堀辰雄『風立ちぬ』のフランス語版を日本語に訳してみる 8

[フランス語版]Une dizaine de minutes plus tard je sortais du bois et, parvenant soudain à un endroit découvert, pénétrai dans une prairie qui, recouverte d'une herbe drue, s'étirait sous mes yeux jusqu'à la ligne lointaine de l'horizon.

[フランス語版の日本語訳]10分ほどして森から出ると、急に視界が開けて、遥か彼方の地平線まで草が生い茂る草原に出た。

[原文]私はそれから十数分後、一つの林の尽きたところ、そこから急に打ちひらけて、遠い地平線までも一帯に眺められる、一面に薄の生ひ茂つた草原の中に、足を踏み入れてゐた。

読みやすい日本語にしようと思って文の構造をつづめたりした結果、原文の半分くらいの長さの文になり、全く違う息づかいになった。長い文を味わい楽しませるような原文も決して読みにくくはない。

作品の冒頭と同じ風景に戻ってきた。「一面」という言葉をもう一度思い出そう。

庭は一面雪におおわれていた
Le jardin était recouvert de neige.
家は一面火の海である
La maison est toute en feu [en flammes].
一面の水〔火;麦畑〕
une nappe d'eau [de feu; de blés]*1

さらに「一帯」という言葉も出てきている。

その辺り一帯に
dans tout le voisinage
関西地方一帯に
sur toute la région du Kansai*2

[フランス語版]Je m'étendis non loin de là à l'ombre d'un bouleau dont les feuilles commençaient déjà à jaunir.

[フランス語版の日本語訳]私はそこから遠くない、もう紅葉が始まっている樺の木陰に身を横たえた。

[原文]そして私はその傍らの、すでに葉の黄いろくなりかけた一本の白樺の木蔭に身を横たへた。

[フランス語版]C'était là que tout au long des journées d'été j'étais resté étendu comme je l'étais en ce moment à te regarder peindre.

[フランス語版の日本語訳]それは、私が夏の間じゅう今と同じように寝そべって、お前が絵を描くのを眺めていた場所だった。

[原文]そこは、その夏の日々、お前が絵を描いてゐるのを眺めながら、私がいつも今のやうに身を横たへてゐたところだつた。

こういうときは確かに「それは」より「そこは」の方が自然かもしれない。

日本語らしくしようと思ってフランス語の語順のまま「寝そべって〔……〕眺めていた」と訳したが、原文の方がはるかにすっと頭に入ってくる。これまでも何度も出てきた「ながら」の効用だろうか。

comme je l'étais en ce moment は「今のやうに」。簡潔で明快な日本語だ。

[フランス語版]À l'horizon que de gros nuages sombres barraient presque constamment en été, apparaissaient maintenant les contours de lointaines montagnes qui surgissaient – à quelle distance ? – parmi les hautes herbes courbant à perte de vue leurs épis blancs.

[フランス語版の日本語訳]夏の間は大きな暗い雲にほとんど常に覆われていた地平線の辺りには、今は、見渡す限り白い穂をうなだれさせている背の高い草の間から、遠い山々の輪郭が(どれだけ遠いのだろうか)見えていた。

[原文]あの時には殆んどいつも入道雲に遮られてゐた地平線のあたりには、今は、何処か知らない、遠くの山脈までが、真つ白な穂先をなびかせた薄の上を分けながら、その輪廓を一つ一つくつきりと見せてゐた。

courbant を「うなだれさせている」としたのはちょっと惜しかった。原文は「なびかせた」。

風に草がなびく
Les herbes bougent [s'agitent] au vent.
金持ちになびく
se plier aux riches; se courber devant les riches*3

原文では「遠くの山脈までが」が前に来ていることによって、視点の対象が「地平線のあたり」にうまく落ち着いている。ぼくの訳だと、「今は、」の後でちょっと視点がぐらついてしまっている感じがする。

[フランス語版]Je fixai intensément ces lointaines arêtes montagneuses jusqu'à en retenir les moindres détails, et cependant affleurait à ma conscience la certitude que je venais seulement de percer le secret, jusqu'à présent enfoui au fond de mon être, de ce que la nature m'avait par avance réservé.

[フランス語版の日本語訳]私はこの遠い山々の尾根を、その細部まですべて覚えてしまうほどにじっと見つめていたが、一方で、自然が私に残してくれているものについての、これまで心の奥底に埋もれていた秘密を、今ようやく突き止め始めたばかりなのだというような確信も浮かんできていた。

[原文]私はそれらの遠い山脈の姿をみんな暗記してしまふ位、ぢつと目に力を入れて見入つてゐるうちに、いままで自分の裡に潜んでゐた、自然が自分のために極めて置いてくれたものを今こそ漸つと見出したといふ確信を、だんだんはつきりと自分の意識に上らせはじめてゐた。……

これは多分フランス語訳がずれている。「いままで自分の裡に潜んでゐた」がかかるのは、「自然が自分のために極めて置いてくれたもの」だと取っているようだが、そうではなく、それ「を今こそ漸つと見出したといふ確信」なのではないだろうか。そうすると「今こそ」というのはちょっと変だが、この文脈で「自然」と言っているのはあくまで目に見える風景などのことだと取らないと、文脈的にそぐわない気がする。

「序章」をまるまる訳し終わったところで、このシリーズは一旦やめにしようと思う。『風立ちぬ』の日本語を自分で書こうとしてみるという考えに初めはわくわくしていたけれど、作家のきれいな言葉を自分のだらしない下手くそな日本語で一文一文穢していくのがつらくて、こんなものを人に見せたいわけではないという思いが強くなってきた。

立原道造の厳しい言葉を引いてブログを始めた頃みたいに、ここはぼくが語るよりも素敵な言葉をいろいろ載せていく場所にしたい。アマチュア的な語学の楽しみと絡めながらそういうことをできる計画を立てている。計画はついえてしまう方が美しいかもしれないけれど、それでも、少しずつでも、やってみたいことをやっていこうと思う。

*1:『コンコルド和仏辞典』(白水社)。

*2:同上。

*3:同上。

堀辰雄『風立ちぬ』のフランス語版を日本語に訳してみる 7

[フランス語版]Aujourd'hui encore je puis faire revivre dans toute son intensité ce sentiment de bonheur si proche de la tristesse qui m'étreignait le cœur jour après jour quand vous fûtes partis.

[フランス語版の日本語訳]今でもなお私は、お前が旅立った後に日々を締めつけたあの悲しみにも似た幸福の感覚を、あの頃のままにありありと甦らせることができる。

[原文]お前達が発つて行つたのち、日ごと日ごとずつと私のをしめつけてゐた、あの悲しみに似たやうな幸福の雰囲気を、私はいまだにはつきりと蘇らせることが出来る。

vous fûtes partis を「お前が旅立った」としたのは単純にミス。partis が複数形だし、第一ずっと tu で呼んできた「お前」がいきなり vous になるのもおかしい。

cœur は「心」ではなく「胸」と訳した方がいいことも多い。

悲しみで胸が一杯になる
avoir le cœur rempli de chagrin
胸が張り裂ける思いだ
Je sens mon cœur se déchirer [se briser; se serrer].*1

[フランス語版]Toute la journée je restais enfermé à l'hôtel.

[フランス語版の日本語訳]私は一日中ホテルに閉じこもっていた。

[原文]私は終日、ホテルに閉ぢ籠つてゐた。

[フランス語版]Je me remis à mon travail que j'avais longtemps délaissé pour me consacrer à toi.

[フランス語版の日本語訳]お前の面倒を見るために長い間放っていた仕事に、私は再び手をつけた。

[原文]さうして長い間お前のために打棄うつちやつて置いた自分の仕事に取りかかり出した。

[フランス語版]Contrairement à mon attente je parvins à m'y absorber paisiblement.

[フランス語版の日本語訳]意外にも私は心穏やかにその仕事に没頭することができた。

[原文]私は自分にも思ひがけない位、静かにその仕事に没頭することが出来た。

静か
③気持ちや態度が落ち着いているさま。おだやかだ。ものしずかだ。「―に余生を送る」*2

その湖畔の宿では都会では味わえない静かな気分を味わった。
At the lakeside inn we enjoyed a peaceful atmosphere we can never find in the city.*3

[フランス語版]Entretemps la saison subit un changement complet.

[フランス語版の日本語訳]その間に季節は完全に変わってしまった。

[原文]そのうちにすべてが他の季節に移つて行つた。

この原文はなかなか不思議な日本語だ。

[フランス語版]Je me décidai enfin à partir à mon tour et la veille du jour fixé, pour la première fois depuis longtemps, je sortis de l'hôtel pour me promener.

[フランス語版の日本語訳]とうとう私も旅立つことにして、出発の前日、久しぶりにホテルを出て散歩に出かけた。

[原文]そしていよいよ私も出発しようとする前日、私はひさしぶりでホテルから散歩に出かけて行つた。

「いよいよ私も出発しようとする前日」、こういう連体修飾の仕方は真似していきたい。

[フランス語版]Le bouleversement apporté par l'automne rendait les bois méconnaissables.

[フランス語版の日本語訳1]秋になって、森は見違えるほどにすっかり姿を変えていた。
[フランス語版の日本語訳2]秋がもたらした変化は、森を見違えるようにしていた。

[原文]秋は林の中を見ちがへるばかりに乱雑にしてゐた。

bouleversement というのはよく分からないなと思ったが、原文の「乱雑」もどきっとするような言葉の選択だ。

[フランス語版]Les arbres dépouillés d'une grande partie de leurs feuilles laissaient voir, beaucoup plus proches qu'auparavant, entre leurs troncs, les terrasses des villas désertées.

[フランス語版の日本語訳]葉をほとんど落としてしまった木々の幹の間から、人けのない邸宅のテラスが以前よりずっと近くに見えた

[原文]葉のだいぶ少くなつた木々は、その間から、人けの絶えた別荘のテラスをずつと前方にのり出させてゐた

この文も癖が強い。「人けの絶えた別荘」は単数だろうか複数だろうか。英語版は a deserted villa としている。

[フランス語版]L'odeur humide des champignons se mêlait à celle des feuilles mortes.

[フランス語版の日本語訳]湿ったきのこの匂いが落ち葉の匂いと混ざり合っていた

[原文]菌類の湿つぽい匂ひが落葉の匂ひに入りまじつてゐた

l'odeur humide 「湿つぽい匂ひ」。こういうのはむやみに改変しない方がいい。

代名動詞を見ると反射的に「~合う」と書いてしまうが、日本語には他にもいい言葉がある。

いろんな思い出が頭の中で入り交じる
Les souvenirs se mêlent dans mon esprit.
群衆に入り交じる
se mêler [se confondre avec] la foule*4

[フランス語版]J'éprouvais un sentiment étrange à la vue de ce changement presque inopiné de saison : tant de temps s'était donc écoulé à mon insu depuis que je t'avais quittée.

[フランス語版の日本語訳]ほとんど予期していなかったこの季節の移ろいを見て、私は不思議な感覚を抱いた。私がお前と離れてから、知らないうちにこれだけの時間が過ぎたのだ。

[原文]さういふ思ひがけない位の季節の推移が、――お前と別れてから私の知らぬ間にこんなにも立つてしまつた時間といふものが、私には異様に感じられた。

[フランス語版]Quelque part au fond de mon cœur j'avais la certitude que notre séparation devait être provisoire et l'écoulement même du temps avait pris pour moi une signification toute nouvelle... Tel était le sentiment que j'éprouvais d'abord confusément, avant d'en prendre une conscience claire quelques instants après.

[フランス語版の日本語訳]私の心の奥底のどこかに、私たちの別れは仮のものに違いないという確信があった。時間の流れさえもが、私にとって全く新しい意味を帯びだしていた……。始めはぼんやりと抱いていたそのような感覚を、しばらく後にはっきりと意識するに至った。

[原文]私の心の裡の何処かしらに、お前から引き離されてゐるのはただ一時的だと云つた確信のやうなものがあつて、そのためかうした時間の推移までが、私には今までとは全然異つた意味を持つやうになり出したのであらうか? ……そんなやうなことを、私はすぐあとではつきりと確かめるまで、何やらぼんやりと感じ出してゐた。

「~と云つた確信のやうなものがあつて」は疑問文の一部だし、あくまで「のやうなもの」なので、j'avais la certitude と言うと強すぎる気がする。次の文で「はつきりと確かめる」と言っているのでこれでいいのかもしれないが、受ける印象は大分違ってくる。
後の文も、「はつきりと確かめる」よりも「何やらぼんやりと感じ出してゐた」の方に重点があるかのような書き方をしている。

今回の箇所の原文は、これまで以上になめらかでない表現が多く、内容とうまく一致していると言うべきなのかもしれないが、こういうのは普通の人がやったらただの悪文としか思われなさそうで、自分の文章に取り入れるのはなかなか難しいかもしれない。

*1:『コンコルド和仏辞典』(白水社)。

*2:『明鏡国語辞典』(大修館書店)。

*3:『新和英大辞典』第5版(研究社)。

*4:『コンコルド和仏辞典』(白水社)。

堀辰雄『風立ちぬ』のフランス語版を日本語に訳してみる 6

[フランス語版]Deux ou trois jours plus tard je t'aperçus le soir dans la salle du restaurant en train de dîner avec ton père, venue te chercher.

[フランス語版の日本語訳①]2、3日後の夕方、お前を迎えに来たお前の父と一緒にお前は食堂で夕食を取っていた。
[フランス語版の日本語訳②]2、3日後の夕方、私はお前を迎えに来たお前の父と一緒にお前が食堂で夕食を取っているのを見かけた。

[原文]それから二三日した或る夕方、私は食堂でお前がお前を迎へに来た父と食事を共にしてゐるのを見出した。

2パターン書いてみたが、どちらも、「お前がお前を」のような表現を避けようとして、かえって読みにくくなっている。②の「お前が」を前に出して、さらに「食堂で」も前に出すと、原文にわりと近い形になる。

[フランス語版]Tu me tournais le dos avec un peu de raideur.

[フランス語版の日本語訳]お前は体を少しこわばらせて私に背を向けた。

[原文]お前は私の方にぎごちなささうに背中を向けてゐた。

原文の「ぎこちなささうに」はちょっと違和感がある。「ぎこちない」自体が外から見た様子を表す言葉なので、「そう」をつける必要はない気がする。

[フランス語版]Ton attitude, tes gestes qui te venaient sans doute presque inconsciemment du seul fait d'être assise à côté de ton père me faisaient penser à ceux d'une toute jeune fille que je découvrais en toi pour la première fois.

[フランス語版の日本語訳①]父親の隣に座っているというただそれだけの理由でお前がほとんど無意識にしているらしいその態度や身ぶりを見て、私はお前の内に初めて一人のうら若い娘を発見したように感じた。
[フランス語版の日本語訳②]父親の隣に座っているというただそれだけのことがお前にほとんど無意識にさせているらしいその態度や身ぶりは、私に、お前の内にそれまで見たことのないようなうら若い娘を思わせた。

[原文]父の側にゐることがお前に殆んど無意識的に取らせてゐるにちがいない様子や動作は、私にはお前をついぞ見かけたこともないやうな若い娘のやうに感じさせた。

原文は無生物主語が続く。「父の側にゐること」がお前にある様子や動作を取らせ、「様子や動作は」私にはお前を〔……〕若い娘のように感じさせた。あからさまに翻訳臭いこういう文はあまり多用したくはないが、うまく使うと文章が締まる気はする。

後半は少し自由に訳したが、そもそもフランス語訳も原文とはちょっと違う方向を向いている気がする。

[フランス語版]« Même si je l'appelais par son nom... murmura-je à part moi, elle resterait impassible et ne se retournerait même pas vers moi... comme doutant que je l'eusse appelée... »

[フランス語版の日本語訳]「もしも私が名前を呼んでも」私は心の中でつぶやいた。「表情一つ変えず、こちらを振り返りもしないのだろうなあ……。私に呼ばれたことを疑いでもするかのように……」

[原文]「たとひ私がその名を呼んだにしたつて……」と私は一人でつぶやいた。「あいつは平気でこつちを見向きもしないだらう。まるでもう私の呼んだものではないかのやうに……」

「平気で~する」というと、「平気で」は後の動詞にかかるのが普通だと思うが、ここでは後と並列になっているというフランス語訳者の読みでおそらく正しいのだろう。ちょっと変な感じはする。ともかく使えるようにしておきたい言葉だ。

危ないのに平気でいる
rester impassible devant le danger
とがめられても平気でいる
écouter imperturbablement les injures
彼は人が困っているのを見ると平気でいられない質だ
C'est un homme qui ne peut pas rester indifférent devant des gens en difficulté.*1

[フランス語版]Ce soir-là, revenu d'une triste et solitaire promenade, je m'attardai par désœuvrement dans le jardin désert de l'hôtel.

[フランス語版の日本語訳]その晩、私は寂しい一人の散歩から帰ってきて、誰もいないホテルの庭で暇をつぶしていた。

[原文]その晩、私は一人でつまらなさうに出かけて行つた散歩からかへつて来てからも、しばらくホテルの人けのない庭の中をぶらぶらしてゐた。

原文は「夕方」から「晩」に時間が流れている。フランス語訳はどちらも soir を使っているので、一工夫必要だったかもしれない。

une triste et solitaire promenade の原文は「一人でつまらなさうに出かけて行つた散歩」。triste が「つまらない」なのかということと、例の「~さう」という言い方はさておくとして、こういう名詞句を訳すときに「出かけて行つた」のように動詞を加えてもいいというのは参考になる。

je m'attardai に対応するのは「(かへつて来てから)も、しばらく」。とてもなめらかな日本語だ。

[フランス語版]Les lis de montagne embaumaient.

[フランス語版の日本語訳]山百合のいい香りがしていた。

[原文]山百合が匂つてゐた。

[フランス語版]Je regardais distraitement les deux ou trois fenêtres de l'hôtel d'où parvenait encore de la lumière.

[フランス語版の日本語訳]私は、ホテルの部屋のまだ明かりがついている2、3の窓をぼんやりと眺めていた。

[原文]私はホテルの窓がまだ二つ三つあかりを洩らしてゐるのをぼんやりと見つめてゐた。

窓があかりを漏らすというような表現は近代以前からあったのだろうか。第3回には「まだよく乾いてはゐなかつたカンヷスは、その間に、一めんに草の葉をこびつかせてしまつてゐた」というのがあった。擬人法というほどのことではないけれども物を主語にしたこういう文は、自然で詩的な感じがする。

[フランス語版]Entre-temps, un peu de brouillard semblait être tombé.

[フランス語版の日本語訳]そのうちに、少し霧がかかったようだった。

[原文]そのうちすこし霧がかかつて来たやうだつた。

[フランス語版]Les lumières d'éteignirent une à une, comme effarouchées.

[フランス語版の日本語訳]明かりが一つ一つ、おびえるように消えていった。

[原文]それを恐れでもするかのやうに、窓のあかりは一つびとつ消えて行つた。

ここのフランス語版は「それを」を訳していないので、文章のつながりが分からなくなってしまっている。

[フランス語版]L'hôtel allait enfin sombrer dans l'obscurité, quand doucement une fenêtre s'ouvrit en grinçant légèrement.

[フランス語版の日本語訳]ようやくホテルが暗闇の中に沈むかと思われたとき、一つの窓が軽くきしみながらそっと開いた。

[原文]そしてとうとうホテル中がすつかり真つ暗になつたかと思ふと、軽いきしりがして、ゆるやかに一つの窓が開いた。

sombrer dans l'obscurité は「すつかり真つ暗になつた」。フランス語らしいフランス語と日本語らしい日本語だ。

原文は真っ暗になっているが、フランス語訳の allait sombrer は真っ暗になっていなさそうなのがちょっと気になる。

[フランス語版]Une jeune fille, qui paraissait vêtue d'une robe de chambre rose, vint s'appuyer tranquillement au rebord de la fenêtre.

[フランス語版の日本語訳]薔薇色の部屋着を着ているらしい少女がやって来て、窓のへりに静かにもたれかかった。

[原文]そして薔薇色の寝衣ねまきらしいものを着た、一人の若い娘が、窓の縁にぢつとりかかり出した。

原文は「着ているらしい」ではなく「寝衣らしいものを着た」。確かにこちらの方がしっくりくるかもしれない。

[フランス語版]Cette jeune fille, c'était toi...

[フランス語版の日本語訳]その少女はお前だった……。

[原文]それはお前だつた。……

堀辰雄『風立ちぬ』のフランス語版を日本語に訳してみる 5

前回の最後で書いたように、英訳が思った以上に当てにならないので、今回からフランス語訳から日本語に訳してみることにする*1。便宜上タイトルの番号はこれまでの続きにしておく。

この試みの目的がまだちょっとぼやけているけれど、外国語から日本語に訳す練習を、明確なお手本がある形でやってみたいというのが一番大きい。読みやすくて自然で美しい日本語とは何かを考えたい。そのために、フランス語の訳者がやっていることに注目することもある。あとは堀辰雄の文体の特徴って何だろう、というかそもそも文体って何だろう、みたいなことも、ぼくの手の届く範囲で少しずつ考えていきたい。

[フランス語版]« Comment a-t-elle pu changer ainsi ? Elle qui, pour tout, semblait s'en remettre si complètement à moi... »

[フランス語版の日本語訳]「一体どうしてお前はこんなに変わってしまったのだろう。すべてにおいて、あれほど完全に私に頼りきっているように見えたお前なのに……」

[原文]「どうしてこんなに変つちやつたんだらうなあ。あんなに私に何もかも任せ切つてゐたやうに見えたのに……」

elle を「お前」にして訳したのはちょっと考えすぎだった。『風立ちぬ』では基本的に、日本語としてはちょっと異常なくらいにしっかりと主語が書いてあるが、ここでは省略されている。

翻訳でつい使い過ぎてしまいがちな言葉というのがあって、「すべて」というのもその一つだという気がする。pour tout の原文は「何もかも」だった。

何もかも白状する
tout avouer ; faire des aveux complets
何もかも忘れたい
Je veux tout oublier.
何もかもおしまいだ
Tout est fini [perdu]. / C'en est fait.

この界隈は何もかも変わってしまった
Ce quartier a entièrement [totalement] changé.*2

[フランス語版]Je t'avais laissée prendre de l'avance et, plongé dans mes pensées, je progressais avec difficulté dans l'étroit sentier de montagne où s'entrecroisaient de plus en plus foisonnantes les racines dénudées des arbres.

[フランス語版の日本語訳]私はお前を先に行かせて、自分の考えの中に沈みながらむき出しの木の根が次第におびただしくからまり合っていく狭い山道を、苦労しながら進んでいった。

[原文]と私は考へあぐねたやうな恰好でだんだん裸根のごろごろし出して来た狭い山径やまみちを、お前をすこし先きにやりながら、いかにも歩きにくさうに歩いて行つた。

「考へあぐねたやうな恰好で」「いかにも歩きにくさうに」は、これまでも何度か出てきた、「私」を外から眺めているちょっと不思議な表現だ。

de plus en plus foisonnantes は苦し紛れで「次第におびただしく」というみっともない日本語になったが、原文の「だんだん裸根のごろごろし出して来た」はちょっと自分で書けそうにはない。

[フランス語版]À cet endroit, la futaie devenait plus épaisse et l'air avait fraîchi.

[フランス語版の日本語訳]ここでは木々がより鬱蒼と生い茂っていて、空気がひんやりとしていた。

[原文]そこいらはもうだいぶ木立が深いと見え、空気はひえびえとしてゐた。

こ‐だち【木立】
樹木がまとまって生えている場所。また、その樹木。*3

ここも比較級を自然な日本語にするのが難しい。原文では、歩いて行くにつれて木立が深くなっていった様子が「もうだいぶ木立が深い」という形で表現されている。

原文には「と見え」とあり、「木立が深い」ことを「私」は「空気」が「ひえびえとしてゐた」ことから推測している。フランス語訳には「と見え」に相当する部分がなく、木立が深くなってきたことを、どの視点からか、淡々と描いている。

[フランス語版]Ici et là le lit d'un ruisseau creusait la montagne.

[フランス語版の日本語訳]あちらこちらで、小川の流れが山を削っていた。

[原文]ところどころに小さな沢が食ひこんだりしてゐた。

[フランス語版]Soudain une pensée me traversa l'esprit :

[フランス語版の日本語訳]そのとき不意に、こんな考えが私の頭をよぎった。

[原文]突然、私の頭の中にこんな考へが閃いた。

この作品でよく出てくる「突然」「不意に」「いきなり」の使い分けについては、そのうち考えたい。

[フランス語版]si tu t'étais montrée aussi docile avec moi, que tu avais rencontré fortuitement cet été, ne devais-tu tout autant – non, beaucoup plus – t'en remettre sans résistance aucune tant à ton père qu'à tout ce qui en même temps que ton père gouvernait à chaque instant tout ton être.

[フランス語版の日本語訳]お前はこの夏偶然に出会った私にこれほど従順にしてくれているのだから、それと同じくらい――いや、それよりもはるかに――お前のお父さんや、お父さんと同時にお前のすべてをたえず支配するあらゆるものに、何の抵抗もせずに完全に頼りきりになるに違いない、と。

[原文]お前はこの夏、偶然出逢つた私のやうな者にもあんなに従順だつたやうに、いや、もつともつと、お前の父や、それからまたさういふ父をも数に入れたお前のすべてを絶えず支配してゐるものに、素直に身を任せ切つてゐるのではないだらうか?

ここはフランス語が込み入っていて読み解くのにちょっと苦労した。que が3回も出てくるが、最初のは関係代名詞、次は tant A que B、最後のは même ... que の que だ。en même temps que はよく意味が分からず逐語訳してしまったが、「お前の父と並んで、そのほかに」というような意味らしい。

この文には面白い点がいろいろあるが、とりあえず ne devais-tu が 「ではないだらうか」、tout autant が(si とともに)「やうに」に対応していることに注目しておく。

[フランス語版]« Setsuko ! s'il en était bien ainsi, je ne pourrais que t'en aimer davantage.

[フランス語版の日本語訳]「節子! もしも本当にその通りだったら、それゆえに私はますますお前を愛さずにはいられないだろう

[原文]……「節子! さういふお前であるのなら、私はお前がもつともつと好きになるだらう。

フランス語訳者が補っている ne pourrais que と代名詞 en を律儀に訳すと長々しくなってしまった。これが本当の翻訳だったらどうすべきだろう。

[フランス語版]Il faut d'abord que je parvienne à voir plus clair dans mon existence ; alors je ferai tout pour que tu sois ma femme.

[フランス語版の日本語訳]まずは自分のことがもっとよく分かるようにならなくてはならない。それができたら、お前を妻にするために何だってしよう

[原文]私がもつとしつかりと生活の見透しがつくやうになつたら、どうしたつてお前を貰ひに行くから

前半は明らかにフランス語訳が誤訳だ。「透」の字から妄想が始まったらしい。

「どうしたつて」を、修飾の関係を逆にして je ferai tout pour と訳してある。もう少し使いやすい表現だと「何をしてでも」とも言えるだろう。

[フランス語版]En attendant reste comme tu es auprès de ton père... »

[フランス語版の日本語訳]それを待っている間は、このままお父さんのそばにいればいい……」

[原文]それまではお父さんのもと今のままのお前でゐるがいい……」

「今のままのお前」はいい日本語だ。第2回の「すぐ立ち上つて行かうとするお前を」や、前の文の「さういふお前」のように、「お前」に修飾語がつく形がたびたび出てきて、訳ではうまく別の形に変えてある*4

ありのままの君が好きだ
Je t'aime telle que tu es.*5

[フランス語版]En pensant ainsi à part moi, je saisis brusquement ta main comme pour obtenir ton accord.

[フランス語版の日本語訳]心の中でこのように考えながら、私はお前の合意を得るためであるかのように、突然お前の手を握った。

[原文]そんなことを私は自分自身にだけ言ひ聞かせながら、しかしお前の同意を求めでもするかのやうに、いきなりお前の手をとつた。

comme pour obtenir を訳したぼくの「得るためであるかのように」と、原文の「求めでもするかのやうに」の違いに唸る。得ようとすることが「求める」ということだ。「得る」というのも翻訳で使いすぎてしまう言葉の一つかもしれない。

前回出てきた「ながら、しかし」も再び心憎い。フランス語訳では明確でない「自分自身にだけ」と「お前の同意を求め」の対比をはっきりと表している。

[フランス語版]Tu l'abandonnas dans la mienne.

[フランス語版の日本語訳]お前はお前の手を私の手の中にゆだねた。

[原文]お前はその手を私にとられるがままにさせてゐた。

この文は、第2回の「お前は私のするがままにさせてゐた」と似た形だが、「とられるがままに」なら「していた」の方がしっくりくるかもしれない。

[フランス語版]Alors, main dans la main, nous nous arrêtâmes devant un lit de torrent, à contempler, le cœur serré, la lumière du soleil. Tamisée par les feuillages et passant à grand-peine à travers l'enchevêtrement sans fin des branches et des buissons, elle finissait par tomber à nos pieds, en taches sur les fougères basses tout au fond du lit étroit et profond, et vacillait au gré de la brise, à ce moment presque imperceptible.

[フランス語版の日本語訳]そうして私達は手を握りあったまま、川床の前で立ち止まって、胸が締めつけられるような思いで、太陽の光を眺めていた。木の葉の間から差し込み、枝や茂みがどこまでももつれ合っている中をくぐり抜けてきたその光は、私たちの足元の、狭く深い川の奥底のシダの上にぽつぽつと落ち、今やほとんど感じられなくなった微風のままに揺らいでいた

[原文]それから私達はさうして手を組んだまま、一つの沢の前に立ち止まりながら、押し黙つて、私達の足許に深く食ひこんでゐる小さな沢のずつと底の、下生したばえ羊歯しだなどの上まで、日の光が数知れず枝をさしかはしてゐる低い灌木の隙間をやうやくのことでくぐり抜けながら、まだらに落ちてゐて、そんな木洩れ日がそこまで届くうちに殆んどあるかないか位になつてゐる微風にちらちらと揺れ動いてゐるのを、何か切ないやうな気持で見つめてゐた。

この原文は名文とは言いがたい気もするが、きれいに整理してあるフランス語と比べて、上に行ったり下に行ったりする分、光がそこここにある感じは強まっているかもしれない。

絶対分詞節 le cœur serré の原文は「何か切ないやうな気持で」。フランス語のニュアンスが分かるわけではないが、なんとなく「切ない」というのはもっと甘さや淡さもある言葉なんじゃないかという感じがする。いろんな辞書を引いてもどうもしっくりこない。

切ない
pénible; douloureux,se; dur,e; (耐えられない)insupportable
切ない思いをする
avoir un gros chagrin
切ない胸の中を語る
avouer son chagrin déchirant; (恋心)avouer son amour ardent pour qn*6

切ない
(悲しい)sad; (心からの)earnest; (熱烈な)ardent
彼の心変わりに彼女は切ない思いをした
She felt sad when she ⸢learned [found out] that he had changed his mind.
私は切ない胸の内を彼女に告白した
I confessed my ardent love for her.*7

vacillait au gré de la brise の原文は「微風にちらちらと揺れ動いてゐる」。使いこなせるようになりたい「に」の用法だ。


7動作・作用・状態が生じる原因・理由・由来などを示す。
例 日に焼ける/霧にかすむ/不注意による事故/大胆さにあきれる*8

*1:原文は『堀辰雄全集』第1巻(筑摩書房、1977年)、フランス語版は Daniel Struve 訳 Le Vent se lève (Gallimard, 1993) から引用。

*2:『コンコルド和仏辞典』(白水社)。

*3:『明鏡国語辞典』(大修館書店)。

*4:上で「この夏、偶然出逢つた私のやうな者」を moi, que tu avais rencontré fortuitement cet été と訳しているのはフランス語としては不自然で、これも alors que tu me rencontrais par hasard cet été などと言う方が自然だそうだ。今回最初のところの Elle qui, pour tout, semblait s'en remettre si complètement à moi... は自然らしい。フランス人の友人時流(じる)さんのご教示。

*5:『プチ・ロワイヤル和仏辞典』第2版(旺文社)。

*6:『コンコルド和仏辞典』(白水社)。

*7:『ルミナス和英辞典』第2版(研究社)。

*8:『小学館日本語新辞典』(小学館)。

堀辰雄『風立ちぬ』の英語版を日本語に訳してみる 4

今回はコメントを控えめにしてさくさく進んでいくことにする。

[英語版]"Father will be here in two or three days."

[英語版の日本語訳]「2、3日後にお父様がいらっしゃるわ」

[原文]「もう二三日したらお父様がいらつしやるわ」

する
12 〔時が経つ〕pass; elapse.
3年もすれば
in three years or so
1、2年もすると
in a year or two
ひと月もしないうちに
in less than [inside] a month; before a month has passed
あと10分したら焼きあがります。
It will be ⸢done [cooked] in (another) ten minutes.*1

[英語版]You spoke suddenly one morning as we strolled in the woods.

[英語版の日本語訳]ある朝私たちが林の中を散歩していると、お前が不意に言った。

[原文]或る朝のこと、私達が森の中をさまよつてゐるとき、突然お前がさう言ひ出した。

こと
16 〔時期を示す〕
それは去年のことだった。
It ⸢was [happened] last year.
彼女から電話があったのは今朝のことだ。
It was this morning that she phoned me.*2

「~のこと、」を副詞句として使う用法は辞書になかなか載っていない。

[英語版]I said nothing but showed my displeasure.

[英語版の日本語訳]私は何も言わなかったが、不満を表情に出した

[原文]私はなんだか不満さうに黙つてゐた

黙っていてもお互いに何を考えているのかわかる。
Even if we don't say anything, each of us knows what the other one is thinking.
なぜ今まで私に黙っていたのだ。
Why didn't you say anything to me about this before?*3

「不満さうに」は「私」の不満を内から語るのではなく、自分を外から眺めている。日本語でも若干違和感があるが、英語やフランス語ではさらに違和感が強いのかもしれない。両方とも「私」が不満を抱いていることを直接的に表現している。*4

文学上の特殊な表現だという気もするが、日本語では比較的違和感が薄くはあるのかもしれない。*5

[英語版]You looked at me there and spoke again, huskily.
"Well, then we won't be able to take these walks, will we?"

[英語版の日本語訳]するとお前は私を見て、しわがれた声で、
「そうするとこうしてお散歩することもできなくなるわね」

[原文]するとお前は、さういふ私の方を見ながら、すこししやがれたやうな声で再び口をきいた。
「さうしたらもう、こんな散歩も出来なくなるわね」

[英語版]"Any walk at all. If we think we want to walk, we can walk."

[英語版の日本語訳]「どんな散歩だって、したいと思えばできるさ」

[原文]「どんな散歩だつて、しようと思へば出来るさ」

ここはまた英訳を信頼せずに原文を当てにいこうとして訳してしまった。英語の訳として正しいのか自信がないが、原文とは似通った日本語にはなった。

「しようと思へば」を If we think we want to walk としているのはずれているかもしれない。「しようと思う」が単純に意志を持っていることを表すのに対して、we think we want は意志を持っている「気がする」というニュアンスにならないだろうか。

(1) お正月には温泉に行こうと思う。
  I think I'll go to a hot spring at New Year's.
(2) 来年はもっと頑張ろうと思う。
  I think I'll try harder next year.
(3) 今夜は早く寝ようと思っている。
  I'm thinking of going to bed early this evening.
(4) 今の仕事を辞めようかと思っている。
  I'm wondering whether I should quit my job.
(5) 外国に住もうとは思わない。
  I have no intention of living abroad.
(6) あなたは一生この仕事を続けようと思いますか。
  Do you think you'll do this job for life?*6

[英語版]Still disgruntled, I felt your anxious glance over my head, but it seemed rather that something stirring in the treetops above had drawn your attention.

[英語版の日本語訳]私はまだむっとしていた。顔にお前の不安そうな視線を感じたが、木の頂でもぞもぞと動いている何かがお前の注意を引いたようだった。

[フランス語版]Toujours renfrongné, bien que je sentisse sur moi ton regard inquiet, je feignais d'être davantage absorbé par le bruit que, sans cause apparente, faisaient les cimes au-dessus de nos têtes...

[フランス語版の日本語訳]私はしかめっ面をしたまま、お前の不安そうな視線を感じていたが、それよりも頭上の木の頂から聞こえてくる得体の知れない物音の方に気を取られているふりをしていた

[原文]私はまだ不満らしく、お前のいくぶん気づかはしさうな視線を自分の上に感じながら、しかしそれよりももつと、私達の頭上の梢が何んとはなしにざわめいてゐるのに気をられてゐるやうな様子をしてゐた

ここはさすがに英訳がおかしい気がしたのでフランス語版からも訳してみた。案の定英語版は完全な誤訳だった。

またもや「不満らしく」と「様子をしてゐた」は、自分のことなのに他人事のように聞こえる。(だから your attention などと訳してしまったのも一応理解はできる。)

but と bien que を見てとっさに「が、」と訳してしまったが、逆接を全面に押し出さない「ながら、しかし」という呼吸はとても素敵だ。

[英語版]"Father never leaves me."

[英語版の日本語訳]「お父様が私を離してくださらないわ」

[原文]「お父様がなかなか私を離して下さらないわ」

[英語版]I looked back at you in irritation.

[英語版の日本語訳]私は苛立ってお前を振り返った。

[原文]私はとうとう焦れったいとでも云ふやうな目つきで、お前の方を見返した。

ここでも「私」の感情を「目つき」の形容で表現している。

[英語版]"Are you saying we have to separate?"

[英語版の日本語訳]「会えなくなると言ってるのか?」

[原文]「ぢやあ、僕達はもうこれでお別れだと云ふのかい?」

[英語版]"It can't be helped."

[英語版の日本語訳]「仕方ないじゃない」

[原文]「だつて仕方がないぢやないの」

(1) A: どうして外で遊ばないの。
    Why aren't you playing outside?
  B: だって寒いんだもん。
    Because it's cold.
(2) A: にんじん、残さずにちゃんと食べなさい。
    Eat all your carrots and don't leave any on your plate.
  B: だってきらいだもん。
    But I don't like them!*7

[英語版]You managed a smile and seemed to close the subject.

[英語版の日本語訳]お前は笑顔を作って見せて、この話は終わりにしたようだった。

[原文]さう言つてお前はいかにも諦め切つたやうに、私につとめて微笑んで見せようとした。

ここも英訳がよく分からない。

[英語版]The color of your face, the color even of your lips, turned pale!

[英語版の日本語訳]お前の顔色が、唇の色までもが、青くなった。

[原文]ああ、そのときのお前の顔色の、そしてその唇の色までも、何んと蒼ざめてゐたことつたら!

この大げさな詠嘆の調子は、いつか真似したくなる機会が来るかもしれない。

前回の最後に書いたように、やっぱり英訳はあてにならない部分が多すぎるので、次回からフランス語訳を使うことにする。英訳よりはずっと原文に忠実だが、それを訳してもやっぱり原文からは大きく離れた日本語になるはずで、そこから引き続きぼくの日本語入門のためのポイントを抽出していきたい。

*1:『新和英大辞典』第5版(研究社)。

*2:同上

*3:同上

*4:フランス語訳:Je gardai le silence, la mine renfrognée.

*5:「僕は 照れくさそうに カバンで顔を隠しながら 本当は とても とても 嬉しかったよ」(ZONE「secret base~君がくれたもの~」)

*6:『日本語文型辞典 英語版』(くろしお出版)、p. 659。

*7:同上、p. 213。

堀辰雄『風立ちぬ』の英語版を日本語に訳してみる 3

[英語版]The wind has risen. Now we must try to live.

[原文]風立ちぬ、いざ生きめやも。

あまりに有名なこの一行は今回はスルーしておく。

[英語版]The line of poetry that sprang from my lips I repeated to myself, my hand resting on the shoulder you leaned against me.

[英語版の日本語訳]ふと浮かんだ詩の一節を、私は、もたれかかるお前の肩に手を乗せたまま、心の中で繰り返した。

[原文]ふと口を衝いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠れてゐるお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返してゐた。

ここはかなり原文と近い訳にできた。前回の「すぐ立ち上つて行かうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失ふまいとするかのやうに無理に引き留めて」というのを真似する形で文を作ってみた。

なんとなくつけてみた「ふと」まで当たったのは嬉しい。これくらいの言葉は翻訳で勝手に入れても許されるかもしれない。

「肩に手をかける」という表現は、そういえば第1回にも出てきていた。

たびたび出てきた「まま」はさすがに今回は使われず、「かけながら」になっていた。ただ「肩に手をかける」という一瞬で終わる動作に「ながら」がついているのはちょっと変な感じもする。

「私は私に」というような言い方も自分で使うかは迷うところ。以前はこんなの日本語じゃないと思っていたし、今でも違和感はあるが、こういうのを使うモードに入ってしまえば使うし、使ってみれば案外はまったりする。*1

[英語版]You pulled yourself away at last and stood up.

[英語版の日本語訳]しばらくしてお前はついに私から離れて立ち上がった。

[原文]それからやつとお前は私を振りほどいて立ち上つて行つた。

ここでもなんとなく落ち着かなくて、英訳にはないが「しばらくして」とつけてみた。原文では「やつと」の前に「それから」がついていた。

pull yourself away はいい訳が思いつかなかった。原文は「振りほどく」第1回には「生い茂る」「眺め眺めやる」というのが出てきたが出てきたが、こういう複合動詞は苦手だから気にしていくようにしたい。とりあえず手元の辞書*2に載っている「振り~」という動詞を並べてみる。うまく使うと文章に勢いがつきそうな言葉たちだ。

振り合う、振り上げる、振り返る、振り替える、振りかける、振りかざす、振りかぶる、振り切る、振り込む、振り絞る、振り捨てる、降り出す、振り立てる、振り放す、振りほどく、振り回す、振りまく、振り乱す、振り向く、振り向ける、振り分ける

[英語版]Blades of grass clung to the still-wet canvas.

[英語版の日本語訳]まだ濡れているキャンバスに、ススキの葉がついていた。

[原文]まだよく乾いてはゐなかつたカンヷスは、その間に、一めんに草の葉をこびつかせてしまつてゐた。

still-wet はどういうことかイメージできていなくて(地面が濡れていたのかなくらいに思っていた)、「まだ濡れている」としてしまったが、原文の「まだよく乾いてはゐなかつた」を見て腑に落ちた。こういう残念な訳は避けたい。

「こびつかせて」の助動詞「せる」はなかなか面白い用法かもしれない。これのおかげで、英訳とは異なり「カンヷスは」を主語にすることができている。「草の葉が」で始めるよりも文章の流れがきれいだ。ぼくは「キャンバスに」と訳して、語順としては同じになっているが、やはり「は」を使っている原文の方が落ち着く。

[英語版]You set the painting on the easel, and at some pains you removed the grass with your palette knife. "Oh! If father could only see this place ..."

You spoke, turning toward me with a doubtful smile.

[英語版の日本語訳]お前は絵を画架に載せて、いくらか難儀そうに、パレットナイフでそれを取り除いた。
「ああ、お父様もこの景色をご覧になることができたら……」〔「ああ、こんなところをお父様に見られでもしたら……」〕
お前は曖昧な微笑を浮かべて私を振り返りながらそう言った。

[原文]それを再び画架に立て直し、パレツト・ナイフでそんな草の葉を除りにくさうにしながら、
「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかつたら……」
 お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧な微笑をした。

まず真ん中の「お前」の台詞は完全な誤訳だろう。日本語学習者の翻訳を見ていたことがあるせいで、こういうものの原文を推測する妙な勘が身についていて、this place「こんなところを」のことではないかと思いついてしまった。もちろんこの「ところ」は場面・状況というような意味だ。

せっかく話がまとまりかけたところに新たな難問が持ち上がってきた。
Just as things were coming to a settlement a new problem cropped up.
いいところへ来てくれた。
You have come ⸢at the right moment [at a good time].
二人でいるところを見られてしまった。
Somebody saw us together.*3

「お父様にでも見つかつたら」は「お父様に見つかりでもしたら」の方がより自然かもしれない。こういう表現がなかなか辞書には載っていない。

(1) 放っておいて、病気が悪くなりでもしたら、どうするんですか。
If you let it go and your illness gets worse, then what will you do?
(2) そんな大金、落としでもしたら大変だから、銀行に入れた方がいいですよ。
With such a large sum of money, it would be terrible if you lost it or something, so you'd better put it in the bank.
(3) そんなにいうならこのカメラ、貸してあげるけど、気をつけてよ、こわしでもしたら承知しないから。
If you're going to insist, I'll lend you this camera, but be careful—I'm not going to let you get away with it if you break it or something.
(4) こどものころ、妹を泣かしでもしたら、いつも一番上の兄に怒られた。
When I was a child, if I ever did something like make my little sister cry, my oldest brother would always get mad at me.*4

a doubtful smile はちょっと紋切り型っぽいかなと思いつつ「曖昧な微笑」と訳したら、見事原文通りだった。

ここの流れ全体を見ると、原文には you spoke に相当する部分がないことが注目される。「お前」が「草の葉を除りにくさうにしながら」何をしたのかが文法的にぼかされている。こういうルーズな書き方はぼくは避けたい気もするが、かといって「言った」を連発するのも芸がない。

3回目が終わって、いくつか迷っていることがある。一つは、もっと量をこなしたいので、今みたいに細かくコメントするよりもひたすら訳し進めていく方がいいかもしれないということ。また、もっとたくさんの文に触れるために、訳さずに原文と訳文を比べていくこともしたい。例えば「~は言った」みたいなのをどう処理するかというのは、こうやってちびちびやるだけでは見えてこないから。あと、英訳の質が低そうなのでフランス語版を使う方がいいのではないかとも思っている。そうすると日本語だけでなくフランス語のお勉強という側面も強くなってくるだろうけれど、それはそれで楽しそうだ。次々回くらいからやり方を変えていくかもしれない。

*1:ぼくの苦手な翻訳調と共通するある種の文体的特徴をうまく使うと、むしろ好きな調子になることがある。「僕の好きな君 その君が好きな僕/そうやっていつしか僕は僕を大切に思えたよ」(RADWIMPS「me me she」)みたいなのは全く悪くないし、バタ臭いとも感じない。

*2:『明鏡国語辞典』(大修館書店)。

*3:『新和英大辞典』第5版(研究社)。

*4:『日本語文型辞典 英語版』(くろしお出版)、p. 298。

堀辰雄『風立ちぬ』の英語版を日本語に訳してみる 2

前回に引き続き『風立ちぬ』の英語版を日本語に訳していく。英語の勉強ではなく、日本語を書く訓練のために。これが元々英語で書かれたものだとして、どれだけ自然で読みやすい良い日本語に訳せるかを試してみたい。もちろん翻訳には翻訳にふさわしい慎ましさというものがあるはずで、堀辰雄の原文がそのまま翻訳の練習の模範解答になるわけではない。そのあたりのことも、ただ読むだけでは大抵素通りしてしまうので、実際に『風立ちぬ』を書いてみることを通じて考えていこうと思う。

[英語版]One of those near-autumn afternoons, with your painting propped on its easel, we sprawled and nibbled fruit in the shade of that birch.

[英語版の日本語訳]秋も近づいたある日の午後、お前の絵が画架に立てかけられたまま、私たちはいつもの白樺の木陰に寝そべって果物をかじっていた。

[原文]そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だつた)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべつて果物を齧じつてゐた。

前回の段落では、「それらの夏の日々」に繰り返されたことが書かれていたが、今回のこの文からは、それらの日々の中の特定のある一日の話になる。ぼくの訳では one of those near-autumn afternoonsthose を抜かしてしまったが、原文では「そんな」という日本語が2つの段落の関係を端的に伝えている。(もっとも、「そんな日の或る午後」ではなくて「そんな或る日の午後」と言う方が正確てはないだろうか。)

with your painting propped on its easel はうまい訳がどうしても思い浮かばなくて、「お前の絵が画架に立てかけられたまま」という不自然な書き方をしてしまった。受け身を使っているのが変だし、そもそも「~が……したまま」という構文はかなり厳しい。前回見たように、ふつう「まま」の前後で主語が変わるものではない。ぼくが原文のように「私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま」と書けなかったのは、立てかけたのは「お前」であって「私達」ではないだろうと考えたからだった*1。しかしよく考えてみると、ここでの「私達は」は、「立てかけた」のが誰かではなくて、「立てかけたまま」にしようと判断したのが誰かを指している*2。だから原文のように書いて全く問題なかった。できるだけ同じ主語のまま長く続けるのが、読みやすい文章を書くコツの一つだという気がする(この話は後でもう一回出てくる)。

[英語版]Clouds like drifting sand slipped smoothly through the sky.

[英語版の日本語訳]漂う砂のような雲がなめらかに空を滑っていた。

[原文]砂のやうな雲が空をさらさらと流れてゐた。

原文の方が使っている言葉が平易で美しい。この「流れる」のような言葉が自分では思い浮かばない。

流れるような弁舌
eloquent [fluent] speech; a smooth tongue.
雲が東へ流れていく。
Clouds are drifting to(ward) the east.
煙が廊下を流れている。
Smoke is ⸢drifting [wafting] down the corridor*3

「さらさらと」は「雲」ではなく「砂」と結びつく言葉で、「砂のやうに」で始まる文にまとまりを与えている。ただ自分でこんな文を書こうとしても、ほとんどの場合格好つけすぎになってしまいそうだ。

「空をさらさらと」は原文のこの語順がいい。ぼくは「なめらかに空を」としたが、原文のように「空」を先にイメージさせてから「さらさらと」を読ませる方が、絵が豊かになる。

through the sky「空を」と訳したのは原文通りだった。こういう前置詞は多分このくらいあっさり処理するのがちょうどいいことも多い。

[英語版]Suddenly came a breeze from nowhere.

[英語版の日本語訳]突然、どこからともなく微風が吹いてきた。

[原文]そのとき不意に、何処からともなく風が立つた。

原文とぼくの訳を比べると、文から文への流れも原文の方がずっときれいだ。「不意に」の前についている「そのとき」にほとんど意味はなく、だからこそ英訳の訳者は省いてしまったのだろうけれど、この文章の調子にとってはなくてはならない言葉のように思えてくる。日本語に訳すときにこういう言葉をどれくらい勝手に入れていいかは、もっとたくさん例を集めてから考えたい。

[英語版]Through the leaves overhead we could see deep blue patches, swelling and shrinking.

[英語版の日本語訳]頭上の木の葉から覗くまだら状の紺色の空が、大きくなったり小さくなったりするのが見えた。

[原文]私達の頭の上では、木の葉の間からちらつと覗いてゐる藍色が伸びたり縮んだりした。

ここでも「藍色が」伸びたり縮んだりしたというのは格好よすぎて自分で書けなくても仕方ないと思うが、「まだら状の」は説明的すぎた。「ちらっと」は使いこなしたい。

車で通り過ぎるとき彼女の姿がちらっと見えた
I caught a glimpse of her when I drove past.
刑事は犯行現場の入口でちらっと警察バッジを見せた
The detective flashed his badge as he walked through the door to the scene of crime.*4

原文の「私達の頭の上では」が、ぼくの訳では「頭上の」となっている。ぼくは名詞への修飾を長くしすぎる癖があるかもしれない。前回も「一面に薄の生ひ茂つた草原の中で」に当たる部分を名詞への修飾で訳していた。

この文から何よりも学び取りたいのは、英語で we could see と書いてあっても、日本語では「のが見えた」などと書く必要がないということだ。「伸びたり縮んだりした。」と単純に書けば、それが「私達」の近くを通じて描かれていることは伝わる。

[英語版]We heard a plop onto the grass, like something toppling, the painting and the easel failing to the ground.

[英語版の日本語訳]草原に何かがよろめいたようなばたりという音がして、絵と画架が地面に倒れた。

[原文]それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばつたりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きつぱなしにしてあつた絵が、画架と共に、倒れた音らしかつた。

we could see を訳出しなくていいと書いた直後に、今度は全く逆に、ぼくが省いた we heard が、原文ではしっかりと「私達は耳にした」となっている。「物音がした」で十分な気もするが、あえて言うなら、「私達」にスポットライトを当て直す効果だろうか。

「私達がそこに置きつぱなしにしてあつた絵」は文法的に変な気がする。「私達が」をつけるならぼくなら「置きっぱなしにしていた絵」と言う。

failing は falling の誤植と判断して訳した。倒れた音「らしかつた」というのは、音だけ聞いてまだ見ていないから確信はないということだが、英訳では無視されている。

[英語版]You started up to set it right, but I held you back, not to lose the moment. You did not leave. You let me do it.

[英語版の日本語訳]お前は立ち上がってそれを直そうとしたが、私はこの瞬間を逃すまいとお前を押しとどめた。お前は離れずに、私になされるがままになっていた。

[原文]すぐ立ち上つて行かうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失ふまいとするかのやうに無理に引き留めて、私のそばから離さないでゐた。お前は私のするがままにさせてゐた。

ここでも日本語では主語をころころ変えない方がいいということが確かめられる。英語版では you, I, you, you と主語が4つ出てくる。ぼくの訳では「お前は」「私は」「お前は」の3つだが、原文では「私は」「お前は」の2つだけだ。最初の「お前は」がない代わりに、「すぐ立ち上つて行かうとするお前を」となっている。これはとても日本語らしい表現だ。英語で you who started up などとはまず言わないはずなので、自然な日本語で出てくるこういう形を、翻訳でもうまく使えるようにしたい。

「いまの一瞬の何物をも失ふまいとするかのやうに」は今回の中で一番好きな一節だが、英訳の not to lose the moment はさすがに乱暴すぎる気がする*5。ただ、「かのやうに」は考えるとよく意味が分からなくなってくる。自分の行動の意図くらい自分で分かっとけよ、と英語の訳者が思ったとしても不思議はないのかもしれないが、ここで「かのやうに」を取って「失ふまいと」とだけ書いてしまうと、なんだか力強くて、『風立ちぬ』の語り手のイメージからちょっとずれてしまう。

最後の「お前は私のするがままにさせてゐた」はちょっとぎこちない文だと感じる。ぼくは最初「くれる」を使って訳そうとしたが、うまく詩的に仕上げられなかったので「私になされるがままになっていた」とした。まだぎこちなさはあるかもしれないが、原文よりは自然で、訳文としては悪くない表現かもしれない。

今回はここまで。最初のうちはどうしても苦しい一般化が多くなったりしてしまうけれど、少しずつデータを溜めていって、いろいろ裏付けとかもして、自信を持って語れるようになればいいなと思う。

*1:フランス語訳は nous avions laissé la toile que tu venais de fixer au chevalet(私たちはお前が画架に載せた絵をそのままにして)となっており、立てかけたのは「お前」で、立てかけたままにしたのは「私達」だということを厳密に表現している。

*2:「電気をつけたまま寝てしまった」などというとき、電気をつけたのが誰かはどうでもいい。

*3:『新和英大辞典』第5版(研究社)。

*4:『ウィズダム和英辞典』第2版(三省堂)。

*5:フランス語訳は例によってもっと忠実に、comme pour ne rien perdre du moment que nous étions en train de vivre としている。