堀辰雄『風立ちぬ』の英語版を日本語に訳してみる 3

[英語版]The wind has risen. Now we must try to live.

[原文]風立ちぬ、いざ生きめやも。

あまりに有名なこの一行は今回はスルーしておく。

[英語版]The line of poetry that sprang from my lips I repeated to myself, my hand resting on the shoulder you leaned against me.

[英語版の日本語訳]ふと浮かんだ詩の一節を、私は、もたれかかるお前の肩に手を乗せたまま、心の中で繰り返した。

[原文]ふと口を衝いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠れてゐるお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返してゐた。

ここはかなり原文と近い訳にできた。前回の「すぐ立ち上つて行かうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失ふまいとするかのやうに無理に引き留めて」というのを真似する形で文を作ってみた。

なんとなくつけてみた「ふと」まで当たったのは嬉しい。これくらいの言葉は翻訳で勝手に入れても許されるかもしれない。

「肩に手をかける」という表現は、そういえば第1回にも出てきていた。

たびたび出てきた「まま」はさすがに今回は使われず、「かけながら」になっていた。ただ「肩に手をかける」という一瞬で終わる動作に「ながら」がついているのはちょっと変な感じもする。

「私は私に」というような言い方も自分で使うかは迷うところ。以前はこんなの日本語じゃないと思っていたし、今でも違和感はあるが、こういうのを使うモードに入ってしまえば使うし、使ってみれば案外はまったりする。*1

[英語版]You pulled yourself away at last and stood up.

[英語版の日本語訳]しばらくしてお前はついに私から離れて立ち上がった。

[原文]それからやつとお前は私を振りほどいて立ち上つて行つた。

ここでもなんとなく落ち着かなくて、英訳にはないが「しばらくして」とつけてみた。原文では「やつと」の前に「それから」がついていた。

pull yourself away はいい訳が思いつかなかった。原文は「振りほどく」第1回には「生い茂る」「眺め眺めやる」というのが出てきたが出てきたが、こういう複合動詞は苦手だから気にしていくようにしたい。とりあえず手元の辞書*2に載っている「振り~」という動詞を並べてみる。うまく使うと文章に勢いがつきそうな言葉たちだ。

振り合う、振り上げる、振り返る、振り替える、振りかける、振りかざす、振りかぶる、振り切る、振り込む、振り絞る、振り捨てる、降り出す、振り立てる、振り放す、振りほどく、振り回す、振りまく、振り乱す、振り向く、振り向ける、振り分ける

[英語版]Blades of grass clung to the still-wet canvas.

[英語版の日本語訳]まだ濡れているキャンバスに、ススキの葉がついていた。

[原文]まだよく乾いてはゐなかつたカンヷスは、その間に、一めんに草の葉をこびつかせてしまつてゐた。

still-wet はどういうことかイメージできていなくて(地面が濡れていたのかなくらいに思っていた)、「まだ濡れている」としてしまったが、原文の「まだよく乾いてはゐなかつた」を見て腑に落ちた。こういう残念な訳は避けたい。

「こびつかせて」の助動詞「せる」はなかなか面白い用法かもしれない。これのおかげで、英訳とは異なり「カンヷスは」を主語にすることができている。「草の葉が」で始めるよりも文章の流れがきれいだ。ぼくは「キャンバスに」と訳して、語順としては同じになっているが、やはり「は」を使っている原文の方が落ち着く。

[英語版]You set the painting on the easel, and at some pains you removed the grass with your palette knife. "Oh! If father could only see this place ..."

You spoke, turning toward me with a doubtful smile.

[英語版の日本語訳]お前は絵を画架に載せて、いくらか難儀そうに、パレットナイフでそれを取り除いた。
「ああ、お父様もこの景色をご覧になることができたら……」〔「ああ、こんなところをお父様に見られでもしたら……」〕
お前は曖昧な微笑を浮かべて私を振り返りながらそう言った。

[原文]それを再び画架に立て直し、パレツト・ナイフでそんな草の葉を除りにくさうにしながら、
「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかつたら……」
 お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧な微笑をした。

まず真ん中の「お前」の台詞は完全な誤訳だろう。日本語学習者の翻訳を見ていたことがあるせいで、こういうものの原文を推測する妙な勘が身についていて、this place「こんなところを」のことではないかと思いついてしまった。もちろんこの「ところ」は場面・状況というような意味だ。

せっかく話がまとまりかけたところに新たな難問が持ち上がってきた。
Just as things were coming to a settlement a new problem cropped up.
いいところへ来てくれた。
You have come ⸢at the right moment [at a good time].
二人でいるところを見られてしまった。
Somebody saw us together.*3

「お父様にでも見つかつたら」は「お父様に見つかりでもしたら」の方がより自然かもしれない。こういう表現がなかなか辞書には載っていない。

(1) 放っておいて、病気が悪くなりでもしたら、どうするんですか。
If you let it go and your illness gets worse, then what will you do?
(2) そんな大金、落としでもしたら大変だから、銀行に入れた方がいいですよ。
With such a large sum of money, it would be terrible if you lost it or something, so you'd better put it in the bank.
(3) そんなにいうならこのカメラ、貸してあげるけど、気をつけてよ、こわしでもしたら承知しないから。
If you're going to insist, I'll lend you this camera, but be careful—I'm not going to let you get away with it if you break it or something.
(4) こどものころ、妹を泣かしでもしたら、いつも一番上の兄に怒られた。
When I was a child, if I ever did something like make my little sister cry, my oldest brother would always get mad at me.*4

a doubtful smile はちょっと紋切り型っぽいかなと思いつつ「曖昧な微笑」と訳したら、見事原文通りだった。

ここの流れ全体を見ると、原文には you spoke に相当する部分がないことが注目される。「お前」が「草の葉を除りにくさうにしながら」何をしたのかが文法的にぼかされている。こういうルーズな書き方はぼくは避けたい気もするが、かといって「言った」を連発するのも芸がない。

3回目が終わって、いくつか迷っていることがある。一つは、もっと量をこなしたいので、今みたいに細かくコメントするよりもひたすら訳し進めていく方がいいかもしれないということ。また、もっとたくさんの文に触れるために、訳さずに原文と訳文を比べていくこともしたい。例えば「~は言った」みたいなのをどう処理するかというのは、こうやってちびちびやるだけでは見えてこないから。あと、英訳の質が低そうなのでフランス語版を使う方がいいのではないかとも思っている。そうすると日本語だけでなくフランス語のお勉強という側面も強くなってくるだろうけれど、それはそれで楽しそうだ。次々回くらいからやり方を変えていくかもしれない。

*1:ぼくの苦手な翻訳調と共通するある種の文体的特徴をうまく使うと、むしろ好きな調子になることがある。「僕の好きな君 その君が好きな僕/そうやっていつしか僕は僕を大切に思えたよ」(RADWIMPS「me me she」)みたいなのは全く悪くないし、バタ臭いとも感じない。

*2:『明鏡国語辞典』(大修館書店)。

*3:『新和英大辞典』第5版(研究社)。

*4:『日本語文型辞典 英語版』(くろしお出版)、p. 298。