままの君が好きだ
Je t'aime telle que tu es.*5

[フランス語版]En pensant ainsi à part moi, je saisis brusquement ta main comme pour obtenir ton accord.

[フランス語版の日本語訳]心の中でこのように考えながら、私はお前の合意を得るためであるかのように、突然お前の手を握った。

[原文]そんなことを私は自分自身にだけ言ひ聞かせながら、しかしお前の同意を求めでもするかのやうに、いきなりお前の手をとつた。

comme pour obtenir を訳したぼくの「得るためであるかのように」と、原文の「求めでもするかのやうに」の違いに唸る。得ようとすることが「求める」ということだ。「得る」というのも翻訳で使いすぎてしまう言葉の一つかもしれない。

前回出てきた「ながら、しかし」も再び心憎い。フランス語訳では明確でない「自分自身にだけ」と「お前の同意を求め」の対比をはっきりと表している。

[フランス語版]Tu l'abandonnas dans la mienne.

[フランス語版の日本語訳]お前はお前の手を私の手の中にゆだねた。

[原文]お前はその手を私にとられるがままにさせてゐた。

この文は、第2回の「お前は私のするがままにさせてゐた」と似た形だが、「とられるがままに」なら「していた」の方がしっくりくるかもしれない。

[フランス語版]Alors, main dans la main, nous nous arrêtâmes devant un lit de torrent, à contempler, le cœur serré, la lumière du soleil. Tamisée par les feuillages et passant à grand-peine à travers l'enchevêtrement sans fin des branches et des buissons, elle finissait par tomber à nos pieds, en taches sur les fougères basses tout au fond du lit étroit et profond, et vacillait au gré de la brise, à ce moment presque imperceptible.

[フランス語版の日本語訳]そうして私達は手を握りあったまま、川床の前で立ち止まって、胸が締めつけられるような思いで、太陽の光を眺めていた。木の葉の間から差し込み、枝や茂みがどこまでももつれ合っている中をくぐり抜けてきたその光は、私たちの足元の、狭く深い川の奥底のシダの上にぽつぽつと落ち、今やほとんど感じられなくなった微風のままに揺らいでいた

[原文]それから私達はさうして手を組んだまま、一つの沢の前に立ち止まりながら、押し黙つて、私達の足許に深く食ひこんでゐる小さな沢のずつと底の、下生したばえ羊歯しだなどの上まで、日の光が数知れず枝をさしかはしてゐる低い灌木の隙間をやうやくのことでくぐり抜けながら、まだらに落ちてゐて、そんな木洩れ日がそこまで届くうちに殆んどあるかないか位になつてゐる微風にちらちらと揺れ動いてゐるのを、何か切ないやうな気持で見つめてゐた。

この原文は名文とは言いがたい気もするが、きれいに整理してあるフランス語と比べて、上に行ったり下に行ったりする分、光がそこここにある感じは強まっているかもしれない。

絶対分詞節 le cœur serré の原文は「何か切ないやうな気持で」。フランス語のニュアンスが分かるわけではないが、なんとなく「切ない」というのはもっと甘さや淡さもある言葉なんじゃないかという感じがする。いろんな辞書を引いてもどうもしっくりこない。

切ない
pénible; douloureux,se; dur,e; (耐えられない)insupportable
切ない思いをする
avoir un gros chagrin
切ない胸の中を語る
avouer son chagrin déchirant; (恋心)avouer son amour ardent pour qn*6

切ない
(悲しい)sad; (心からの)earnest; (熱烈な)ardent
彼の心変わりに彼女は切ない思いをした
She felt sad when she ⸢learned [found out] that he had changed his mind.
私は切ない胸の内を彼女に告白した
I confessed my ardent love for her.*7

vacillait au gré de la brise の原文は「微風にちらちらと揺れ動いてゐる」。使いこなせるようになりたい「に」の用法だ。


7動作・作用・状態が生じる原因・理由・由来などを示す。
例 日に焼ける/霧にかすむ/不注意による事故/大胆さにあきれる*8

*1:原文は『堀辰雄全集』第1巻(筑摩書房、1977年)、フランス語版は Daniel Struve 訳 Le Vent se lève (Gallimard, 1993) から引用。

*2:『コンコルド和仏辞典』(白水社)。

*3:『明鏡国語辞典』(大修館書店)。

*4:上で「この夏、偶然出逢つた私のやうな者」を moi, que tu avais rencontré fortuitement cet été と訳しているのはフランス語としては不自然で、これも alors que tu me rencontrais par hasard cet été などと言う方が自然だそうだ。今回最初のところの Elle qui, pour tout, semblait s'en remettre si complètement à moi... は自然らしい。フランス人の友人時流(じる)さんのご教示。

*5:『プチ・ロワイヤル和仏辞典』第2版(旺文社)。

*6:『コンコルド和仏辞典』(白水社)。

*7:『ルミナス和英辞典』第2版(研究社)。

*8:『小学館日本語新辞典』(小学館)。